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第六話:鏡としての役割

 金曜日。カインの馬車が門前に停まる音で、リリアは時刻を知った。


 14時20分。先週より8分遅い。

 些細な差だが、リリアはそれを記録した。カインの到着時刻が揺らぐのは初めてだった。この男の行動パターンには、これまで誤差がなかった。


 軟禁から6週間が経っていた。


 肋骨の痛みは消えた。左肩も動くようになった。鎮痛薬はとうに尽きたが、もう必要ない。身体は回復している。だが身体だけだ。


 窓の外を覗くと、カインが馬車から降りるのが見えた。外套を正し、門をくぐる。辺境伯エルヴィンが出迎えに出ている。2人の会話は聞こえないが、エルヴィンの表情が硬い。カインが何か短く言い、エルヴィンが頷く。辺境伯の肩が僅かに落ちたのをリリアは見逃さなかった。




 15分後。ノック。


「入るぞ」


 扉が開き、カインが入ってきた。いつもと同じ仕立ての良い外套。身嗜みに隙がない。だが——靴の泥が左足だけ僅かに多い。馬車を降りてから門までの間に、一度だけ足を止めたということだ。考え事をしていた痕跡。


 カインはヒカルの椅子に座った。


 いつもそうする。ヒカルのために作られた椅子に、当然のように腰を下ろす。カインの体格にはちょうどいい。ヒカルとカインは背丈が近い。座った時の重心の位置がほぼ同じだ。


 リリアは向かいの補助椅子に座った。この部屋に「リリアのためのもの」は何もない。


「怪我の具合は?」

「完治しました」

「不足しているものは?」

「ございません」


 いつもの問答。だが今日は、カインの声が僅かに速かった。普段は質問と質問の間に2秒の間を置く。今日は1.5秒。0.5秒の差。焦りではない。この男は焦る人間ではない。だが——何かが、彼の頭を占めている。


「質問を変えよう」


 カインが脚を組み直した。


「ヒカルが作戦を立てる時の癖を教えろ。どこから考え始める? 兵力配置か。地形か」

「敵の事情からです」


 リリアは即答した。この問いには答えられる。10年間、書斎で作戦図を広げるヒカルの傍に控えてきた。茶を淹れ、灯りを調整しながら、あの人の独り言を全て聞いていた。


「ヒカル様はまず、敵が何を恐れているかを考えます。敵の恐怖を理解すれば行動が予測できる。予測できれば、戦わずに済む方法が見つかる。——そう仰っていました」


 カインの指が、肘掛けの上で止まった。


「戦わずに済む方法、か。——あいつらしいな」


 声の色が変わった。事務的な問診の声ではない。もう少し低い、もう少し近い声。ヒカルについて語る時だけ現れる声だ。


「あいつが14の時、北方の竜巣を攻略した作戦を覚えているか? 正面の囮部隊に注意を集め、地下水脈から核に到達した。犠牲は0。あの発想は俺にはなかった」


 当然、リリアは覚えている。あの夜、ヒカルは書斎で3日間眠らずに地図を睨んでいた。リリアが淹れた緑茶を5杯飲み干し、6杯目でようやく「分かった」と呟いた。


「あの時は緑茶を6杯……」


 言ってしまってから、しまったと思った。だがカインの反応は叱責ではなかった。


「6杯か。——俺は知らんかったな、そんな細部は」


 微かに笑った。嘲りではない。もっと複雑な——何かを共有できたことへの、無自覚な満足のような。


 カインはヒカルの師だった。戦術と戦略を教えた。

 だが、ヒカルの日常——朝の寝癖、読書中に眉間に皺を寄せる癖、緑茶の杯数——を知っているのはリリアだけだ。カインが持ち得ない情報を、リリアは持っている。


 そしてカインは、その情報に飢えている。


 自分でもそれを自覚していないのだろう。「情報収集」だと思っている。部下の査定、駒の性能確認。——だが声の温度が裏切っている。ヒカルについて語る時のこの男は、指揮官ではない。理解者であり続けたいと渇望する、孤独な男だ。


 リリアはその渇望を見て、怖くなった。鏡を見たからだ。

 自分の中にある同じ形の感情を……。






 カインが立ち上がり、扉に向かった。


 リリアは口を開いた。

 6週間で初めて、自分から問いを発する。


「カイン様。1つだけ、お聞きしてもよろしいでしょうか?」


 カインが足を止めた。振り返らない。


「ヒカル様は……ご無事なのでしょうか?」


 声が平坦であるよう注意した。懇願ではなく、情報の要求として。メイドが主の安否を確認するのは職務の範囲だ。感情ではなく義務として尋ねている——そういう体裁を作った。


