第十話:竜の王の台頭
軟禁から約1年。
季節は一巡していた。窓の外の丘陵は再び黄色い野花に覆われ、去年と同じ風景が広がっている。だが去年と同じものは、風景だけだった。
この1年で、リリアの日常は形を変えていた。
カインの訪問は週2回。
火曜と金曜の午後。訓練と問診と、ヒカルについての対話。
この1年間で気づいたことがある。
カインは辺境伯の館を訪れる時、常に同じ御者を使う。無口な中年の男で、カインの指示以外には一切反応しない。目が空虚だ。恩義か恐怖か、あるいはその両方で、この男の忠誠はカインに完全に縛られている。
教団の上級指揮官——グランツェリア帝国の宰相にも匹敵する権力を持つ男が、週に2度も城を空けて辺境に通う。表向きの口実は「辺境の治安視察」と「各地の情報収集」。だが宰相格の人間が自ら巡回する必要はない。部下に命じればいい。
いや部下に命じられないのだ。
リリアの存在を知る人間を、カインは最小限に絞っている。辺境伯、マルタ、トビアス、あの御者。4人だけ。
全員がカインの庇護なしには立場を維持できない。リリアという生き証人を——ヒカルの冤罪が捏造だった証拠を、カインは自分の手元から離せない。
全てを一人で抱え込んでいる。情報管理も。心理操作も。訓練も。
それはこの男の用心深さであると同時に、最大の綻びでもあった。暗殺施設の教本に書いてあった。「秘密の管理者が1人だけの組織は、その1人を潰せば終わる」。
だがリリアには、カインを潰す力がない。今はまだ。
火曜と金曜の午後は地下の旧ワイン貯蔵庫で暗器術と体術の反復訓練。カインは有能な教官だった。リリアの動きの癖を見抜き、暗殺施設の技術とメイド生活で上書きされた動作の齟齬を的確に指摘する。
「右足の軸がぶれている。メイドの歩行が染みついて、重心が高い。暗殺者の重心に戻せ」
「……承知しました」
訓練中のカインは、ヒカルの話もしなければ「同じだ」とも言わなかった。純粋に技術だけを扱う。その切り替えの鮮やかさが、かえってリリアを不安にさせた。
訓練の合間に、カインはヒカルの戦況を断片的に語った。語るというより——思考を整理するための独り言に近い。リリアはその独り言を1語も漏らさず記憶した。
ヒカルが率いる盟約軍は、古王の六征竜を次々と撃破していた。アイアンウォール、ミストマキナ、バーンブレイカー。名前を聞くたびに、リリアは心の中でヒカルの無事を確認した。そして同時に、あの人が自分のいない場所でどんどん遠くなっていくことを——感じた。
マルタの配膳は変わらず正確だった。
だが果物の種類が季節ごとに変わる。林檎から桃へ、桃から葡萄へ、葡萄から再び林檎へ。
1年分の果物が、この椅子の上を通過していった。
トビアスとの距離は、夜盗の夜以来、微妙に変わったままだった。善意は消えていない。
けれども屈託のない笑顔が減り、何か言いたげな沈黙が増えた。
リリアはその沈黙をありがたく思っていた。あの笑顔を見なければ、右手は震えずに済む。
そして——今日も。
◇◆◇◆◇
カインの到着が、2時間早かった。
火曜日の正午。馬車ではなく、馬。単騎。あの無口な御者すら連れていない。外套の裾が泥で汚れている。長距離を一人で急いで来た。
カインが館に入り、辺境伯と短いやり取りを交わすのが窓越しに見えた。エルヴィンの顔から血の気が引いている。
5分後。ノック。いつもの3回ではなく、1回だけ。短く、硬い。
「入るぞ!!」
カインの顔を見た瞬間、リリアは椅子の背に手をかけた。無意識の防御反応だった。
この1年間で記録した全てのパターン——柔和な笑み、事務的な無表情、教官の厳格さ、ヒカルを語る時の無自覚な熱。今日の顔は、どれにも当てはまらなかった。目の奥で、灼けた鉄のように赤黒い感情が沸騰している。
カインはヒカルの椅子に座らなかった。立ったまま、窓の外を見た。
「竜の国で、古王が討伐された!!」
リリアは息を止めた。
「盟約軍が王都に攻め入り、古王を倒した。六征竜は全滅。——竜の国は、統一された」
カインの声は平坦だった。だが指先が震えているのを、リリアは見逃さなかった。
「統一した王は——ヒカル・クレイヴだ。もはや推測ではない。教団の情報部が確認した」
部屋の空気が変わった。窓から差し込む午後の光が、急に冷たく感じられた。
「人間でありながら竜の王になった。6人の竜姫を従え——いや、従えたのではないな。あいつらに『選ばれた』のだ」
カインが窓枠を掴んだ。指の関節が白くなるほど力が入っている。
「竜姫たちのユニゾンを指揮し、古王の最終形態を打ち破った。六龍ユニゾン——6属性の完全調和。竜族の歴史上、誰も成し遂げたことのない奇跡を、人間の軍師がやってのけた」
声が低くなっていく。
