第九話:お前と俺は同じだ
カインの訪問が、週2回になった。
金曜日に加えて、火曜日。あの「何も起きない日」に、カインが来るようになった。
軟禁から3ヶ月。季節が変わり始めていた。窓の外の丘陵に、黄色い野花が点々と咲いている。マルタが配膳に添える果物が、干し果物から生の林檎に替わった。空気が少しだけ柔らかくなった。
だがリリアの日常は、柔らかくならなかった。
火曜日。14時。カインが来た。
今日のカインは、書類の束を抱えていた。革の鞄から取り出し、ヒカルの机の上に広げる。リリアは向かいの補助椅子に座り、黙ってそれを見ていた。
書類の表紙に、教団の紋章が押されていた。その下に手書きの文字。
「ヒカル・クレイヴ 作戦記録集(第1巻〜第7巻) 教団戦略院保管」
リリアの心臓が跳ねた。だが顔には出さなかった。
「教団の書庫から持ち出した。俺の権限で閲覧できる範囲のものだ」
カインが書類の束を1枚ずつめくっていく。ヒカルが教団時代に立案した作戦の記録。地図、兵力配置図、事後報告書。ヒカルの筆跡が、図面の余白に走り書きのメモを残している。
リリアは筆跡を見た瞬間、呼吸を整えなければならなかった。
あの字だ。「ク」の跳ねが右に流れる癖。「戦」の字の最終画がいつも少し長い。10年間、書斎の灯りの下で見てきた字。
「第3竜巣攻略戦。ヒカルが14歳の時の作戦だ」
カインが地図を指で辿る。
「正面の囮部隊で守備隊を引きつけ、地下水脈から巣の核に到達した。犠牲は0。——この作戦で、あいつは教団史上最年少の特別軍師候補に推薦された。推薦したのは俺だ」
声に誇りが混じっていた。無自覚な誇り。自分が育てた弟子の、最高の成果を語る教官の声。
「俺はこの作戦を評価した。だが1つだけ、理解できない点があった」
カインの指が、地図の南側を示した。
「南の包囲線を、意図的に開けてある。竜の逃走路だ。巣を落とした後、守備隊の竜が逃げられるようにしてある。——俺はあいつに聞いた。なぜ殲滅しなかったのかと」
リリアは覚えている。あの夜のことを。
ヒカルが3日間眠らずに地図を睨んでいた夜。6杯目の緑茶で「分かった」と呟いた後、図面に南の逃走路を書き込んだ。リリアは灯りの芯を換えながら、その手元を見ていた。
「あいつは何と答えたと思う?」
カインがリリアを見た。鏡を覗き込む目。
リリアの向こうにいるヒカルを見ている。
「『逃げ場がない敵は死に物狂いで抵抗します。逃げ場を残した方が、味方の被害が減ります』」
リリアが答えた。ヒカルの言葉を、一字一句覚えている。
「その後にもう一言、仰いました。『それに——逃げた竜は、二度と巣に戻ってきません。巣を失った恐怖が、再建を阻むんです。殺すより効率的です』と」
カインの手が止まった。
「……そうだ。あいつはそう言った」
沈黙が3秒。カインの指が、地図の逃走路の上で止まったまま動かない。
「俺はあの時、この回答を『戦術的合理性』として評価した。だが今になって思う。——あれは合理性じゃなかった。あいつは最初から、竜を殺したくなかったのだ。合理性は後付けの理屈で、本心は別にあった」
カインの声が低くなった。
「お前は知っていたか、リリア。あいつの本心を」
「存じません」
リリアは答えた。
だが、嘘だった。
ヒカルが竜を殺せない理由を、リリアは知っている。
正確には、「理由が分からないまま殺せない」ということを知っている。ヒカル自身にも分からない。だがリリアは、8歳の少年が泥道で傷ついた少女を助けた日のことを覚えている。あの少年は、弱っている存在を前にすると、考えるより先に身体が動く人間だった。
だがそれをカインに言う理由はない。
「存じません、か」
カインは呟き、書類を畳んだ。
「お前は嘘をつく時、声の高さが0.5音だけ上がるな」
リリアの背筋が凍った。
カインが微笑んだ。3年前の夕食会で見た、あの隙のない笑み。
「構わん。嘘をつけるということは、守るべきものがあるということだ。——それでいい」
書類を鞄に戻しながら、カインが口を開いた。
「先週話した竜の国の情勢だが、続報がある」
リリアは膝の上の手を組んだ。
「盟約軍が古王の六征竜をもう1体倒した。水属性の策士、ミスト・マキナだ」
2体目。リリアは指を動かさなかった。
「注目すべきは戦い方だ。前回のアイアン・ウォール戦では竜姫たちのユニゾンで正面突破した。だが今回は違う。策士の情報網を逆用し、偽情報で敵を混乱させた上で、ユニゾンの属性を戦闘中に切り替えた」
カインの目が光った。棋譜を読む対局者の目だ。
