第五話:カインのいない火曜日
火曜日は、カインが来ない日だった。
軟禁から2週間。カインの訪問パターンをリリアは既に記録していた。
金曜日の午後に馬車で到着し、土曜日の朝に発つ。滞在時間は平均16時間。その間にリリアの部屋を1度だけ訪れ、体調を確認し、2つか3つの質問をして去る。
先週の訪問では、質問が1つだけ増えた。
「ヒカルは紅茶と緑茶のどちらを好んだ?」
唐突な問いだった。リリアは一瞬だけ間を置いてから答えた。
「緑茶です。渋みの強いものを好まれました」
カインは頷き、何かを手帳に書きつけて去った。ヒカルの行方に関する情報は一切語らなかった。あの質問が何を意味するのか——カインがヒカルの嗜好を記録する理由が何なのか、リリアには分からない。
だが、1つだけ確かなことがある。カインはまだヒカルを諦めていない。「使い道が見つかるだろう」と言った男は、使い道を探し続けている。
それ以外の5日間、カインは来ない。
来ない日の方が、長い。来ない日には何も起きない。
マルタが7時に朝食を運び、12時に昼食を運び、18時に夕食を運ぶ。トビアスの部下が庭を巡回する。窓の外の景色は変わらない。丘陵と森と空。
何も起きないことの重さを、リリアは日ごとに学んでいた。
暗殺施設の独房では、少なくとも訓練があった。殴られ、走らされ、技術を叩き込まれた。痛みと疲労が時間を刻んでいた。ここにはそれがない。痛みは肋骨の鈍い疼きだけで、それすら日ごとに薄れていく。
火曜日の朝。マルタの足音が廊下に響く。7時ちょうど。
「食事です」
盆を置き、去っていく。所要時間47秒。昨日と同じ。一昨日と同じ。
リリアはスープを口に運んだ。味は分かる。
だが「美味しい」とも「不味い」とも感じない。
舌が機能しているが、感情が接続されていない。
食事を終え、食器を盆に戻した。マルタの配膳と同じ配置に並べる。スープ皿は左、パン皿は右、果物の小鉢は奥。なぜそうするのか、自分でも分からない。ただ、手順を再現することが何かを繋ぎ止めている気がした。
10年間、ヒカルの食器を片付けてきた手が覚えている秩序。食器には正しい位置がある。正しい位置に戻すことが、世界を保つ。
それがどれほど脆い秩序であるかを、リリアは知っていた。
◇◆◇◆◇
いつもの午後。
部屋の中を歩く日課を終え、窓際に立った。庭ではトビアスが部下に剣術の指導をしている。声が微かに届く。「腰を落とせ。腕だけで振るな」。実直な声。
トビアスが顔を上げた。2階の窓のリリアと目が合う。
笑った。先週と同じ、屈託のない笑顔。手を挙げて何か言おうとしている。口の形で読めた。「散歩でもいかがですか」。
右手が震え始めた。
先週と同じだ。善意の笑顔がトリガーになる。だが今日は先週より震えが深い。指先だけでなく、手首から肘まで。右腕全体が、何かを掴もうとするように痙攣する。
——そこに、記憶が流れ込んできた。
抵抗する間もなく、視界が変わった。
灰色の壁が消え、陽光が射し込む庭が広がる。
ヒカルの屋敷、クレイヴ家の庭。白百合が咲いていた。
初めてこの庭に立った日のことを、リリアは正確に覚えている。
暗殺施設から逃げ出し、泥道で倒れていたところをヒカルに拾われて数日後。
傷の手当てを受け、初めてまともな食事を与えられ、清潔な服を着せてもらった。それでもまだ、少女は一言も喋らなかった。喋る習慣がなかった。施設では号令と番号以外の発声は矯正の対象だった。
8歳のヒカルが庭に連れ出してくれた。白百合の花壇の前でしゃがみ込み、1輪の花を指さした。
「この花、知ってる? 百合っていうんだ。白くて綺麗でしょ」
少女は頷かなかった。「綺麗」という概念を持っていなかった。
「君の名前、まだ聞いてなかったよね。教えて?」