「俺が10年かけて育てた才能だ。俺が見出し、俺が磨いた。——俺だけが、その価値を理解していた」
カインが振り返った。リリアは初めて、この男の感情が剥き出しになるのを見た。
「なのにあいつは——俺のところには戻らず、竜の側で王になった」
嫉妬だった。この男が「危機感」と呼び、「教育者の責任」と言い換え、1年間理性の膜で覆い隠してきたもの。その膜が——今、破れていた。
「あいつは俺の——」
言いかけて、止めた。拳を握り、息を吐き、2秒で表情を戻した。理性の膜を、力ずくで貼り直す。
だがリリアは見た。あの2秒間の顔を。「あいつは俺の」の続きが何だったのかを……。
——俺のものだ。
リリアの胸が冷えた。カインの「俺のものだ」と、自分の中にある「ヒカル様は私の」が、同じ形をしている。
「この先、帝国との衝突は避けられん」
カインの声が、事務的な口調に戻った。切り替えの速さ。2秒前の剥き出しが嘘のように、冷徹な分析が始まる。
「ヒカルは竜の国を統一した。次は人間社会に目を向ける。教団が仕掛けた冤罪を暴きに来る。帝国の腐敗を正すと称して——こちらへ来る」
窓の外を睨む。
「放置すれば、竜の王が帝国に敵意を持ったまま侵攻する。教団は壊滅する。——その前に手を打たなければならない」
そしてリリアに向き直った。
「お前の使い道が、決まった」
腹の底が凍りついた。だがカインは、それ以上は言わなかった。
「詳細は次回からだ。今日は——ここまでにする」
扉を開け、立ち止まった。振り返らなかった。
「お前にも時間をやる。考えろ、リリア。——お前が望むものは何だ」
足音が消えていく。御者すら置いて単騎で来た男の、高揚と焦燥が混じった歩調。1年間全てを一人で抱え込んできた男の秘密が、この報せでさらに重くなった。
追い込まれていく男の手に、自分がいる。
カインが去った後、リリアは動けなかった。
ヒカルが竜の国を統一した。王になった。6人の竜姫を率いて古王を倒した。
あの優しい人が。あの断崖で全てを失った人が。
遠い場所で、とてつもないことを成し遂げた。
喜ぶべきだ。
——喜んでいる。確かに胸の奥が温かい。
だが同時に、喪失が灼いていた。
ヒカルの隣にいるのは、6人の竜姫だ。リリアではない。
あの紅蓮の竜が。水の竜姫が。土と風と光と闇の姫たちが……。
人間のメイドが入る隙間は、もうどこにもない。
リリアはヒカルの椅子を見た。カインが座らなかった椅子。今日のカインは、ヒカルの椅子に座ることすらできなかった。ヒカルが「カインのものではなくなった」ことを、身体が認められなかったのだ。
そして——自分は?
ヒカルのために誂えられた、自分の身体には合わない椅子。この1年間、毎日見てきた。毎日、「ここは自分の場所ではない」と確認してきた。今日、その確認が——最終的なものになった。
ヒカルは王になった。メイドの帰る場所は、もうない。
リリアは椅子の背に額を押し当てた。涙は出なかった。涙を流す機能は、暗殺施設で壊されたままだ。ただ——空っぽだった。歓喜と喪失が同時に燃えて、互いを打ち消して、何も残らなかった。
夕刻。
マルタが夕食を運んできた。リリアが食事に手をつけていないことに、何も言わなかった。
だが扉の前で、足が止まった。
1秒。
去年のあの夜と同じだ。マルタの足が、1秒だけ長く止まる。20年間の習慣を破る「逸脱」。
振り返らず、出ていった。足音が遠ざかる。歩幅62センチ、毎秒1.1メートル。だが接地の音が、去年よりさらに——僅かに柔らかくなっていた。
リリアは暗い部屋で、唇だけを動かした。
(私は、リリア・シャイニング。ヒカル様の、メイド)
その言葉が、初めて嘘のように響いた。
ヒカル様のメイド。——だが、ヒカルにはもう6人の竜姫がいる。メイドの居場所は?
(私は、リリア・シャイニング。ヒカル様の——)
続きが出てこなかった。
「お前が望むものは何だ」——カインの問いが、暗い部屋に残響していた。
望むもの。ヒカルの傍に戻ること。
それだけが、この1年間リリアを支えていた唯一の光だ。
だがヒカルの傍に「戻る」ということは——カインの「使い道」に応じるということだ。
カインが用意した経路を通って、カインの計画の一部として、ヒカルの元へ行く。
それは「戻る」と言えるのか。カインの道具として送り込まれることと、メイドとして主の元へ帰ることは、同じなのか。
窓の外で、半分の月が昇っていた。もう半分は闇に沈んでいる。
答えは1つしかない。1年前から変わらない。
ヒカルの傍に行くこと。
たとえそれが——カインの手の上であっても……。
【第十一話:兵器への転落 につづく】
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