第十六話:最終任務
帝国の最終防衛線が崩壊したという報せは、低く立ち込める雨雲の下、遠雷のような砲声と共に館へと届けられた。
軟禁生活の最後となる朝。カイン・グリムウッドは、いつも通りの、しかしどこか晴れやかな表情でリリアの部屋を訪れた。
カインの背後には、騎士たちが捧げ持った盆がある。
「着替えろ、リリア。主人に会いに行く時間だ」
用意されていたのは、新しい紺色のメイド服だった。
それは、かつて教団でヒカルの専属メイドとして仕えていた頃と、寸分違わぬ色と意匠。リリアが「リリア」として存在していた時代の衣装だった。
リリアは無言でそれを受け取り、着替えた。
指先が紺色の生地に触れた。
リリアの脳裏で、10年分の記憶が明滅する。
朝、ヒカルの部屋の扉をノックする時の、指先に伝わる樫材の硬さ。茶を淹れる時の、急須の蓋を持ち上げる右手の角度。書斎の灯りの芯を換える時の、蝋の匂い。シーツの皺を伸ばす時の、布の手触り。
全てが、遠い前世の記憶のように感じられた。
袖を通す。ボタンを留める。襟を正す。メイドの手順。1つずつ、正確に。
感情がゼロになっていることに、リリアは気づいていた。命令と愛と恐怖と渇望が、等しい重さで同時に押し寄せた結果、何も感じられなくなっている。悲しくも、苦しくも、嬉しくもない。
(これが、出発の準備なのだ)
鏡の中に、1年半前の自分がいた。紺色のメイド服。明るい亜麻色のショートカット。控えめな微笑み。
だが、瞳の奥に宿る無機質な闇だけが、失われた時間の過酷さを物語っている。
リリアは微笑みを確認した。10年間磨いた微笑み。完璧だった。完璧すぎた。1年半前の自分の微笑みと、今の自分の微笑みの区別が、鏡越しにはつかなかった。
カインは満足げに頷くと、懐から一振りの銀の短剣を取り出した。
それは、ヒカルが12歳の頃、護身用として身につけていたものだ。
「これを持っていけ。お前が何者であるか、あいつに思い出させるための証明になる」
短剣の柄に触れた瞬間。
懐かしさと、埋め込まれた殺意が同時に火花を散らした。
愛着という名の燃料が、短剣という火種を得て、静かに燃え始める。
「行ってこい。我が愛しき軍師の元へ。……彼を救えるのは、お前だけだ」
カインの声は、呪いのように甘く、慈愛に満ちていた。
リリアはその言葉を、空洞になった心の中で反芻した。救済としての死。カインが1年半かけて彼女に植え付けた、歪んだ福音。
◇◆◇◆◇
館の正門前には、冷たい雨が降り注いでいた。
リリアの出発を見送るために並んだのは、カインと数人の騎士、そして家政婦長のマルタだけだった。
館の主であるエルヴィン伯爵の姿は、やはりそこにはない。
彼は、ついに最後まで、自らが「兵器」へと変えた少女の瞳を見ることから逃げ出したのだ。善人ゆえの身勝手な罪悪感。リリアはそれを、冷え切った思考の端で、塵のようにどうでもいいこととして切り捨てた。
リリアは門の前で、カインに向けて深々と一礼した。
「……ヒカル様をお迎えに上がります、カイン様」
その声は、驚くほど平坦だった。
命令、愛、恐怖、渇望。それらすべてが極限まで拮抗した結果、彼女の感情は完全に凪ぎ、透明な空白へと至っていた。
リリアが背を向け、一歩を踏み出した。
門の脇にマルタが立っていた。
リリアの暗殺者の分析眼が、反射的にマルタの姿勢を解析した。歩幅62センチ、毎秒1.1メートル——いや、マルタは歩いていない。立っている。門柱の横に、業務として立っているのか、それとも。
リリアが通り過ぎようとした瞬間、マルタの口が動いた。
リリアの身体が反射的に緊張した。口の動きは情報の漏洩。暗殺施設の訓練——読唇術による解析対象。身構える。
だが、マルタの口から出た言葉は、情報ではなかった。
「お気をつけて」
5文字。
リリアの足が止まった。0.5秒だけ。
20年間、この館で「食事です」「下げます」「おはようございます」以外の言葉をリリアに向けたことのない女が、命じられた仕事の範囲を初めて1ミリだけ超えた、個人的な言葉。
マルタの発語パターンを1年半にわたって記録してきたリリアの「監視する私」が、その逸脱の大きさを正確に計算した。マルタの1年半の総発語回数に対する、「業務外の発語」の比率。0.0001%未満。統計的には誤差。
だが、その誤差だけが、人間の言葉だった。
リリアは振り返らなかった。振り返る機能は、4人のうちの誰にも残されていなかった。
ただ、その一言の温度だけが、紺色のメイド服の背中に残った。冷たい朝の空気の中で、唯一、体温を持った5文字として。
◇◆◇◆◇
リリアが去った後の館。
門前で、護衛兵長トビアスが辺境伯エルヴィンに尋ねた。
「あの方は、どこへ行かれたのですか?」
