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第七話:月のない夜の来訪者

 軟禁から2ヶ月。

 その夜は月が出ていなかった。


 厚い雲が空を覆い、庭の松明だけが闇を薄く切り取っている。トビアスの部下が2人、門の脇で交代の巡回についていた。巡回の間隔は15分。リリアはそれを窓越しに毎晩記録していた。15分の空白の間、庭の南西角が5秒間だけ無防備になる。


 その5秒を、リリアだけが知っていた。


 眠れない夜だった。

 眠れない夜が増えていた。


 ヒカルの椅子に座り、窓の外を見つめる。暗殺施設では不眠は日常だった。4時間以上の睡眠は「怠慢」として矯正の対象だった。だから身体は耐えられる。問題は頭の方だ。何もしない時間が長くなるほど、思考が内側に巻き込まれていく。


 カインの「似ている」が、まだ喉に刺さっている。


 先週の金曜日、カインはいつも通りに訪問し、いつも通りにヒカルの話を聞き出し、いつも通りに去っていった。リリアはヒカルが書斎で使っていたペンの持ち方について答え、カインは3秒だけ黙り、「左利きの矯正をしなかったのは俺の判断だ」と言った。また2人でヒカルについて語った。また、あの共犯の快楽が——。




 窓の外で、何かが動いた。


 思考が止まった。身体が先に反応した。

 椅子から立ち上がり、壁際に移動し、窓の縁から外を覗く。動作は0.8秒。音はなし。暗殺施設の基本動作。


 庭の南西角。松明の灯りが届かない暗がり。そこに、3つの影が動いていた。


 塀を越えてきている。鉄の棘を布で巻いて乗り越えた痕跡。足音が不揃い——統制のない動き。装備の金属音が安い。軍人ではない。


 夜盗だ。


 帝国の東方辺境は治安が悪化しているらしい。教団の軍事力が竜の国との緊張に吸い取られ、辺境の警備が手薄になった結果、盗賊や無法者が横行するようになった。辺境伯の館は裕福な標的に見えるだろう。


 3つの影が庭に降り立った。巡回の空白は残り4秒。

 4秒の間に、正門側にいるトビアスの部下に気づかれずに館の1階に取りつくつもりだろう。


 リリアの身体は、命令より先に動いていた。


 机の上の食器ナイフを2本取った。銀の柄が掌に収まる。刃渡りは12センチ。殺傷能力は限定的だが、腱を切り、急所を打つには十分だ。


 メイド服の裾を膝上まで捲り上げ、素足で廊下に出た。石の床が冷たい。だが足音は消える。裸足の方が静かだ。


 階段を降りる。1段ごとに0.4秒。

 体重を爪先から乗せ、軋みが出る板を避ける。

 2週間の観察で、この階段のどの板が鳴るかは全て記憶している。


 1階の廊下。暗い。松明は消えている。

 この時間帯は館内に灯りがない。


 裏庭に面した勝手口から、金属を擦る音が聞こえた。

 錠前をこじ開けようとしている。安い道具だ。音が大きい。


 リリアは壁に背をつけ、勝手口の横に立った。

 ナイフを逆手に握る。呼吸を落とす。心拍が毎分55まで下がる。

 視界が暗闘に適応し、輪郭が浮かび上がる。


 錠が外れた。扉がゆっくり開く。


 1人目が入ってきた。痩身、短剣、革の外套。顔を布で覆っている。右利き。短剣を右手に持ち、左手で扉を押さえている。


 ——左手が塞がっている。


 リリアは壁から離れた。0.3秒で1人目の背後に回り、右手首の腱を食器ナイフの峰で打った。指が痙攣し、短剣が落ちる。左手を掴み、肘の関節を逆に捻り上げる。骨が鳴る直前で止めた。口を塞ぎ、首筋に指を当てて頸動脈を圧迫する。3秒で意識が落ちた。


 2人目が振り返った。仲間が消えたことに気づき、暗闇に目を凝らす。リリアは1人目の身体を音なく床に降ろし、2人目の足元に低く滑り込んだ。膝裏を蹴り上げる。体勢が崩れたところに、喉に肘を叩き込む。声帯が潰れ、声が出ない。側頭部に掌底。意識が飛ぶ。


 3人目が勝手口から飛び込んできた。他の2人より体格が大きい。手に持っているのは短剣ではなく手斧だ。振り回す腕力はあるが技術がない。リリアは手斧の軌道を読み、内側に踏み込んで柄を掴んだ。梃子の原理で手首を捻り、手斧を奪う。柄で側頭部を打つ。鈍い音。3人目が崩れた。


 7秒。


 3人全員が床に倒れている。

 全員が呼吸している。死者はいない。


 リリアは食器ナイフを机に戻し、勝手口の錠を閉め直した。それから——自分の手を見た。


 震えていない……。



 7秒の間、手は完璧に機能した。迷いがなかった。


 10年間封じてきた暗殺者の手が、命令を待たずに動いた。そしてその7秒間——リリアの頭の中は、完全に静かだった。カインの声も、ヒカルの記憶も、椅子の合わなさも、何もない。ただ「目の前の脅威を排除する」という明確な目的だけが、全ての雑音を消していた。


