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第十四話:スイッチの埋設

 地下の空気は、さらに鋭く、冷たくなっていた。

 二回目となる精神調整の術式。それはリリアの魂の最深部に、「殺意の回路」を完結させるための工程だった。


 石造りの台座に固定されたリリアの視界は、どろどろとした魔力の残光に染まっている。

 朦朧とする意識の中で、カインの声と魔術師の声が、遠い場所で交差していた。

 言葉の断片だけが届く。


「……愛着が深いほど……出力は……」

「……成功率は100%に……」


 意味が取れない。取れなくていい。今、リリアの意識を占めているのは、術式が開いていく記憶の扉の向こうにあるヒカルの笑顔だけだ。


 その笑顔を思い出すたびに、輪郭が微かに歪む。笑顔の形はそのままなのに、笑顔を見つめている自分の指先が——何かを計算し始めている。


 頸動脈への到達距離。首筋の角度。最も抵抗なく刃が通る位置。


 ヒカルの笑顔で、ヒカルの声で、その計算が走る。


(……はい。愛しています。ですから、お救いします……)


 竜姫という怪物たちの支配から、あの方を解き放つための手順。そのためには、自分の愛を一度、冷たい刃に変えなければならない。


 リリアは自らの愛を差し出した。


 その愛が、カインの手によって「殺意の燃料」に加工されていることを、朦朧とする意識は正確には理解していなかった。


 ◇◆◇◆◇


 地下室の石壁が、術式の余波で微かに脈動していた。


 リリアの意識は、薄い氷の上を歩くような不安定さの中にあった。「殺す私」は術式によって強化され、「守る私」は日に日に声が小さくなり、「監視する私」だけが冷徹に両者の出力を記録し続けている。


 3人の私。


 3人で1つの身体を動かしている。椅子に座る時は「守る私」が主導権を握り、カインの声を聞く時は「監視する私」が前に出る。そして、ヒカルの名前を思い出した時——「殺す私」が、0.3秒だけ右手の制御を奪う。


 0.3秒。親指を折るまでの猶予。

 その猶予が、日に日に短くなっている。先週は0.3秒だった。今日は0.25秒。明日は——。


 カインが耳元で囁いた。


「『そして、その忠誠は、いつか必ず、王を護る剣となるだろう』」


 リリアの瞳から光が消え、すぐに戻った。


「……はい、カイン様」


 自分の声が聞こえた。自分の声なのに、自分の声ではないように聞こえた。声帯は自分のものだ。口の形も自分のものだ。だが、あの「はい」を発する判断を下したのが、自分の意志なのか、術式の反射なのか——区別がつかなかった。


 4人目の自分が生まれた音が聞こえた。


「殺す私」でも「守る私」でも「監視する私」でもない。カインの命令を実行する「人形の私」。


 4人が1つの身体の中で、静かに軋んでいる。


(私は、リリア)


 その言葉を、誰が唱えているのか。4人のうちの誰が。


 分からない。


 分からないまま、リリアは暗い天井を見上げた。3つの対処法を暗唱する。右手が震えている。


 ◇◆◇◆◇



 術式が完了してから、数時間が経過した。

 寝室に戻されたリリアは、泥のような疲労感の中で椅子に座っていた。

 そこへ、カインが音もなく現れる。


 カインはリリアの正面に立つと、あえて感情を排した、しかし重みのある声で語りかけた。


「リリア。お前がヒカルのためにすべてを捧げるというのなら、最後にもう一度『誓約』を確認させてもらう」


 カインの手が、リリアの顎を優しく持ち上げる。

 その瞳に宿るのは、教え子の忠誠を試す教師の顔ではなく、完成した兵器の安全装置を確認する冷徹な開発者の眼差しだった。


「いいか、よく聞け。……『そして、その忠誠は、いつか必ず、王を護る剣となるだろう』」


 そのフレーズ——術式の最中に幾度となく刷り込まれた「暗号」が耳を打った瞬間。


 リリアの脳内で、埋設された回路が爆発的な熱を持って起動した。


 ドクン、と心臓が跳ねる。

 視界が、一瞬にして真っ赤な殺意に染まった。

 

「————あ」


 気づいた時には、リリアの右手がテーブルに突き刺さっていた。

 いつの間に手にしたのか、そこには一本のナイフがあった。


 銀色の刃は、先ほどまで彼女がぼんやりと見つめていたテーブルの木目を貫き、深い、深いところまで沈み込んでいる。

 

