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第一話:盗まれた希望

 深夜。雨が石畳を叩いている。


 グランツェリア帝国の中枢、教団本部。ドラゴンスレイヤー教団——竜族の脅威から人類を守護することを教義に掲げ、帝国の軍事と信仰の双方を支配する巨大な宗教組織。その士官街区の屋根の上に、リリア・シャイニングは伏せていた。


 3つ先の窓を見つめている。カイン・グリムウッドの執務室。2階、東向き、窓枠は樫材。鍵は内側から1本。窓の隙間は12ミリ。人間の手首が通る幅には4ミリ足りないが、暗器の柄なら入る。


 3日前、ヒカル・クレイヴが逮捕された。


 容疑は竜族への軍機漏洩および内通。証拠とされたのは、ヒカルの筆跡で竜の国の古王に宛てたとされる密書だった。輸送ルートと軍事物資の詳細が記されていたという。


 偽造だ。リリアにはそれが分かる。



 10年間、ヒカルの傍に仕えてきた。朝食の好み、起床の時刻、書斎での癖——そして筆跡の微細な特徴まで、リリアの記憶には全て刻まれている。あの密書の「ク」の字の跳ねは左に0.5ミリずれている。ヒカルの筆跡ではない。極めて精巧な模倣だが、10年間毎日その文字を見てきた目は騙せない。


 誰が偽造したのか。リリアにはまだ確信がない。だが1つだけ確かなことがある。ヒカルは無実だ。竜を殺すことすらできない——殺さずに戦場を収める天才が、竜族に通じるはずがない。


 教団はヒカルを「竜殺さずの英雄」と呼んだ。味方の死者を出さず、竜すら殺さない戦術。民衆はそれを称えたが、教団の上層部にとっては異物だった。竜を殺すことを神聖な使命とする教義の中で、「竜を殺さない軍師」は存在してはならない矛盾だった。


 だから消される。軍法会議すら開かれず、秘密裏に処刑される。「脱走中の事故死」として。


 リリアは3日間の監視下で、それを突き止めた。


 従順なメイドの顔を貼りつけ、食事を受け取り、礼を言い、部屋に戻った。


 その間に合鍵を1本作り、巡回の間隔を記録し、カインの在室時間を秒単位で把握した。合鍵の作製に要した時間は14分。鍛冶場に忍び込み、元の鍵の型を記憶だけで再現した。鍵の歯の高さは5段階、配列は左から3-1-4-2-5。一度見れば忘れない。忘れる機能は、あの施設で壊された。


 カインはヒカルの師だった。教団の上級指揮官であり、かつてはヒカルの才能を見出し育てた恩人でもある。ヒカルが教団史上最年少の特別軍師候補にまで上り詰めたのは、カインの推薦があったからだ。


 だがリリアは知っている。3年前の夕食会で、カインがワイングラスの位置を3ミリ直した夜のことを。食器を片付ける手を止めて聞いた、独り言のような呟きを。


「天才には首輪が要る。鎖ではなく——理解という名の首輪が」


 あの夜から、リリアはカインを警戒していた。だが警戒と確信は違う。カインが今回の冤罪の首謀者だという証拠は、まだない。


 今あるのは、ヒカルが夜明け前に殺されるという事実だけだ。




 屋根を伝い、庇を跳び、窓枠に指をかける。合鍵が錠に嵌まる。


 かちり。


 カインの執務室は整然としていた。書類は分類され、インク壺の蓋は閉じ、ペンは角度を揃えて並んでいる。


 机の引き出し。2段目。施錠なし。


 ——施錠なし。


 指先が、一瞬だけ止まった。


 カインほどの男が、移送計画書を無施錠の引き出しに入れるだろうか。違和感が喉の奥に引っかかる。飲み込めない小骨のように。


(——今はそれどころではない)


 振り払った。引き出しを開ける。


 羊皮紙が1枚。移送ルート、時刻、護衛の編成。全てが記されている。「夜明け前、東方山道、護衛騎士4名。裏門より出発」。終着点は山道の先の谷間。そこで「処理」する計画。


 4名。精鋭とはいえ、4名なら——。


 心臓が速く打っている。恐怖ではなかった。


 高揚だ。




 ◇◆◇◆◇



 屋根を走りながら、リリアの頭の中にヒカルの声が明滅していた。


 10年前。


 泥道に倒れていたのは、自分だ。暗殺者養成施設から逃げ出し、追手を撒き、体力の限界で泥の中に崩れた。名前のない少女。番号だけの存在。5歳から「道具」として鍛えられ、感情は「不合理な誤作動」として矯正された。あの頃の自分には「助けて」という言葉すらなかった。そもそも、助けを求めるという概念がなかった。