 カインは3秒黙った。情報を出すか出さないか。出すとすればどこまでか。


「死んではいないようだ」


 短い答え。

 だが、その後に少しだけ続けた。


「竜の国で、古王の体制に歯向かう勢力が出てきている。教団の偵察隊が何度か接触を試みたが、結界に阻まれて詳細は掴めていない」


 一度言葉を切り、窓の外に目を向けた。


「ただ——その反乱勢力の戦い方に、気になる点がある。竜族の武力だけではない。偵察隊の報告によると、奇襲のタイミング、陽動の配置、兵力の運用に——竜のものとは異なる思考が混じっている」


 リリアの心臓が跳ねた。だが身体は動かさなかった。


 竜のものとは異なる思考。人間の戦術。


(——ヒカル様だ)


 確信した。あの戦い方を、リリアは10年間見てきた。敵の恐怖を読み、犠牲を最小化し、正面からぶつからずに勝つ。ヒカルの戦術だ。


 カインも同じ推測をしているはずだ。だが口には出さなかった。リリアも口には出さない。この情報を2人が共有し、そして2人とも名前を言わない——その沈黙の中に、奇妙な共犯関係が生まれていた。


「それだけだ」


 カインが扉を開けた。


「情報は対価だ、リリア。次に何かを聞きたければ、お前も何かを差し出せ」


 足音が廊下に消えていく。




 リリアは椅子に座ったまま、動かなかった。


 ヒカルは生きている。竜の国にいる。

 そして——戦っている。人間の戦術で、竜族と共に。


 あの断崖で見た紅蓮の竜。あの竜は、ヒカルを殺しに来たのではなかった。

 共に戦う相手として、連れ去ったのだ。


 それを喜ぶべきだった。

 喜ぶべきなのに——胸の奥で、小さな棘が回転していた。


 ヒカルの隣にいるのは、自分ではない。竜の姫たちだ。リリアではなく、あの紅蓮の竜が。


 そして——カインとヒカルについて語り合った数分間のことを思い返すと、別の棘が刺さった。


 カインがヒカルを語る時の声の温度。リリアがヒカルの癖を共有した時の、あの無自覚な満足。2人でヒカルという存在を分析し、理解し、言葉にする——その行為自体に、確かな快楽があった。


 それは「理解者同士の共犯」だった。


 カインの独占欲と、自分がヒカルに抱く感情。構造が同じだと気づいたのは先週だ。だが今日、もう一歩深い場所に足を踏み入れてしまった。カインと「ヒカルについて語る」ことの快楽を知ってしまった。


(私はあの人と違う)


 繰り返した。だが先週より、その言葉の強度が落ちていた。



 ◇◆◇◆◇



 夜。マルタが夕食の食器を下げに来た。


 いつもの手順。盆を持ち、食器を重ね、扉に向かう。


 マルタの背中を見ながら、リリアは思った。


 マルタは誰かの理解者ではない。誰かを独占しようともしない。ただ仕事をしている。手順通りに、正確に、毎日同じことを。


 そこには独占欲がない。執着がない。誰かに依存する構造がない。


 マルタのようになれたら——と、一瞬だけ思った。すぐに打ち消した。マルタのようになることは、「リリア・シャイニング」をやめることだ。名前の意味を捨てることだ。


 カインの「似ている」を否定するためには、自分がリリアであり続けるしかない。だがリリアであり続ける限り、カインとの類似から逃れられない。


 唇だけが動いた。


(私は、リリア・シャイニング。ヒカル様の、メイド。——あの人とは、違う)


「違う」の語尾が、心の中で震えていた。先週より少しだけ、大きく。


 窓の外で白い月が昇っている。


 カインが次に来るのは来週の金曜日だ。あと6日。あの男が次に何を聞くのか、分からない。だが1つだけ確かなことがある。


 カインはまた、ヒカルの話をするだろう。そしてリリアは、また答えるだろう。ヒカルについて語ることが——どちらにとっても、この軟禁生活で唯一の、生きた時間だから。


 その事実が、何よりも怖かった。


【第七話:月のない夜の来訪者 につづく】


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