第三話:空の揺り籠
泥の味がした。
それが、意識が戻って最初に認識したものだった。口の中に泥と砂利が詰まり、舌の上で鉄の味が混じっている。自分の血だ。
次に痛み。右の肋骨が少なくとも2本折れている。呼吸のたびに胸の内側で骨の断端が擦れ、鋭い痛みが肺を突く。左肩が外れかけており、指先の感覚が遠い。全身の擦過傷から滲む血が、濡れた衣服をぬるく温めている。体温で温まった血と、濁流に冷やされた布の温度差。それを感知できている自分は、まだ生きている。
目を開けた。
天幕の天井だった。粗末な帆布を木の枝で支えた、野営用の簡易天幕。雨が布を叩く音がする。松明の灯りが揺れ、影が壁面を這っていた。
見知らぬ場所。見知らぬ天幕。——だが、1つだけ知っている気配があった。
「よく生きていたな」
カイン・グリムウッドが、天幕の入口に腕を組んで立っていた。
外套の肩に雨粒が光っている。泥は跳ねていない。馬で来て、天幕まで歩く間に足元だけが僅かに汚れた程度。この男は自分の身体を汚すことを好まない。
リリアは答えなかった。答える立場にない。自分はこの男の部下ですらない。ヒカル・クレイヴの個人的な使用人——メイドだ。教団の階級においては、カインの視界に入ることすら本来ありえない存在。それが今、この男の天幕の中で目を覚ましている。
生かされている。その事実だけが、状況を語っていた。
「ヒカル様は?」
口が先に動いた。思考より先に。メイドの本能だ。主の安否を確認する——それが、目覚めて最初にすべきこと。
カインの目が、一瞬だけ細まった。
「分からん」
意外な答えだった。カインほどの男が「分からない」と言うのを、リリアは初めて聞いた。
「生き残った騎士が1人いた。全身を焼かれて半死半生だったが、証言は取れた」
カインが天幕の中に入り、野営用の椅子に腰を下ろした。リリアを見下ろす位置。力関係が自然に可視化される配置。この男はそういうことを無意識にやる。
「上空から炎竜が降りてきた。一撃で精鋭騎士のグレイズの部隊が蒸発した。20名が、だ。——下位の竜にできる芸当ではない。おそらく上位個体。下手をすれば王族クラスだろう」
王族クラスの竜。リリアの脳裏に、あの紅蓮の翼が蘇った。落下しながら見上げた空。暗雲を引き裂いて降りてきた巨大な影。月光を弾く鱗。
「竜がヒカルを攫った。生きているのか、殺されたのか。攫った目的が何なのか。——現時点では分からん」
カインの声は淡々としていた。だがリリアは聞き逃さなかった。僅かな苛立ちが、語尾に滲んでいる。「分からない」ことへの苛立ちだ。カインは常に全てを把握し、全てを制御する側にいた男だ。制御の外に変数が生じたことを、この男は許容できない。
「それで、私を?」
「お前は川下の浅瀬に引っかかっていた。俺の斥候が見つけた」
カインが腕を組み直した。
「正直に言えば、死んでいると思っていた。だが生きていた。——であれば、捨てるには惜しい」
捨てるには惜しい。
道具に対する評価だった。刃が欠けた短剣をまだ使えるか品定めするような声。リリアはその言い方に怒りを覚えなかった。怒る立場にないことを知っている。暗殺施設で学んだことの1つ。力を持つ者の前では、感情は身を守る盾にならない。むしろ弱点を晒す隙になる。
「ヒカルの行方が判明するまで、お前にはある場所で待機してもらう」
「待機……」
「辺境に俺の使える館がある。そこにいろ。治療と回復も兼ねる。——いずれ使い道が見つかるだろう」
使い道。餌とも駒とも言わなかった。まだ方針が固まっていないのだ。竜の介入という想定外に、カインの計算は一時停止している。リリアという駒をどう使うかは、ヒカルの状況が判明してから決める——そういう判断だ。
リリアは天幕の天井を見つめた。粗末な帆布の向こうに、まだ雨の気配がある。
逆らっても意味がない。カインに楯突いたところで、教団の上級指揮官と個人のメイドでは力の差がありすぎる。すぐに騎士たちに取り押さえられて、反逆者として即刻処刑されるだろう。また、逃げたところで、行く場所がない。ヒカルがどこにいるかも分からない。
生かされている。使い道があるから。
その「使い道」の先にヒカルがいる可能性がある限り————。
針に糸を通すような可能性に賭けるしか————。
「……承知しました」
声に抑揚はなかった。従順でも反抗でもない、ただの事実確認としての返答だった。
「ふん。随分と聞き分けがいいものだな」
カインが立ち上がった。
「3日で歩けるようにしろ。移動する」
天幕を出ていく足音。規則正しく、迷いがない。この男は常にそうだ。自分が正しいと確信している人間の足音。
リリアは折れた肋骨を庇いながら、息を吐いた。
利用価値がある。つまり、まだ切り捨てられない。
それは希望ではなかった。もっと冷たい、暗殺施設で叩き込まれた生存の計算だった。使い道がある間は生き延びる。感情は後回しだ。
天幕の外で、雨音が少しだけ弱まった。
◇◆◇◆◇
3日後。
リリアはカインの馬車に乗せられ、帝国の東方辺境へ向かっていた。
肋骨の痛みは引いていない。
だが、カインが手配した鎮痛薬が、動ける程度には身体を保っている。暗殺施設での訓練には「肋骨2本程度で任務を中断するな」という教えがあった。あの頃の教えが、こんな形で役に立つとは思わなかった。
