第二話:誤算の紅蓮
移送部隊が裏門を出たのは、夜明けまであと3時間の頃だった。
リリアは東方山道の入口手前、街道脇の灌木の中に伏せていた。雨は強まっている。黒く染めたメイド服が身体に張りつき、体温を奪っていく。だが意識は研ぎ澄まされていた。暗殺施設で叩き込まれた待ち伏せの技術が、10年の空白を挟んでなお正確に機能している。
松明の灯りが4つ。その中心に、両手に枷をかけられた人影。
ヒカルだった。
3日間の独房と絶食で、輪郭が削げ落ちていた。頬はこけ、手首には枷の痕が赤黒く残り、足取りは覚束ない。だが——その目だけは、リリアの知るヒカルのままだった。絶望に染まってはいても、消えてはいない光。俯きながらも、周囲の地形を観察する癖が出ている。軍師の思考は、枷をかけられても止まらないのだ。
護衛騎士は4名。計画書の通り。隊列は菱形、間隔は約3メートル。先頭と最後尾が松明を持ち、左右の2名が剣の柄に手をかけている。精鋭ではあるが、深夜の護送任務で緊張感は緩んでいる。雨音が警戒心をさらに鈍らせていた。
リリアは息を整えた。心拍を下げる。暗殺施設の呼吸法。吸って4秒、止めて4秒、吐いて4秒。3回繰り返すと心拍が毎分60まで落ちる。手の震えが止まる。視界が澄む。
4名の位置を脳内に固定する。最後尾の騎士から順に、4番、3番、2番、先頭。最後尾から仕掛ければ、先頭が異変に気づくまでの時間差は最大で4秒。4秒あれば3人は倒せる。残る1人に7秒。
計11秒。余裕を見て15秒。
灌木を出た。
音を殺す。爪先から地面に触れ、体重を0.3秒かけて移す。雨が全ての足音を覆い隠す。最後尾の騎士の背後、2メートル。呼吸の間隔を読む。吐く瞬間が最も注意力が落ちる。
——今。
眠り針が首筋に刺さった。騎士が声を上げる前に膝が折れ、リリアはその身体を受け止めて音なく地面に降ろした。松明が泥に落ち、じゅっと消える。
3番目の騎士が振り返る。暗闘の中、視界が利かない。リリアは低く滑り込み、膝裏を蹴り上げた。体勢が崩れたところに肘を喉に叩き込む。声帯を潰す一撃。気絶。
2番目が剣を抜いた。刃が雨を弾いて光る。リリアは剣の軌道を読み——内側に踏み込んだ。剣は身体の近くでは振れない。鍔迫り合いの距離に入り、手首の腱を暗器の柄で打つ。剣が落ちる。顎に掌底。意識が飛ぶ。
先頭の騎士が松明を投げ捨て、両手で剣を構えた。4人の中で最も構えが安定している。
間違いない。隊長格だ。
「何者だ——!?」
リリアは答えなかった。煙幕弾を足元に叩きつけ、白い煙が雨と混じって視界を奪う。煙の中を、音だけを頼りに移動する。騎士の呼吸音。右に2歩。背後に回り、首筋に眠り針を刺した。
騎士の膝が折れ、泥の中に崩れ落ちた。
30秒。4名全員が地面に倒れている。全員が呼吸している。死者はいない。
殺す技術は持っている。だが殺さなかった。ヒカルの傍で10年間仕えた日々が、暗殺者の仕上げを阻んでいる。
ヒカルが立ち尽くしていた。枷をかけられたまま、煙が晴れていく中で、倒れた4人の騎士とリリアを交互に見ている。
「リリア——なぜ、ここに」
「説明は後です」
リリアの手が、ヒカルの枷の鎖に触れた。暗器の1つが鍵穴に差し込まれる。2秒で枷が外れた。ヒカルの手首に残った赤い痕を、リリアは一瞬だけ見つめた。この痕を作った者たちへの怒りを、飲み込んだ。
「着替えてください。囚人服では目立ちます」
背中の袋から外套と簡素な衣服を取り出す。ヒカルが着替える30秒の間に、山道の入口に煙幕弾と眠り針の罠を仕掛けた。追手が来た時、数秒の猶予を作るために。
ヒカルの手を掴み、走り出す。冷たい手だった。3日間の絶食と拘束で、体温が落ちている。
「リリア。お前まで巻き込むわけには——」
「巻き込まれたのではありません。私が選んだのです」
振り返らなかった。前だけを見て走った。
◇◆◇◆◇
山道は暗く、急だった。
雨で足元がぬかるみ、木の根が泥の下に隠れて足を取る。ヒカルは何度も膝をついた。3日間の絶食で筋力が落ち、身体が言うことを聞かない。そのたびにリリアが手を引き、立ち上がらせた。
「大丈夫です、ヒカル様。もう少しです」
背後で、甲冑の音が聞こえ始めた。
罠が作動した音がしない。煙幕を迂回されたか、あるいは——最初から、別のルートで追撃部隊が回り込んでいたか。
足音が増えている。4つではない。もっと多い。重い甲冑の足音が、泥を蹴散らしながら迫ってくる。
(追撃部隊——護衛とは別の?)