エルヴィンは答えなかった。ただ、リリアが消えていった街道の先を、死んだような目で見つめ続けていた。
リリアが街道へ消えていった後、マルタは館に戻った。
リリアの部屋。マルタは壁紙を張り替える道具を持って入室した。糊。刷毛。新しい壁紙。全て、いつもと同じ道具。いつもと同じ手順。
壁紙を剥がす。古い糊を拭き取る。新しい糊を塗る。新しい壁紙を貼る。
角を合わせ、上から順に貼っていく。皺が入らないよう、刷毛で空気を押し出す。
壁の最下部に到達した時、マルタの手が止まった。
0.5秒。
血文字が、壁の最下部に残っていた。「私はリリア」。赤黒く乾いた4文字。
マルタは壁紙を持ち上げ、血文字の上に貼ろうとした。いつもの手順。いつもの角度。いつもの速度。
壁紙を1センチだけ短く切った。
その1センチの下に、「私はリリア」が残る。
マルタは道具を片付け、部屋を出た。廊下を歩く。歩幅62センチ、毎秒1.1メートル。
何も変わらない。何も起きていない。壁紙が1センチ短いだけだ。
「私はリリア」
その4文字だけが、新しい日常の裏側にひっそりと埋葬された。
この館でリリア・シャイニングという少女が生きていた、唯一の、そして最後の証拠として。
◇◆◇◆◇
辺境伯の館を発ってから、数時間が経過していた。
ぬかるんだ地面を蹴る音だけが、霧に包まれた世界に響いている。
リリアの歩調は、驚くほど正確だった。15分に一度、5分間の小休止。体温の低下を防ぎ、筋肉の疲労を最小限に抑える暗殺者としての行軍法。
彼女の脳内では、出発前にカインから与えられた断片的な戦況情報が、冷徹な軍師のシミュレーションとして再構成されていた。
(盟約軍の主力は南方の防衛線を突破し、中央山脈沿いに北上中。帝国軍の第五、第九師団はすでに壊滅……。聖女の軍も後退を余儀なくされている。あの方は、あと3日でこの平原に到達する)
カインは歪んだ笑みを浮かべて語っていた。
「あいつは、自分に濡れ衣を着せた聖女にさえ、慈悲をかけている。逃げ道を用意し、降伏を促す。……甘い。あいつのその甘さが、俺に付け入る隙を与えたのだ」
リリアは、懐にある銀の短剣に指を触れた。
カインは、リリアを「教団の拷問から命からがら逃げ出してきた、哀れな被害者」としてヒカルに接触させるつもりだ。ヒカルなら、必ず自分を助ける。かつてのように。
(潜入の第一段階は、盟約軍の斥候部隊への接触。……自ら見つかり、消耗を装い、ヒカル様の名を口にする。そこから本陣へと運ばれる確率は92%)
問題は、ヒカルの周囲を固める「六龍姫」だ。
彼女たちの異常な感知能力をどう掻い潜るか。殺意や敵意をわずかでも漏らせば、主の顔を見る前に塵にされる。
(『人形の私』を前面に出す。感情を去勢し、ただの空っぽのメイドを演じる。……殺意は『殺す私』が、深い淵の底で氷漬けにして持っておけばいい。発動の瞬間まで、誰にも見つからないように)
リリアは立ち止まり、遠くの空を見つめた。
そこからは、微かな魔力の爆鳴が響いている。
ヒカル。
その名を思い出すだけで、彼女の内側で「守る私」が泣き叫び、「殺す私」が歓喜に震える。
その軋みを「監視する私」が秒単位で記録し、「人形の私」がすべてを無色透明な膜で覆い隠す。
一つの身体の中で、四つの引き裂かれた人格が歪なダンスを踊っていた。
カインによって埋設された、愛を殺意に変換する「殺す私」。
泥道で拾われたあの日の記憶を抱きしめ、あの方を敬愛する「守る私」。
暗殺者としての冷徹な目で、右手の反応速度と筋肉の痙攣を秒単位で計測する「監視する私」。
そして、感情を去勢し、マルタの手順だけをなぞる、空っぽの「人形の私」。
遠く、前線から響く砲声が、一発ごとに彼女の精神を乱暴に揺さぶる。
砲声が響くたび、「監視する私」が距離を計算し、爆風の圧力を予測する。
同時に「守る私」が、主の身を案じて心臓を締め上げる。
その脈動に呼応して、「殺す私」が、愛おしさを殺意へと増幅させ、懐の短剣に指をかけさせる。
それらすべてを「人形の私」が、音のない悲鳴を上げながら無理やり繋ぎ止め、ただ前方へと足を運ばせていた。
空は低く垂れ込め、雨が視界を灰色に塗り潰していく。
かつて主の背中を追って歩いたあの日のような、純粋な献身はもうどこにもない。
あるのは、愛着を燃料にして燃え上がる、最悪の凶器としての使命だけだ。
リリアの影が、闇に沈んだ街道へと消えていく。
主のために自分を殺し、主を殺すことで救おうとする、狂気の一歩一歩。
前線基地の灯りが、夜霧の向こうにぼんやりと見え始めていた。
【第十七話:境界線を越えて につづく】
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