 数秒後、リリアの意識が現実へと浮上した。

 激しい動悸と、肺を焼くような呼吸の熱さ。

 自分の右手が、ナイフの柄を白くなるほどの力で握りしめている。

 

 チリ、チリと、テーブルに突き刺さったナイフの刃が震えていた。

 

「……完璧だ。一ミリの迷いもない」


 カインが、満足げに頷いた。

 

「愛おしさが極大に達する言葉に、殺意のスイッチを同期させた。……お前は今、俺の言葉を聞いて、あいつを想い、護りたいと強く願ったはずだ。その瞬間に、お前の身体はあいつを屠るための最適解を選んだ。これこそが、竜の感知を潜り抜ける唯一の刃だ」


 カインの賞賛は、リリアの耳には届かなかった。

 彼女の視線は、扉の影に釘付けになっていた。


 そこには、食器を下げに入ろうとした家政婦長マルタが、石像のように立ち尽くしていた。

 マルタの手にした盆の上で、スープの器が微かな音を立てて震えている。


 20年間、この館で感情を殺し、手順だけを繰り返してきた女。

 そのマルタが、初めて表情を変えていた。


 無関心ではない。同情でもない。

 それは、言葉にするのも憚られるような、根源的な「恐怖」だった。


 リリアは自分の右手を見つめた。


 ナイフを握っていた掌には、まだ刃の振動が残っている。テスト起動の4秒間——いや、7秒間だったのか、リリアには分からなかった。時間の感覚が欠落している。


 分かっているのは、あの4秒か7秒の間、自分が「楽しかった」ということだ。


 ナイフがテーブルに突き刺さる感触。掌に伝わる衝撃。それが、ヒカルの首に刃を当てた時の感触と重なり、その重なりに——快楽があった。


 リリアは自分の掌を、もう片方の手で覆った。


 これは私の感情なのか。それとも、術式が植え付けたものなのか。

 その問いに答える術を、リリアは持たなかった。


 ヒカル様の笑顔を思い出すだけで、指先が獲物を探して動く。あの方の名前を呼ぼうとすると、喉が殺意で締まる。


(こんな兵器に成り果てた私が、あの人の前で、もう一度あの微笑みを貼りつけることができるのだろうか)


 10年間、あの人の隣で磨き上げた、あのメイドの微笑みを。



 ◇◆◇◆◇



 カインが満足げに去った後、沈黙だけが残された部屋にマルタが入ってきた。


 マルタは何も言わなかった。

 いつものように、無機質な動作でテーブルに近づく。

 そして、リリアが突き刺したままのナイフの柄を、迷いのない動作で掴んだ。


 みり、と嫌な音がして、ナイフが引き抜かれる。

 マルタはナイフの汚れを布で拭い、それを他の食器と共に盆に載せた。


 その間、マルタは一度もリリアと目を合わせなかった。

 いや、目を合わせることを避けているのが、リリアには手に取るように分かった。


(……見られた。いやカインはわざと見せたのだわ)


 リリアは、自分の右手を見つめた。

 ナイフを握っていた掌には、まだ刃の振動が残っている。


 マルタの瞳に宿っていたものは、明らかに「人間ではないもの」を見る目だった。

 普通の人間に、言葉を超えた戦慄を与える存在。


 20年間、どんな凄惨な「調整」の事後処理も淡々とこなしてきたはずのマルタが、リリアのあの瞬間の反応にだけは、耐えきれなかったのだ。


 今の自分は、普通の人間の世界から、完全に踏み外してしまった。


 ヒカル様の笑顔を思い出すだけで、指先が獲物を探して動く。

 あの人の名前を呼ぼうとすれば、喉が殺意で締め上げられる。

 

 こんな「兵器」に成り果てた自分が、あの人の前で、もう一度あの微笑みを貼り付けることができるのだろうか。

 10年間、あの人の隣で磨き上げた、あのメイドの微笑みを。


 窓の外では、雪が風に舞っていた。

 マルタが部屋を出ていく足音が、いつもよりわずかに速く、逃げるように遠ざかっていく。


 リリアは暗い部屋の真ん中で、一人、名前のない恐怖に震えていた。



 ヒカル様に会いたい。



 その願いそのものが、自分を破壊し、あの人を殺すための動力源になっている。


 その矛盾に、彼女の心は音もなく、砕け散ろうとしていた。


【第十五話:鎖の断片 につづく】


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