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第十二話:精神の外科手術

 石壁から雫が落ちる音が、不規則なリズムで地下室に響いていた。


 館の地下、かつてはワイン貯蔵庫として使われていた空間。冷たい空気が、松明の灯りを揺らしている。


 リリア・シャイニングは、石造りの台座の上に横たえられていた。四肢から伸びる24本の細い魔導針が、皮膚を貫いて血管と神経に直接繋がれている。針の1本1本から、不気味な紫色の魔力が断続的に流し込まれていた。


 痛みは——あった。


 だが、痛みの質が、これまでと違っていた。


 肋骨が折れた時の鋭い痛みでも、爪を掌に食い込ませた時の灼熱でもない。脳の奥を、氷のように冷たい指先で掻き回されるような——痛みと呼べるかどうかすら分からない、存在の境界線を侵食する感覚。


 カインの声が、朦朧とする意識の中で、鮮明に響く。


「リラックスしろ、リリア。これは必要な処置だ」


 リリアは答えなかった。答える機能が、今、正常に動いているかどうか分からなかったからだ。



 ◇◆◇◆◇



 術式が脳に触れた瞬間、記憶が1枚ずつ剥がされるように開かれ始めた。


 最初に浮かんだのは、ヒカルの笑顔だった。


 8歳の少年が泥道で駆け寄ってきた記憶。

「大丈夫?」。あの声。あの目。


 その記憶の輪郭が、微かに歪んだ。


 笑顔の形はそのままなのに、笑顔の意味が変わろうとしている。「大丈夫」という声が、別の声に上書きされていく。


「あの喉を——」


 リリアは意識の中で首を振った。振ったつもりだった。実際に首が動いたかどうかは分からない。魔導針が神経を貫いているから、身体が自分のものかどうかの判断がつかない。


 次に浮かんだのは、ヒカルが書斎で緑茶を飲む横顔だった。


 6杯目の緑茶を飲み干し、「分かった」と呟いた瞬間。作戦を思いついた時の、あの静かな高揚を帯びた横顔。


 その横顔に、新しい思考が重ねられていく。


(あの首筋を、右から切れば——一番苦しまずに済む)


 違う。それは私の考えではない。


(——本当に?)


 本当に私の考えではないのか。


 その問いが、リリアの中で反響した。「殺す私」と「守る私」の境界線の上に、その問いが立っている。どちらの側から発せられた問いなのか、もう判別できない。


「ヒカル様を——お救いする」


 リリアの唇が動いた。声になったかどうかは分からない。


 お救いする。


 この言葉の意味が、今、2つある。


「竜姫の枷から解放する」という意味と、「全ての苦しみから永遠に解放する」という意味。


 2つの意味が、同じ言葉の中で重なり合っている。重なり合って、区別がつかなくなっていく。


(これが——愛だったはずだ)


 愛。


 愛しているから、守りたい。

 愛しているから——楽にしてあげたい。


 その2つは、同じことなのか。違うことなのか。


 分からない。分からないことが、もう怖くなくなっていく。怖くなくなること自体が、最も恐ろしいことなのだと、「監視する私」が記録する。だが、その記録の声も、術式の紫色の光に少しずつ飲み込まれていった。



 ◇◆◇◆◇



 術式の第一段階が終了し、リリアは台座から降ろされた。


 魔導針が抜かれた跡には鈍い痺れが残り、自力で立つことすらままならない。カインが家政婦長のマルタに介護を命じ、館を後にした。


「介護を頼む。何があっても、定刻の手順を崩すな」


 マルタは命じられた通り、盆に水と清潔な布を載せて部屋に入った。


 盆を置く。布を絞る。

 そして、リリアの額を拭く。汗で濡れた髪を整える。水を飲ませる。


 いつもの無関心な手つき。20年間の習慣に裏打ちされた、機械のような正確さ。配膳と同じだ。手順が決まっている。手順に感情は含まれない。


 マルタがリリアの右手を拭おうとした時、それは起きた。

 眠っているはずのリリアの手が、猛烈な速度でマルタの手首を掴んだ。


 マルタの動作が止まった。


 声は上げなかった。

 ただ、3秒間、身体の全ての動きが停止した。


 リリアの指は、骨が軋むほどの力でマルタの手首を締め上げていた。

 だが、その顔は深い眠りの中にあった。唇には、あのメイドの微笑みが——死後硬直のように張りついていた。


 マルタは3秒間、動かなかった。


 それから、静かに、一本ずつリリアの指を外した。力は入っていない。無意識の動作。だが、握力は——マルタが今まで扱った、どの食器よりも、どの錠前よりも、強かった。


 マルタは盆を持って部屋を出た。


 廊下を歩く。歩幅62センチ、毎秒1.1メートル。だが靴底の接地が——いつもより2センチだけ歩幅が短かった。




 自室に戻り、マルタは手首を見つめた。


 5本の指の跡が、黒ずんだ痣として残っていた。

 マルタはその痣を、3秒間見つめた。それから、痣の上に長袖の袖口を引き下ろし、ベッドに腰を下ろした。


 何もしなかった。


 何も考えなかった——かどうかは、マルタ自身にも分からなかった。

 ただ、翌朝の配膳の手順を、頭の中で確認した。スープは左手、パンは右手、果物は最後。


 手順は変わらない。手順だけが、変わらない。



 ◇◆◇◆◇


 意識が戻った時、世界は音のない水底にあるようだった。


 身体の感覚が遠い。天井が見えている。壁が見えている。だが、それらの輪郭が、微かに歪んでいる。壁紙の色が、いつもと同じかどうか分からない。いつもの色を覚えているかどうかも分からない。


 ただ1つ——。


「リリア」


 脳の最深部で、その4文字だけが脈打っていた。


「リ」の音が鳴り、「リ」の余韻が消える前に「ア」が鳴る。4つの音が、壊されかけた意識の底で、錆びた杭のように打ち込まれている。


 術式は、10年分の記憶を開き、その記憶の意味を書き換えた。ヒカルの笑顔は「殺すべき対象の顔」に、ヒカルの声は「停止すべき生体反応」に、ヒカルの温もりは「排除すべき障害」に。


 だが、名前だけは書き換えられなかった。


「リリア」


 泥道で8歳の少年がくれた4文字。涙がこぼれた日の4文字。白百合の花壇の前で、世界が初めて意味を持った4文字。


 カインも魔術師も、その結びつきの強さを過小評価していた。記憶の意味は書き換えられる。だが、名前は——名前そのものが、記憶の意味の根源だった。名前を消せば、全ての記憶が崩壊し、道具としても使い物にならなくなる。


 リリアは暗い天井を見上げ、唇だけを動かした。


「私は、リリア。ヒカル様の、メイド」


 崩壊する自我の中で、唯一残った杭。


 マルタの手首を掴んだことを、リリアは覚えていない。右手が何かを握りしめていた感触が、微かに残っている。何を握っていたのか分からない。


 分からないまま、リリアは目を閉じた。


 次に目を覚ました時、自分が誰なのか、まだ分かるだろうか。


 その問いを発したのが「守る私」なのか「監視する私」なのか、もう区別がつかなかった。


【第十三話:支配者の綻び につづく】


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