第十三話:支配者の綻び
軟禁生活が始まってから、1年半以上の月日が流れていた。
館を囲む景色は白銀に閉ざされ、窓の外では冬の凍てつく風が慟哭のような音を立てて吹き荒れている。
リリア・シャイニングの精神は、すでにその大半がカインの術式によって塗り潰されていた。
ヒカルへの愛着を燃料とした殺意の回路は、今や彼女の深層心理に深く根を張り、特定の「鍵」が回る瞬間をじっと待っている。
(私は、リリア……。ヒカル様の、メイド……)
一日に数百回、あるいは数千回。
自らの自我を繋ぎ止めるための呪文は、繰り返されるたびに摩耗し、砂のように崩れ落ちていく。
今の彼女は、薄い氷の上に立っているような危うい均衡の中にいた。
そんな冬の深夜のことだった。
館の正門前に、1人の男が倒れ込んだ。
雪の上に引かれた赤い筋。
それは、重傷を負った帝国兵が流した鮮血だった。
「何事だ! 誰か、救護班を!」
護衛兵長トビアスの緊迫した声が、静まり返った館に響き渡る。
トビアスは手際よく兵士を抱え上げ、1階の広間へと運び込んだ。
リリアは自室の扉を数ミリだけ開け、その喧騒を観察していた。
廊下の隅では、館の主である辺境伯エルヴィンが、青ざめた顔で立ち尽くしている。
「……ああ、なんということだ。よりによって、この時期に」
エルヴィンは、震える指先で額の汗を拭った。
「面倒なことになった。……カイン殿に何と説明すればよい。いや、それよりもこの領地は……。もしあの方が攻めてきたら、我々は真っ先に……」
『あの方』——。
その呼称に、リリアの眉が微かに動いた。
1年半前、ヒカルを「裏切り者の小僧」と呼んでいたエルヴィンの瞳から、かつての蔑みは消え失せていた。
今の彼にとってヒカルは、正義や悪といった倫理で測る対象ですらない。ただ自分の領地を蹂躙し、積み上げてきた平穏を灰に変え得る、抗いようのない「天災」そのものへと変質していた。
彼の呟きには、カインへの怯えよりも、もっと切実な、剥き出しの生存本能が滲んでいた。
敵対心すら抱く余裕を失い、ただただ圧倒的な力に平伏し、その直撃を免れたいと願う弱者の祈り。
帝国の盾を自称していたはずの辺境伯の精神が、音を立てて軋んでいることを、リリアは冷徹に聞き取っていた。
カインはこの週、一度も姿を見せていなかった。
定刻を何よりも重んじる彼が、火曜日の訪問に続き、金曜日の予定までも飛ばしたのだ。
それは、1年半の記録の中で初めて起きる、絶対的な秩序の崩壊だった。
◇◆◇◆◇
リリアは部屋の床に耳を押し当て、1階から漏れ聞こえてくる声に神経を集中させていた。
術式によって鋭敏化された感覚が、トビアスたちの介抱を受ける脱走兵の、掠れた声を拾い上げる。
「……全滅だ。部隊は、跡形もなく……」
兵士の呼吸は浅く、激しい恐怖に支配されていた。
「竜の王の軍が……南方から迫っている。信じられん。あの方の軍勢は、1人も犠牲を出さないのだ。逃げ場を完璧に奪い、我々の戦意を根こそぎ刈り取っていく。……抵抗する隙すら、与えられなかった」
竜の王。
リリアの心臓が、鐘を叩かれたかのように激しく脈打った。
ヒカルのことだ。
瞬間、深層に埋め込まれた殺意の回路が、火花を散らして起動しかける。
右手が痙攣し、目に見えない短剣を握る形に固まった。
だが、その暴走よりも速く、リリアの中の冷徹な分析眼が稼働した。
(……全滅? 違う)
リリアは脳内の作戦図を更新する。
兵士は「全滅」と言ったが、その身体に残された傷は浅い。致命的な出血もなく、ただ恐怖に打ちのめされている。
(南を包囲し、あえて北西に『逃げ道』を作ったのですね。逃走を促し、軍としての統制を自ら崩壊させる戦術……。犠牲が少ないのではない。ヒカル様はあえて逃がしている)
それは、ヒカルがかつて教団で見せていた「戦わずして勝つ」戦術そのものだった。
聖女の軍という巨大な壁を前にしても、ヒカルは敵兵の命を奪うことを極限まで避けている。
逃げた兵士たちが「竜の王の慈悲」を語ることは、教団のプロパガンダにとって毒になる。カインが恐れているのは、軍事的な敗北以上に、ヒカルの「優しさ」による人心の瓦解なのだ。
