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第十五話:鎖の断片

 深夜、月明かりすら届かない部屋の片隅で、リリア・シャイニングは壁に向かっていた。


 右手の指先には、自ら噛み切った傷口から滲む、どろりとした熱が宿っている。

 それを筆代わりにして、彼女は剥がれかけの壁紙に文字を刻み続けた。


「私はリリア。ヒカル様のメイド。殺してはならない」


 掠れた赤黒い文字が、呪詛のように壁を埋め尽くしていく。

 それは思考を術式に塗り潰され、自我が溶解していく彼女が行える、最も原始的で無様な抵抗だった。


 文字を書くたびに、指先の傷が机の角や壁の凹凸に触れて鋭く痛む。だが、その痛みが今の彼女にとっては唯一、自分が「生きている人間」であることを証明する錨となっていた。




 翌朝、リリアが目を覚ますと、壁紙は跡形もなく張り替えられていた。

 カインか、あるいはその部下たちが、彼女の「抵抗」を事務的な作業として抹消したのだ。


 翌夜も、彼女は書いた。

 そして翌朝には、再び真っ白な無機質な壁に戻されていた。


 そんな無意味な、しかし彼女にとっては命懸けの攻防が、3週間続いた。


 4週間目を迎える頃、リリアは文字を書くのをやめた。

 代わりに、彼女は壁に「数字」を羅列し始めた。


 文字は消される。叫びは消される。

 ならば——観察に切り替える。


 その判断は、リリアの意志というよりも、暗殺施設で叩き込まれた条件反射だった。


「排除対象の行動パターンを記録せよ。排除対象の弱点を数値化せよ。排除対象の反応速度を計測せよ」。


 排除対象。


 壁に「右手の反応速度 0.3秒」と書いた瞬間、リリアの指が止まった。


 この手順を、以前にもやったことがある。暗殺施設で、標的の反応速度を壁に記録した時と、同じ手つき、同じ筆圧、同じ角度。


 自分を「標的」として分析している。


 その事実の異常さを、リリアは冷静に認識した。認識した上で、筆を止めなかった。これが唯一の生存手段だと理解していたからだ。


 暗殺者の知性は、自分自身を殺すためにも使える。

 だが、自分自身を生かすためにも使えるはずだ。




「右手の反応速度 0.3秒」

「殺意の持続 4〜7秒」

「自傷で中断まで 1.2秒」


 暗殺者養成施設で、番号として生きていた頃に叩き込まれた、冷徹な自己分析能力。

 彼女はその刃を、初めて自分自身の「壊れた精神」へと向けた。

 

 壁に書き込まれたのは、もはや情緒的な叫びではない。

 埋設された殺意の回路が起動した際、いかにしてそれを物理的に阻害し、遅延させ、強制終了させるか。

 それは、自分という名の「兵器」を制御するための、冷酷な実験データだった。



 ◇◆◇◆◇



 朝食の時間、家政婦長マルタが部屋に入ってきた。


 マルタは壁に書き殴られた不気味な数字の列を一瞥もせず、いつものように盆をテーブルに置いた。

 リリアは、その動作を食い入るように観察した。


 スープは左手。パンは右手。果物は、最後。


 20年間、この館で繰り返されてきたという、一寸の狂いもない手順。

 食器を置く角度、腰を落とす深さ、立ち去るまでの速度。

 

 それらはすべて、マルタという女の精神を支える、強固な基盤そのものに見えた。

 感情を排し、手順を神聖な儀式のように繰り返すことで、彼女はこの悍ましい「調整」が行われる館で、正気を、あるいは正気のような何かを保ち続けている。


(手順への、信頼……)


 リリアの中で、失われかけていたメイドとしての記憶が強く反応した。


 自分もかつて、そうだった。


 ヒカル様にお茶を淹れる。シーツの皺を伸ばす。

 その決まりきった「手順」こそが、自分の居場所を定義していた。


(ならば……この殺意を抑え込むことも、一つの『手順』にすればいい)


 カインの魔術による洗脳に、自分の意志で抗うことは不可能だ。

 ならば、洗脳が発動した直後の挙動を、強固な「メイドの動作」として上書きする。


 リリアは、自分を縛る3つの手順を確定させた。


 3つ。


 親指を折る。番号を暗唱する。舌を噛む。

 リリアはその3つを、暗い天井に向かって指を折りながら数えた。


 3つでは足りない。


 暗殺施設の教本では、標的の行動パターンを制御するために、最低でも12の手順が必要とされていた。3つの手順で制御できるのは、反射的な衝動の初動だけだ。殺意が4秒を超えて持続した場合、3つの手順は全て消耗しきる。


 もっと必要だ。もっと多くの手順が。もっと精密な、もっと体系的な——。


 マルタの配膳を思い出す。スープは左手、パンは右手、果物は最後。20年間同じ手順、同じ角度、同じ速度。あの人は、手順を積み重ねることで自分を保っている。


(いつかヒカル様の傍に戻れたら、3つではなく、100の手順を。いや、それでも足りないかもしれない。全てを書き記す必要がある。私がいなくなった後のことも含めて。私が暴走した時、ヒカル様自身が私を止めるための手順を。私を殺してでも、主様が生き残るための、絶対の法則を)