首を横に振った。名前はない。番号ならある。だが番号を言えば、施設にいたことがばれる。ばれれば連れ戻される。だから何も言わなかった。
ヒカルは困った顔をした。それから、白百合をもう一度見つめて、ぱっと顔を輝かせた。
「じゃあ、僕がつけていい?」
少女は黙っていた。黙っていることが同意だと、ヒカルは受け取った。
「リリア。この百合みたいに。リリア」
胸の奥で、何かが動いた。名前のなかった空洞に、音が落ちてきた。りりあ。4つの音。それだけのことなのに、世界の手触りが変わった。
少女の目から、水が出た。
泣き方を知らなかった。頬を伝う液体が涙だと理解するのに3秒かかった。
鼻の奥が痛くて、喉が詰まって、視界が揺れた。施設では「目から水が出る現象」は報告対象であり、矯正の対象だった。だから怖かった。壊れたのかと思った。
「泣いてるの? 嫌だった?」
ヒカルが慌てた。少女は首を横に振った。
嫌ではない。嫌の反対だ。だがその感情の名前を知らなかった。
「よかった。泣いてるけど嫌じゃないんだね」
ヒカルが笑った。安堵したように、嬉しそうに。それから少女の涙を覗き込んで、不思議そうに言った。
「涙って光るんだね。キラキラしてる。——そうだ、シャイニング。リリア・シャイニング。明るく輝く百合。どう? フルネームがあった方がかっこいいよ」
リリア・シャイニング。
名前と姓。番号だった少女に、人間としての輪郭が与えられた瞬間だった。白百合の花と、涙の光。それが自分の名前の由来。ヒカルが8歳の語彙で、精一杯考えてくれた名前。
あの日から、「リリア・シャイニング」という名前が世界の全てになった。
——痛みで、現実に引き戻された。
左手が右手の甲に爪を食い込ませていた。三日月型の痕が4つ、皮膚に赤く刻まれている。
窓の外では、トビアスがまだ部下の指導を続けている。リリアが窓辺から消えたことに気づいたのか、一瞬だけ2階を見上げて、それからまた訓練に戻った。
カーテンを引いた。
部屋が薄暗くなる。
善意の笑顔がトリガーになる。誰かがまっすぐに自分を見つめると、その目がヒカルに変わる。ヒカルが見えると、右手が震え始める。
なぜ震えるのか。何を掴もうとしているのか。
リリアはまだ、その答えに辿り着いていなかった。だが身体は知っている。理由より先に、反応が来る。
カインがいなくても、この館の全てがリリアを削っている。何も起きない火曜日が、壁のない独房として機能している。
◇◆◇◆◇
18時。
時間通り、マルタが夕食を運んできた。
盆を置き、昼食の食器を下げる。リリアがマルタの配膳と同じ配置に食器を戻していることに、マルタは気づいているだろうか。気づいていても、何も言わないだろう。この人は業務の外に一歩も出ない。
扉に向かうマルタの背中を見ながら、リリアは自分の両手を見下ろした。
右手。善意に反応し、ヒカルを探し、何かを掴もうとする手。
左手。右手を押さえ、爪を食い込ませて震えを止める手。
2つの手が1つの身体に収まっている。
メイドの手。暗殺者の手。
そしてもう1つ——まだ名前のない手が、指先の奥で息を潜めている気がした。
マルタの足音が遠ざかる。規則正しく、一定の速度で。
リリアは唇だけを動かした。
(私は、リリア・シャイニング。ヒカル様の、メイド)
今日はフルネームで唱えた。名前だけでは足りない気がした。姓まで含めて、自分の輪郭を確かめなければ。白百合と涙の光。8歳の少年がくれた、人間としての全て。
カインが金曜日に来る。あと3日。
あの男が次に何を聞くのか、分からない。ヒカルの好きな食事か。朝の癖か。それとも——もっと深いものか。
窓の外で、赤みを帯びた月が雲の切れ間から覗いていた。
【第六話:鏡としての役割 につづく】
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