 足音が近づいてきた。トビアスだ。異音を聞きつけて駆けつけたのだろう。


「何事だ——!?」


 トビアスが松明を掲げ、1階の廊下を照らした。勝手口の前に3人の男が折り重なっている。その脇に、メイド服の裾を捲り上げた裸足の少女が立っていた。


 リリアは振り返った。

 メイドの微笑みを貼りつけた。


「夜盗が入り込んだようです。3名。武装は短剣と手斧。いずれも意識を失っていますが、命に別状はありません」


 声は穏やかだった。10年間磨いたメイドの声。だがトビアスの目が、リリアの手元を見ていた。食器ナイフに血はついていない。だが微かに——柄に汗の痕がある。


 トビアスは何か言おうとして、口を閉じた。




 ◇◆◇◆◇




 翌朝。


 報告を受けたカインが、予定を繰り上げて館に現れた。金曜ではない。水曜だ。パターンが崩れるのは2度目。


 縛り上げられた3人の夜盗が、裏庭に転がされている。カインは一瞥し、辺境伯に向き直った。


「処刑しろ!」


 声に感情がなかった。帳簿の誤字を正すような事務的な口調。


 エルヴィンの顔から血の気が引いた。


「ただの夜盗です。街の衛兵に引き渡せば——」

「この館の位置が知られる。護送すれば道筋が残る。ここで始末しろ」

「しかし——」

「辺境伯!」


 カインの声が1度だけ低くなった。それだけで、エルヴィンは黙った。抗えない力の差。辺境伯はカインの庇護なしにはこの領地を維持できない。それを互いに知っている。


 エルヴィンが部下に目配せした。


 夜盗たちが裏庭の奥へ連れ出されていく。1人が目を覚まし、声を上げた。「待ってくれ、俺たちはただ——」。

 声が途中で途切れた。


 リリアは2階の窓からそれを見ていた。




 自分が殺さなかった3つの命が、消えていく。7秒かけて生かした命を、カインが一言で消した。


 守った意味がなかった——そう思いかけて、止めた。

 殺さなかったのは自分の意志だ。殺したのはカインの論理だ。


 だがカインの論理は正しい。この館の位置が漏れれば、リリアの軟禁が外部に知れる。教団にとっても、カインの計画にとっても、それは許容できないリスクだ。3人の命より、秘匿が優先される。


 正しいことが、残酷だった。


 窓の外で、トビアスが裏庭の方角を見つめていた。表情が硬い。

 だが、トビアスも何も言わなかった。



 ◇◆◇◆◇



 処刑の後、カインがリリアの部屋に来た。


 いつもの椅子に座り、いつものように脚を組む。だが今日の声には、いつもの事務的な問診とは違うものが混じっていた。


「なるほど、食器ナイフで3人を7秒か」


 リリアはカインの顔を見た。笑っていた。先週の金曜日にヒカルの癖について語った時とは違う笑みだ。あの時は無自覚な満足だった。今のこれは——評価だ。


「暗殺施設の訓練を、メイドの10年間が鈍らせていないということだな。いや——メイドの仕事で手先の精度が増したか。面白い」


 リリアは答えなかった。「面白い」という感想が、自分に向けられたものではなく、自分という「道具」の性能に向けられたものだと分かっていたからだ。


「お前は優秀だな、リリア」


 褒め言葉が、宣告に聞こえた。


 この男は今、リリアの価値を再査定している。「捨てるには惜しい」から、もう一段上の評価に引き上げている。使い道がまだ漠然としていたものが、少しだけ具体的になりつつある。


 リリアにはその輪郭がまだ見えない。だがカインの目の奥に、計算が動いているのは分かった。


「お前に1つ聞きたい」

「何でしょうか?」

「あの3人を、なぜ殺さなかった?」


 沈黙が落ちた。


 なぜ殺さなかったのか。技術的には可能だった。食器ナイフの角度を変え、頸動脈を切れば1人3秒で終わる。3人で9秒。殺す方が確実で、静かで、後始末も楽だ。暗殺者の論理では、殺さない理由がない。


 だがリリアは殺さなかった。


「……分かりません」


 正直な答えだった。


 カインが目を細めた。その反応を予測していたように。


「分からない、か。——ヒカルもそう言ったことがある。竜巣の攻略で、なぜ竜を殺さなかったのかと聞いた時だ。あいつも『分かりません』と答えた」


 リリアの手が、膝の上で僅かに動いた。


「お前とあいつは、そこが似ている。殺せるのに殺さない。その矛盾を説明できないまま、ただそう在る」


 カインが立ち上がった。


「俺はその矛盾が嫌いでね。だが——道具としては、殺さない方が使い勝手がいい場合もある」


 扉に向かう。今日は背中越しに、もう一言だけ付け加えた。


「もうすぐ、お前の仕事が決まるだろう。それまで身体を鈍らせるな」


 足音が消えていく。


 リリアは窓から裏庭を見た。夜盗たちの身体はもう片付けられていた。土が掘り返された跡だけが、朝日の中に暗い染みとして残っている。


 自分が殺さなかった命を、カインが消した。そしてカインは、リリアが殺さなかった理由を「ヒカルと似ている」と解釈した。


 殺さなかった理由。


 本当に分からない。暗殺施設の訓練では「殺せ」と教わった。

 10年間のメイド生活では「殺すな」と教わったわけではない。ただ——ヒカルの傍にいる間、殺す必要がなかっただけだ。


 必要がなかったから、殺さなかった。それだけのことなのか。それとも——ヒカルの傍にいた10年が、暗殺者の手に別の何かを上書きしたのか。


 リリアには分からなかった。




 分からないまま、夕方になった。

 マルタが夕食を運んできた。盆を置き、昼食の食器を下げる。いつもの手順。


 だが今日、マルタの目がリリアの手元を見た。一瞬だけ。食器ナイフが朝の位置から動いていないことを確認するような視線。


 それから、いつも通り部屋を出ていった。


 リリアは食器ナイフを見つめた。銀の柄。昨夜、3人の命を止めた道具。そして——殺さなかった道具。


 同じナイフが、守る道具にも殺す道具にもなる。

 どちらとして使うかを決めるのは、持つ手だ。


 リリアは右手を開いた。まだ震えていない。昨夜の7秒の静寂が、指先に残っていた。


【第八話:事後処理と観察者たち につづく】


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