 これを常に同じ順序で、呼吸をするように実行する。

 痛みと手順の反復によって、殺意の回路に微かな「ラグ」を生じさせる。

 それが、彼女が見出した唯一の生存戦略だった。



 ◇◆◇◆◇



 その日の深夜。

 リリアの部屋の外の廊下で、規則正しい、しかしどこか急ぎ足の靴音が響いた。


 護衛兵長トビアスの巡回だ。

 1年半の間、彼が刻んできた歩調をリリアの耳は記憶している。

 だが、今夜の彼の足音には、隠しきれない「焦り」が混じっていた。


 ドォォン……。


 遠く、地鳴りのような響きが、分厚い石壁を伝って部屋の中にまで届いた。

 それは雷鳴ではない。前線から届く、大規模な魔導砲の砲声だった。

 あの方が率いる竜の国との戦線が、この館のすぐ近くまで迫っている。


 廊下で靴音が止まり、扉の覗き窓がわずかに開いた。


「……リリア、起きているか」


 トビアスの声は、かつての快活さを失い、ひどく掠れていた。

 彼は扉越しに、部屋の中を伺っている。


「砲声が聞こえるだろう。……すまない。この館の安全は、もう長くは保てないかもしれない」


 トビアスの善意。

 それはリリアにとって、今や最も痛烈な毒だった。

 彼が自分を気遣えば気遣うほど、リリアの中の殺意の回路が、「弱点を見せた標的」として彼を認識し、右手が震え始める。


「……トビアス様。早く、お戻りください」


 リリアは壁に背を預け、震える右手を左手で押さえつけながら、絞り出すように答えた。


「私は、大丈夫です。……ですから、どうか」

「……ああ。しっかり戸締まりをしておけよ」


 トビアスはそれ以上何も言わず、再び歩き出した。

 遠ざかる靴音に混じって、また一つ、大きな砲声が響く。


 トビアスの靴音が遠ざかる。歩幅——。


 数えなかった。


 1年半前のリリアなら、反射的に歩幅と速度を計測していたはずだ。今のリリアは、数えようとして、数える前に靴音が消えた。


 いや、違う。数えることを忘れた。


 数えることを忘れたのは、疲弊のせいではない。計測する「監視する私」の処理能力が、4人目の「人形の私」に食われ始めているからだ。





 この館を囲んでいた歪な「日常」が、終わりに近づいている。

 カインが最後の命令を下す日が、もうそこまで来ていることを、リリアは肌で感じていた。



 ◇◆◇◆◇



 ある早朝、壁紙の張り替えのためにマルタが一人で現れた。


 リリアは寝台に腰掛け、新しい壁紙を貼るマルタの背中を見つめていた。

 マルタの視線が、昨夜リリアが最後に書き残した場所で止まった。


 そこには、数字ではない言葉が一つだけあった。


「私はリリア」


 マルタの手が、数秒間だけ静止した。

 彼女は振り返らなかった。

 だが、その口元が微かに動き、声に出さず、ただ口の形だけでその文字をなぞったのを、リリアは見逃さなかった。


 暗殺施設の訓練が反射的に発動する。口の動きは情報の漏洩。読唇術による解析対象。

 だが、マルタの口が形作った言葉は、情報ではなかった。


「わ・た・し・は・リ・リ・ア」


 5文字。


 マルタはその5文字を声にせず、壁紙に新しい紙を貼り、部屋を出た。

 リリアは暗い天井を見上げていた。


 あの人は、私の名前を知っている。


 当たり前のことだ。1年半、毎日食事を運んできた相手の名前を知らないはずがない。だが、「知っている」ということと、「口の形でなぞる」ということは、違う。


 マルタは、あの血文字を、読んだ。


 読んで、声にしなかった。声にしなかったのは、声にすれば「業務の外」に出てしまうからだ。

 だが口の形だけでなぞったのは——。


 リリアには、その行為の意味を定義する言葉がなかった。同情でも共感でも観察でもない。ただ、あの5文字を誰かが認識したという事実が、3本の釘とは別の何かとして、リリアの胸の底に沈んだ。




 マルタはそのまま何も言わず、新しい壁紙ですべてを覆い隠すと、音もなく部屋を出ていった。


 その夜、リリアは再び暗い天井を見上げていた。

 右手の親指を、ゆっくりと、折れない程度に曲げてみる。


「……3つじゃ、足りない」


 暗闇の中で、彼女は静かに呟いた。

 

「いつか、ヒカル様の傍に戻れたら……もっとちゃんとしたものを作らなくては。私がいなくなっても、あの方が、あの方らしくいられるための、完璧な手順を。……私を殺してでも、主様が生き残るための、絶対の法則を」



 12年後。

 彼女が血と涙で綴ることになる、全287ページに及ぶ「メイド教本」。

 その最初の一粒が、この時、絶望の館の片隅で産声を上げた。



 だが、今の彼女はまだ、その未来を知らない。


 知っているのは、自らの肉体を損なう3本の釘と、マルタの手順。

 そして、遠くで響き続ける、主を呼ぶ砲声だけだった。


 リリアは、もう一度自分に言い聞かせるように、唇を動かした。


「私はリリア。……ヒカル様の、メイド」


 窓の外では、夜明けを告げる冷たい風が、白銀の雪を舞い上げていた。


【第十六話:最終任務 につづく】


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