リリアの計算が書き換えられた。計画書には護衛4名としか記されていなかった。追撃部隊の存在は書かれていなかった。
(——書かれていなかった。いや、違う、そもそも書かなかったのだ)
あの計画書には、書かれていないことがあった。それは、計画書が不完全だったからではない。書く必要がなかったからだ。
リリアが計画書を盗むことを、最初から想定していた者にとっては。
違和感が、ようやく形を取った。無施錠の引き出し。容易すぎる発見。記されていない追撃部隊。全てが——。
だが思考を巡らせる時間は、もうなかった。
山道が途切れた。森を抜けた先は、切り立った断崖だった。眼下に激流が轟音を立てて流れ、足元は鋭い岩肌が続いている。
逃げ場は、もうどこにもなかった。
振り返る。松明の灯りが無数に揺れながら近づいてくる。先頭に立つ男の声が、雨を裂いて届いた。
「元・天才軍師殿よ。無駄な足掻きご苦労だったな」
20名近い甲冑の騎士が、扇状に包囲網を広げていく。その中央に立つ男——騎士隊長代理グレイズ。冷酷な目が、雨の中でヒカルとリリアを見下ろしていた。
「貴様が目指した『優しさの秩序』など、この王国の規律を乱す毒でしかない。貴様の才能は妬まれ、貴様の優しさこそが嘲笑されたのだ」
ヒカルの肩から力が抜けていくのを、リリアは手を通じて感じた。握った手の体温がさらに下がっていく。
「貴様には、死をもって償ってもらう」
グレイズが剣を振り上げた。
◇◆◇◆◇
リリアは自分の全武装を計算した。眠り針の残りは4本。煙幕弾は使い切った。短剣が1本。
20名の精鋭騎士に対して、眠り針4本と短剣1本。
勝てない。計算するまでもなかった。
だが、計算の外に1つだけ変数がある。自分の命だ。
「ヒカル様」
振り返らず、背中越しに告げた。
「貴方の目指した世界は間違いなんかじゃありません」
短剣を構え、騎士の群れに斬りかかった。勝つためではない。1秒でも長く、ヒカルが逃げる時間を稼ぐために。
眠り針を3人に刺し、4人目の剣を弾いた。だが5人目の横薙ぎが短剣の中央を打ち据え、甲高い音と共に刃が折れた。
「諦めおったか。抵抗するのも終わりか、メイド」
騎士たちが下卑た笑いを浮かべ、無防備になったリリアに近づく。
リリアは折れた剣の残骸を捨てた。
そして——最も近くにいた騎士の1人に、抱きついた。
グレイズが舌打ちした。
「とことん非合理的な奴め! 最後の最後まで無駄な感情に縋りつくか!」
「うるさい!! 本当の裏切り者もわからぬ愚かどもめ!!」
叫んだ。喉が裂けるほど叫んだ。10年間、メイドの微笑みの裏に隠し続けたものの全てを、この一言に込めた。
一瞬だけ、ヒカルを振り返った。
笑った。
泥と血にまみれた頬で、雨に打たれた亜麻色の髪で、それでも——10年前に名前をもらった日と同じ目で、笑った。
「ヒカル様、生きて……っ! さよな——」
騎士の膝にしがみつき、全体重をかけて崖の縁へ押し込んだ。騎士は抵抗した。だが勢いが勝った。
足が崖の縁を踏んだ。石が砕けた。重力が全てを引いた。
落ちる。
落ちていく。
しがみついていた騎士の甲冑が腕の中で重い。だが数秒後、濁流に向かって加速する落下の中で、鎧の重さが唐突に消えた。腕が空を掻いている。騎士がいない。鎧の重量に引かれて先に闇の底へ呑まれたのか。分からない。もう何も掴んでいない。
風が耳を打つ。岩壁が視界を掠める。濁流の轟音が下から迫ってくる。
上方から、ヒカルの声が降ってきた。
「リリアァアアア!!」
自分の名前だった。最後に聞けた声が、自分の名前だった。
(——呼んで、くれた)
その直後、視界の端で何かが変わった。
雨が——止まった。止まったのではない。空気そのものが灼けている。落下しながら見上げた空の、暗雲の一角が引き裂かれ、月光が白い柱となって断崖の上に降り注いでいた。
そして、その光の中を——赤い何かが、降りてきた。
いや、落ちてきたのではない。降りてきた。巨大な翼の影。鱗が月光を弾いて紅く煌めいている。
竜だ。
赤い炎を纏った竜だ。
リリアの瞳孔が開いた。
教団が10年間教え込んだ恐怖が、壊れかけた意識の底で発火した。竜。人類の敵。殺すべきもの。あれが断崖の上にいるヒカルに向かっている。
(ヒカル様——)
手を伸ばした。落下しながら、もう届くはずのない断崖の上に向かって。
届かなかった……。
岩と泥と水が、全身を叩いた。肋骨が折れる鈍い音が水の中で響き、冷たさが肺を満たした。
意識が明滅する。紅い残像だけが網膜に焼きついている。あの竜がヒカルを——
何をしたのか。守ったのか。殺したのか。
分からないまま、暗闇が全てを覆った。
【第三話:空の揺り籠 につづく】
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