リリアの脳内で、暗殺施設の教本が自動的に再生された。
第12章、第4節。「追い詰められた標的は、普段しない譲歩をする。追い詰められた標的は、最も隠したい情報を守るために、別の情報を差し出す。追い詰められた標的の足音は、0.3秒以内に不規則になる」。
標的。
リリアはその言葉を脳裏で反芻し、微かな戦慄を覚えた。
自分は今、カインを「標的」として分析している。暗殺施設で教え込まれた思考回路が、1年半の軟禁を経てなお正確に稼働している。カインが自分に植え付けようとしているもの——暗殺者としての自我——と、自分がカインに向けている視線が、構造的に同じだった。
分析する私は、分析される私と同じ場所にいる。
その認識は、恐怖よりも深い、底のない場所へとリリアを引きずり込もうとした。
(ああ、ヒカル様。……変わって、おられないのですね)
殺意の疼きよりも先に、温かな熱が胸の奥を通り抜けた。
術式によってどれほど歪められようとも、その事実だけが、今の彼女にとっての唯一の福音だった。
しかし、その温もりはすぐに、氷のような殺意へと上書きされていく。
「救わねばならない。あの地獄のような竜の国から。……あの方を、終わらせて差し上げなければ」
呪いの回路が、彼女の意識を再び支配していく。
◇◆◇◆◇
翌日の夕刻。
カイン・グリムウッドが館に到着した。
予定よりも半日以上遅れての来訪だった。
リリアは窓格子の影から、馬を降りる彼の姿を観察した。
馬車ではない。カイン自らが馬を駆ってきたのだ。
それも、相当な速度で。
彼の外套には深い皺が寄り、裾は泥と雪にまみれていた。
何よりもリリアを驚かせたのは、カインの顎に残る剃り残しだった。
1年半の間、身嗜みの乱れを1ミリも見せなかった支配者。
その彼が、髭を剃る時間すら惜しんでここへ来た。
カインはリリアの部屋に入るなり、脱走兵の処遇について命じた。
「……処刑しろ」
その言葉は、1年半前と同じだった。
夜盗を始末させた時と同じ、論理的で正しい判断。
だが、声が違った。
以前の彼は、帳簿の誤字を正すような、淡々とした事務的な響きを持っていた。
だが今日の声には、隠しきれない苛立ちと、焦燥が、錆びた刃のように混じっている。
それに、彼は即答しなかった。
トビアスから状況を聞いた後、ほんの数秒——。
0.5秒ほどの空白があった。
リリア・シャイニングの脳内で、暗殺者としての分析が走る。
(追い詰められた標的は、普段しない譲歩をする……)
カインの余裕が、消えかけている。
ヒカルの「犠牲を出さない戦い」が、帝国の兵たちの戦意を削ぎ、カインを孤立させているのだ。
彼は今、自分自身の制御できない「かつての愛弟子」の優しさに怯えている。
「カイン様」
リリアは、いつもの穏やかな、温度のない声で語りかけた。
「前線の情報を、さらに詳しく聞き取りたいと思います。あの兵士が持っている情報は、あの方……竜の王を無力化するための、重要な手がかりになるはずです」
カインの眉間が、一瞬だけピクリと動いた。
1年半前の彼なら、メイドが作戦に口を出すことなど一蹴していただろう。
だが、今のカインはリリアの中に「自分と同じ、ヒカルへの執着」を見出し、それに縋ろうとしていた。
「……いいだろう。お前に任せる」
カインが部屋を出ていく足音を聞きながら、リリアは自分の右手を見た。
震えていない。
1年半前、トビアスの笑顔を見た時に震えた手。カインの「お前と俺は同じだ」を聞いた時に震えた手。その手が、今、震えていない。
震えなくなったのは、恐怖が消えたからではない。
恐怖を記録する機能が、他の何かに上書きされたからだ。
リリアは右手を握り、開いた。指先の感覚を確認する。暗殺施設で叩き込まれた手順。任務前の最終点検。
(私は、いつから任務前の点検をするようになった?)
その問いの答えを、リリアは追わなかった。追えば、今の自分が何のために稼働しているのか、直視しなければならないからだ。
【第十四話:スイッチの埋設 につづく】
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