「戦闘中の属性切り替え。竜の発想ではない。竜姫は4人、いや5人が合流しているとの報告もある。それだけの数を同時に制御し、瞬時に組み合わせを変える判断力。——俺が教えた戦術理論の応用だが、規模が桁違いだ」
カインの声に、また、あの複雑な色が混じった。認めたくないが認めざるを得ない。
「お前にも分かるだろう、リリア。これができる人間は——」
「1人しか、おりません」
リリアが遮った。今度は嘘をつかなかった。
2人の間に、名前のない沈黙が落ちた。ヒカル・クレイヴという名前を、どちらも口にしなかった。だが部屋の空気が、その名前の重さで満たされていた。
カインが立ち上がった。
「来週から、お前に戦闘訓練を再開させる」
唐突だった。
「訓練……ですか?」
「夜盗の件で確認した。お前の技術は鈍っていない。だが体力が落ちている。——使い道が決まった時に動けなければ意味がない」
「訓練の相手は俺がつける。週に2回。火曜と金曜の午後」
リリアは頷くしかなかった。
カインが扉に向かう。取っ手に手をかけ——振り返った。
「リリア」
「はい」
「お前と俺は同じだ」
言った。ついに。
6週間前の「似ている」が、「同じだ」に変わった。
「あいつに依存している。あいつなしでは存在の意味を見失う。あいつの傍にいることが、自分の価値の全てだと思っている。——違うか?」
リリアは答えなかった。
答えなかったことが、答えだった。
カインはそれを知っていた。
「だから俺はお前を壊さない。お前は最初から、俺と同じ側にいる」
扉が閉まった。
足音が遠ざかる。規則正しく、迷いなく。
リリアは椅子に座ったまま、長い間動かなかった。
(同じだ)
否定したかった。「違う」と叫びたかった。だが——声が出なかった。
カインの言葉は、正確だった。ヒカルに依存している。ヒカルなしでは存在の意味を見失う。名前をくれた人の傍にいることが、自分の全てだ。
それはカインが、ヒカルに対して抱いている感情と——構造が同じだ。
「似ている」ではなく「同じ」。カインはそこまで言い切った。
そして、それを否定する根拠が——リリアの中に見つからない。
マルタの足音が階下で聞こえる。
夕食の時間だ。リリアは冷めたスープを見つめていた。
ふと、今日のカインの行動を巻き戻した。暗殺者の分析眼が、遅れて機能する。
作戦記録を「わざわざ」持参したこと。ヒカルの筆跡をリリアに見せたこと。14歳の作戦について「お前は知っていたか」と問うたこと。リリアの嘘を指摘しながら「構わん」と許容したこと。そして「お前と俺は同じだ」を、その流れの最後に置いたこと。
全ての手順が——正確すぎた。
暗殺施設の尋問官が使う技法に似ている。対象の感情を特定の話題で開かせ、心理的な距離を縮め、共犯関係を構築し、最後に「お前は味方だ」と刻印する。教本の第7章。心理的懐柔の基本手順。
カインの行動が、その手順に——。
だが、そこで思考が止まった。ヒカルの筆跡が脳裏に蘇り、分析が感情に呑まれた。「ク」の跳ね。「戦」の最終画。あの字を書いた手のことを考えると、冷静な計算が溶けていく。
(……考えすぎだ)
首を振った。カインは教団の指揮官であって、暗殺施設の尋問官ではない。ヒカルの話をしたがるのは独占欲の発露であって、手順に沿った心理操作ではない。
(考えすぎだ。あの男は——ただ、ヒカル様の話がしたいだけだ。自分と同じように)
リリアはスープに口をつけた。冷たかった。
マルタが食器を下げに来た。手つかずのパンと果物を盆に載せ、無言で去っていく。
リリアは暗い部屋で唇だけを動かした。
(私は、リリア・シャイニング。ヒカル様の、メイド。——あの人とは、違う)
繰り返した。だが今夜、もう1つの声が頭の中で重なった。
(お前と俺は同じだ)
打ち消し合うのではなく、共鳴するように。
窓の外に月が出ていた。
赤みを帯びた月。断崖の夜と同じ色。
来週の火曜日から、カインとの訓練が始まる。ヒカルについて語り合う時間が、身体を使う時間に変わる。心だけでなく、身体もカインの領域に入っていく。
「使い道」の輪郭が近づいている。それが何であれ——その先にヒカルがいるなら。
(考えすぎだ)
もう一度、自分に言い聞かせた。
暗殺者の分析眼が発した警告を、リリアは——ヒカルの筆跡の記憶で、塗り潰した。
それが致命的な誤りだったと気づくのは、まだ先のことだった。
【第十話:竜の王の台頭 につづく】
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