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第十一話:兵器への転落

 軟禁生活が始まってから、1年が経過していた。


 館を囲む丘陵には二度目の春が訪れ、黄色い野花が点々と咲き始めている。しかし、石造りの館の中に流れる空気は、去年よりも数段冷たく、重い。


 リリア・シャイニングは、自室の隣にあるカインの書斎から漏れ聞こえる声に、全神経を集中させていた。暗殺者養成施設で叩き込まれた集音技術——呼吸を落とし、壁の特定の場所に耳を押し当てることで、木材と石を伝う微かな振動を言葉へと変換する。


「カイン様……もう限界です。お願いです、この娘の処遇を見直していただきたい」


 辺境伯エルヴィンの声だった。1年前の穏やかな威厳は枯れ果て、絞り出すような震えが混じっている。廊下ですれ違うたびに深くなっていった彼の隈と、こけた頬が脳裏をよぎる。


「帝国軍の情勢は極めて不安定です。竜の国を統一した『王』の噂は、すでにこの辺境の村々にまで届き始めている。もしあの方が、かつての教団の仕打ちを恨み、この館を標的にすれば……私の領地は、真っ先に灰となる」


 エルヴィンの懇願は、切実な保身だった。善人ゆえの弱さが、言葉の端々に惨めに滲んでいる。リリアはその弱さを冷ややかに分析しながら、同時に自分自身の足場が崩れていく音を聞いていた。


「辺境伯。あなたの領地の安全は私が保証すると言ったはずだ」


 カインの声には、温度が一切なかった。


「条件は一つ。あの娘を、私が命じる時まで預かり続けること。それが守られる限り、教団の騎士団をあなたの盾として配置しよう。……不満があるか?」


 沈黙が流れた。エルヴィンが反論を飲み込み、力なく肩を落とす気配が、壁を通じても手に取るように伝わってくる。善人の無力さは、時に悪意よりも残酷に、誰かの首を絞める。


 リリアは壁から身を引き、ヒカルのために誂えられた広すぎる椅子に、音もなく腰を下ろした。


 ◇◆◇◆◇


 数分後、部屋の扉がノックもなしに開かれた。


 入ってきたカイン・グリムウッドは、外套に付いた春の湿った埃を払うこともせず、リリアの正面に立った。その瞳の奥で、灼けた鉄のような赤黒い感情が沸騰しているのを、リリアは見逃さなかった。


「ヒカルが竜の王になったことは、すでに話したな」


 カインの声が低く響く。


「あいつは6人の竜姫を従え、古王の都に君臨している。……だがリリア、お前には分かるはずだ。あれはあいつが望んだ姿か?」

「……いえ」


 リリアは、掠れた声で答えた。


「そうだ。あいつは竜たちに囚われているのだ」


 カインが一歩、距離を詰める。重心が前に傾き、圧迫感が部屋の空気を塗り潰す。


「あの強力すぎる竜姫たちの『愛』という名の枷に、精神を縛り付けられている。あいつを救い出せるのは、あいつの本当の姿を知るお前だけだ」


 リリアの暗殺者の分析眼が、カインの言葉の構造を自動的に解析した。


「救い出す」。その言葉の裏に、何があるのか。カインは「救う」とは言わなかった。「救い出す」と言った。救出対象を、現在地から別の場所へ移動させる。別の場所とは——カインの管理下。


 リリアは、その分析を意識の表層で完了させた。完了させた上で——黙殺した。


 カインの論理の矛盾を指摘することに、意味がなかったからだ。


「ヒカル様に、会えるのですか?」


 リリアの声は平坦だった。


 だが、その一言を発した瞬間、胸の奥で何かが反応した。1年間、ヒカルの椅子に座り続け、ヒカルの本に囲まれ、ヒカルの不在を中心に回る館で、ただ待ち続けた1年間。その全ての時間が、「会える」という3文字に向かって収束していく。


「お前にしかできん」


 カインの手が、リリアの肩に触れた。暴力的な力ではない。むしろ、親愛なる教え子に触れるような——吐き気を催すほどの優しさ。


「だが、今のままのお前が行けば、竜姫たちに八つ裂きにされる。竜姫たちの共鳴は、外部からの『異物』を排除する。調整が必要だ。お前の精神から、竜に悟られる雑音を封印する防諜処置を施す」


 防諜処置。


 リリアの「監視する私」が、その言葉を記録した。防諜処置という名目の、精神への介入。暗殺施設の教本第7章、心理的懐柔の手順。対象の不安を特定の「解決策」に誘導し、自発的な服従を引き出す。


 カインの言葉は、その手順に——正確に合致している。

 リリアは、それを知っていた。知っていて——。


「……私が、ヒカル様を、救えるのですか?」


 繰り返した。

 同じ言葉を。違う意味で。


 最初の問いは「ヒカル様に会えるのか」だった。2度目の問いは「会えるなら、何でもいい」だった。


 カインの論理が罠であることを、暗殺者の分析眼は捉えている。捉えた上で、「ヒカル様に会える」という3文字が、その分析を押し潰している。


 壊れた精神の中で、「会える」だけが光に見える。その光が、罠の入口であることを知りながら——光に手を伸ばしてしまう自分がいる。


(これが、カインの支配の本質だ)


 恐怖ではなく、渇望を鎖にする。


「お前にしかできんのだ、リリア」


 リリアは、その手に縋ることを選んだ。


 選んだのは「守る私」だったのか、「殺す私」だったのか、それとも——まだ名前のない、別の自分だったのか。


 区別はつかなかった。



 ◇◆◇◆◇



 リリアが深々と一礼して部屋を出ていった後、カインは窓辺へ歩み寄った。


 庭では家政婦長マルタが、定刻通りの手順で洗濯物を干している。白い布が風に揺れ、春の光を弾いていた。


 カインは、その単調な光景をしばらく見つめていた。


「入るがいい」


 背後の扉が開き、音もなく1人の男が入室した。どす黒い沈黙を纏ったような、帝国の闇魔術師だった。


「準備はできているか?」

「……ええ。あとは対象の精神をどこまで削るかですな、カイン様」


 カインは窓の外に視線を戻した。マルタが最後の一枚の白い布を干し終えるのを見つめながら、短く命じた。


「手順は任せる。ただし、名前の結びつきは残せ。あれを壊すと、全てが使い物にならなくなる」


 魔術師は頷いた。カインは、窓を閉めた。


 庭の洗濯物が、風に揺れている。白い布の列が、規則正しく並んでいた。


【第十二話:精神の外科手術 につづく】


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