馬車の窓から見える景色は、グランツェリア帝国の東方辺境。起伏の緩い丘陵地帯に、まばらな森と牧草地が続いている。教団本部のある帝都からは馬車で2日。人の目が少ない土地だ。
カインは馬車の中で書類に目を通していた。リリアとは一言も話さない。メイドに話しかける用事がないのだから当然だ。リリアもまた、口を開かなかった。窓の外を見つめ、移動距離と方角を記憶に刻んでいた。いつか必要になるかもしれない情報として。
それにしても、目隠しも何もされない。すべて状況を把握されてしまうというのに、この警備の緩さはなんだろう。リリアは違和感を覚えていた。
「着いたぞ」
馬車が停まった。カインが先に降り、リリアに手を貸すこともなく門の方へ歩いていく。
リリアは馬車を降り、目の前の建物を見上げた。
辺境伯の館。石造りの3階建て。壁面は苔むし、屋根は補修の跡が目立つが、構造そのものはしっかりしている。庭は手入れされ、門柱には辺境伯家の紋章が刻まれていた。一見すれば、辺境の名家の穏やかな住まい。
だがリリアの目は、別のものを捉えていた。
窓の格子。1階は装飾を兼ねた鉄格子。2階以上は木製の格子だが、間隔は人間の頭が通らない幅に設定されている。庭の塀は高さ3メートル。上部に鉄の棘。正門以外の出入口は——1つ。裏庭に面した勝手口。だがそこにも鉄の扉と錠前がある。
見目は穏やかだ。だが構造は、監獄だった。
正門が開き、3人の人影が出迎えに立った。
中央に立つのは50代の痩身の男。銀髪を後ろに撫でつけ、仕立ての良い外套を纏っている。辺境伯エルヴィン。リリアと目が合った瞬間、視線が泳いだ。カインの方を窺い、それからリリアに戻る。口元が引き攣っている。
「大切な客人だ。丁重に扱え」
カインが言った。嘘を、全員が知っていた。
左に立つ女。40代半ば、灰色の髪を低い位置で束ねている。痩せた体躯に黒いエプロンドレス。目に感情がない。家政婦長マルタ。
「食事は7時、12時、18時。洗濯物は朝に回収します。ご用があれば呼び鈴を」
温度のない声だった。業務の説明以上でも以下でもない。
右に立つ男。30代前半、護衛兵の制服を着た筋肉質の男。短い茶髪、日焼けした肌。護衛兵長トビアス。——この男だけが、リリアに対して純粋な敬意を込めた一礼をした。
「リリア殿。長旅でお疲れでしょう。お部屋にご案内します」
声に裏がなかった。リリアの暗殺者の勘が即座に読み取る。この男は善意で動いている。カインの真意を知らされていないか、あるいは知っていても自分の誠実さを曲げられない人間だ。
マルタは既に館の中へ入っていた。足音が規則的だった。歩幅は一定、速度は一定、靴底が石畳を打つリズムに乱れがない。
リリアは館の入口をくぐった。
◇◆◇◆◇
案内された部屋は、2階の東向きの一室だった。
扉を開けた瞬間、リリアの足が止まった。
書棚に並ぶ背表紙。軍事史、戦術論、古代の戦記。ヒカルが好んで読んでいた分野の書物ばかりだ。机の上の茶器は青磁の急須と湯呑み——ヒカルが幼い頃から使っていた様式と同じもの。椅子の高さ、座面の奥行き。リリアの身体には合わない。自分より背が高く、肩幅の広い人間の体格に合わせてある。
ヒカルの体格に。
そう。部屋全体が、ヒカルのために誂えられていた。
(ここは、ヒカル様のための檻だった)
理解するのに1秒もかからなかった。カインはヒカルを教団から排除した後、この館に匿い、精神的に支配するつもりだったのだ。洗脳してもいい。恩を着せてもいい。手段は何であれ、ヒカルを自分の管理下に置くための黄金の牢獄。書物も茶器も椅子も、全てがヒカルの心を懐柔するための舞台装置。
その主がいない檻に、リリアは代わりに入れられた。
椅子に座ってみた。座面が広すぎる。背もたれが高すぎる。ヒカルの骨格に合わせてあるから当然だ。
その「合わなさ」が、全身で教えていた。
ここはお前の場所ではない、と。
ふいに、記憶が蘇った。
暗殺施設の独房。灰色の壁。灰色の床。灰色の天井。窓はない。名前はない。番号だけの世界。壁に爪で線を引いた夜。何本引いたか覚えていない。数えることに意味がなかったから。
あの独房と、この部屋。
壁の色が違う。調度品がある。窓から光が入る。だが本質は同じだ。誰かの意志で閉じ込められ、誰かの都合で生かされている。
違いが1つだけある。
あの頃の自分には名前がなかった。今の自分には——「リリア」がある。
唇だけが動いた。声にはならなかった。
(私は、リリア。ヒカル様の、メイド)
窓の外をマルタの影が横切った。規則正しい足音が遠ざかり、また近づく。この館はヒカルの不在を中心に完璧に回っている。
リリアは椅子の背にもたれた。肋骨が軋んだ。痛みが意識を現実に繋ぎ止める。
使い道が見つかるまで、ここにいろ。カインはそう言った。
使い道の先にヒカルがいるのか。いないのか。分からない。分からないまま、この檻の中で待つ。
窓の外で、雨が上がり始めていた。
【第四話:客人という名の備品 につづく】
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