 8歳の少年が駆け寄ってきた。


「大丈夫?」


 少年はしゃがみ込んで自分の顔を覗き込み、それから立ち上がって、通りかかった大人に向かって叫んだ。


「この子、怪我してるんです! 治療してください!」


 見ず知らずの泥だらけの子供のために、声を張り上げた。躊躇いがなかった。損得の計算がなかった。ただ「目の前で誰かが倒れている」という事実だけで動いた。


 それが、ヒカル・クレイヴという人間だった。




 数日後、ヒカルは庭の白百合を指して言った。


「今日から君はリリアだ」


 涙がこぼれた。泣き方を知らなかったから、泣いていることすら分からなかった。頬を伝う液体が何なのか理解するのに3秒かかった。


 あの日から、「リリア」という名前が世界の全てになった。


 名前をくれた人を、守る。それだけが、番号だった少女が手に入れた唯一の意味だった。


 黒く染めたメイド服が雨を吸って重い。暗器を確認する。眠り針が12本、煙幕弾が2つ、短剣が1本。短剣はヒカルが12歳の時に護身用として持たせてくれたもの。刃渡りは掌ほどしかない。


 それだけが、全武装だ。


 教団の外壁が近づく。巡回兵が松明を持って歩いている。間隔は45秒。前回の観測と一致する。次の死角まで12秒。


 跳ぶ。着地。音は雨粒1つ分。外壁を越える。


 東方山道の入口まで、あと400メートル。護衛騎士は4名。精鋭とはいえ、リリアの暗殺術なら——。


(ヒカル様。お待ちください。私が、お守りします)


 右手の震えは恐怖ではなかった。この命を懸けられる相手がいること。その相手のために走れること。暗殺施設で壊された少女が、10年かけて手に入れた唯一の感情——「守りたい」が、全身を灼くように駆け巡っていた。


 走る。違和感を、振り切るように。



 ◇◆◇◆◇



 リリアの足音が遠ざかってから、カインは灯りを点けなかった。


 暗い執務室の椅子に座ったまま、開いたままの引き出しを見つめている。計画書は消えていた。確認するまでもなく知っていたが、確認した。手順は正確に踏む。それがカイン・グリムウッドという男の流儀だ。


 引き出しの施錠を外したのは今朝。計画書を2段目に移したのは昨日の夕刻。リリアの3日間の行動パターンから逆算し、最も「発見しやすい」位置を選んだ。金庫に入れれば手が出ない。机上に放置すれば罠を疑う。2段目の無施錠——「うっかり」に見える場所。


 カインは教団の上級指揮官として、15年間この組織に仕えてきた。かつては「天才」と呼ばれた男だ。最年少で分隊長になり、竜族との戦線で名を馳せた。


 だがヒカルは、その全ての記録を塗り替えた。


 最年少の特別軍師候補。作戦成功率100%。損耗率0。民衆が「竜殺さずの英雄」と呼ぶのは、もはやカインではなくヒカルだった。


 嫉妬——ではない。カインはその感情をそう呼ばなかった。「危機感」だ。教団の教義に反する軍師を放置すれば、組織の根幹が揺らぐ。竜を殺せない兵器は、兵器として欠陥がある。それを排除するのは、教育者としての責任だ。


 そう、自分に言い聞かせた。何度でも。


 筋書きはこうだ。リリアがヒカルを連れ出す。護衛騎士4名は排除されるだろう——あの娘の技量なら確実に。山道を逃走する2人を、グレイズ率いる追撃部隊20名が追い詰める。断崖で絶望した2人の前に、自分が颯爽と現れてヒカルを「保護」する。


 リリアとグレイズ隊は「逃亡幇助の末の事故」として処理される。口封じだ。カインが直接手を下す必要はない。崖際の地盤は脆い。魔導で少し揺らしてやれば、自然な崩落に見える。


 ヒカルは精神的に完全に折れた状態で自分の手に戻る。教団に裏切られ、唯一のメイドすら失い、絶望の底で差し伸べられるカインの手だけが世界に残る光になる。


 完璧な筋書きだった。


 カインは窓を閉めようとして、ふと空を見上げた。厚い雨雲が低く垂れ込め、月も星も見えない。


 この夜の空の遥か彼方で、紅蓮の翼が鼓動の異変を感知し、断崖へ向かって飛翔を開始していることを——カインの計算は、捉えていなかった。


 人間の変数だけを扱う限り、カインの筋書きは完璧だった。


 だが、この夜の変数には——竜が、含まれていた。


 雨は、まだ止まない。


【第二話:誤算の紅蓮 につづく】


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