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第四話:客人という名の備品

 マルタの足音で目が覚めた。


 7時ちょうど。壁の時計を見なくても分かる。昨日も一昨日も、マルタは7時ちょうどに廊下を歩き、7時と12秒で扉をノックし、7時と15秒で「食事です」と告げた。歩幅は62センチ、速度は毎秒1.1メートル。靴底が石畳を打つリズムに乱れは一切ない。


 軟禁から5日が経っていた。


 肋骨の痛みは鎮痛薬で抑えている。カインが出発前に渡した瓶の中身は残り3日分。それが尽きた後のことは考えない。考えても仕方がない。


 ノック、3回。

 間隔は均等。


「食事です」


 扉が開き、マルタが盆を持って入ってきた。灰色の髪を低い位置で束ね、黒いエプロンドレスに皺1つない。盆の上にはスープ、黒パン、干し果物。配置は昨日と寸分違わない。スープは左手側、パンは右手側、果物は奥。


 リリアはベッドから身を起こし、テーブルについた。ヒカルの体格に合わせて作られた椅子の座面が広すぎ、足が床にぎりぎり届く。5日経っても、この「合わなさ」には慣れない。慣れてはいけないとも思う。慣れれば、自分が代用品であることを受け入れたことになる。


 マルタは盆を置き、一礼して踵を返した。


「マルタさん」


 呼び止めたのは衝動だった。5日間、この部屋で聞いた人間の声は、マルタの「食事です」と「下げます」だけだ。


 マルタが足を止めた。振り返らない。


「……何でしょう?」

「ありがとうございます。いつも」


 沈黙が落ちた。1秒。2秒。マルタの肩甲骨がわずかに動いた。呼吸が変わった——のではなく、変わりかけて戻した、という微細な動き。リリアの目はそれを捉えた。


「務めですので……」


 それだけ言って、マルタは部屋を出た。扉が閉まる。足音が遠ざかる。歩幅62センチ、毎秒1.1メートル。寸分の乱れもなく。


 リリアはスープに口をつけた。塩加減は適切で、パンは焼きたてではないが硬すぎない。必要十分な食事。それ以上でも以下でもない。マルタの仕事は完璧だ。完璧だからこそ——温度がない。


 メイドとしての自分が、その完璧さに反応する。あの手つき、あの段取り、あの無駄のなさ。20年以上の経験が滲む仕事。同じ道を歩む者として、敬意を覚えずにはいられない。


 だが同時に、この完璧さは「管理」の道具でもあった。決まった時間に決まった食事を運ぶ。体調を維持させ、逃亡も自死もさせない。リリアという「備品」を最良の状態で保管するための手順。



 ◇◆◇◆◇



 その日の午後。


 リリアは部屋の中を歩いていた。肋骨が痛むが、筋力の衰えを防ぐために動かなければならない。暗殺施設の教えだ。「3日寝れば7日分の筋力を失う」。


 窓際を通りかかった時、足が止まった。


 窓の外に、庭が見える。手入れされた芝生と、石畳の小道。塀の向こうに丘陵地帯が広がり、遠くに森の稜線が霞んでいる。穏やかな景色。だが塀の上部には鉄の棘が並び、門の脇にはトビアスの部下が2人、交代で立っている。


 視界の端に動きがあった。トビアスだ。庭の隅で剣の素振りをしている。正確で力強い太刀筋。教団の正規兵とは異なる、辺境の実戦叩き上げの動き。


 トビアスがふと顔を上げ、2階の窓のリリアと目が合った。


 笑った。


 屈託のない、裏のない笑顔。「今日もいい天気ですね」とでも言いたげな、善意そのものの表情。


 ——その瞬間、リリアの右手が震え始めた。


 笑顔。まっすぐな目。

 裏のない善意。


 8歳の少年が泥道で駆け寄ってきた記憶が、網膜の裏で発火した。


「大丈夫?」


 あの声。あの目。あの笑顔。トビアスの顔がヒカルに重なる。重なった瞬間、指先から肩まで、右腕全体が細かく震え始める。


 リリアは窓から離れた。カーテンを引く。震える右手を左手で掴み、爪を掌に食い込ませた。痛み。痛みで震えが収まるまで、7秒かかった。


(——何だ、今のは?)


 自分の反応が理解できなかった。トビアスはただ笑っただけだ。善意の笑顔。それだけのことで、身体が暴走した。


 善意が怖い。誰かがまっすぐに自分を見つめると、その目がヒカルに変わる。ヒカルが見えると——何かが、指先から走り出す。


 何が走り出すのか。リリアにはまだ分からなかった。


 椅子に座り、膝の上で両手を組んだ。震えは止まっている。だが指先の感覚がまだおかしい。何かを掴もうとしていた。何を。


 ——ヒカルが12歳の時に渡してくれた護身用の短剣を。


 あの短剣は、断崖で折れた。もうここにはない。なのに右手が、それを握る形に固まっていた。


 リリアは自分の右手を見つめていた。


 開いた掌。もちろん何も握っていない。


 何も……。



 ◇◆◇◆◇



 夜が訪れた。


 マルタが夕食の食器を下げに来た。いつも通りの手順。

 盆を持ち、食べ残しの有無を確認し、使用した食器を重ねる。全ての動作が正確で、リリアの存在に一切の関心を払わない。


 扉に向かうマルタの背中を見ながら、リリアは——ふと、暗殺施設の独房を思い出していた。


 あの灰色の壁。灰色の床。窓のない部屋。番号だけの世界。名前はなく、日付もなく、ただ訓練と食事と睡眠だけが繰り返される日々。壁に爪で線を引いた。何本引いたか覚えていない。数えることに意味がなかった。


 でも、あの独房とこの部屋は、何が違う。


 まず、壁紙の色が違う。

 窓がある。書棚がある。

 そして、椅子がある——自分の体に合わない椅子が。


 だが本質は同じだ。誰かの意志で閉じ込められ、誰かの都合で生かされている。


 そうだ。違いは、1つだけあった。


 あの独房にいた少女には、名前がなかった。

 今の自分には——「リリア」がある。


 唇だけが動いた。声にはならなかった。


(私は、リリア。ヒカル様の、メイド)


 暗い部屋の中で、その言葉だけが、杭のように意識の底に打ち込まれた。


 窓の外は暗い。月は出ていない。庭の向こうで、トビアスの部下が松明を持って巡回している。松明の灯りが窓格子の影を壁に落とし、ゆっくりと動いていく。




 6日目の夜が更けていく。


 明日も7時ちょうどに、マルタの足音が聞こえるだろう。スープは左手側、パンは右手側、果物は奥。何も変わらない。何も起きない。


 この「何も起きない」ことが、どれほど人間を壊すか。暗殺施設で学んだはずだった。だがあの頃は、壊れる自分を客体化する能力がなかった。番号には、壊れるための「自分」がなかったから。


 今は違う。リリアには「リリア」がある。壊れゆく自分を観察できる目がある。


 その目が、今夜初めて、1つの事実を記録した。


 善意の笑顔がトリガーになる。


 なぜそうなるのか、まだ分からない。

 だが、この身体は知っている。理由より先に、反応が来る。


 リリアは暗い天井を見上げたまま、眠らなかった。


【第五話:カインのいない火曜日 につづく】


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