第十七話:境界線を越えて
帝国の防衛線が瓦解し、灰色の雨が大地を底なしの泥濘へと変えていた。
辺境伯の館を発って数日。リリア・シャイニングは、低く垂れ込めた雲を震わせる砲声の合間を縫うようにして、盟約軍の勢力圏へと足を踏み入れていた。
足が動く。15分に1度、5分間の小休止。暗殺施設の行軍法。
この手順を最後に実行したのはいつだったか。暗殺施設を逃げ出した夜か。泥道で倒れる前か。
あの時は、逃げていた。今は——。
(今は、何をしている?)
帰っている。ヒカル様の元に帰っている。
だが、帰るという言葉の意味が、以前と違う。以前の「帰る」は、書斎の灯りの下で茶を淹れる場所に戻ることだった。今の「帰る」は——。
リリアは、懐の銀の短剣に指先を触れた。ヒカルが12歳の時の護身用短剣。刃渡りは掌ほど。あの時、ヒカルはこの短剣を「リリアに持っていてほしい」と言った。護身のために。
今、この短剣は、護身のためにあるのか。それとも——。
指先が短剣の柄から離れない。離そうとする「守る私」と、握りしめようとする「殺す私」が、同じ指の中で拮抗している。
マルタの「お気をつけて」がふと脳裏をよぎった。あの声だけが、この数ヶ月で受け取った唯一の人間的な言葉だった。あの5文字が、指の力を0.1ミリだけ緩ませた。
足元は粘り気のある泥に足首まで没し、かつて誇りを持って身につけていた紺色のメイド服の裾は、泥と雨水を吸って鉄のように重くなっている。だが、彼女の歩調に乱れはない。15分に一度、5分間の小休止。その機械的な規則性こそが、今の彼女を繋ぎ止める唯一の「手順」だった。
小休止の間、「監視する私」が体温の低下、心拍数の乱れ、そして周囲の魔力密度を冷徹な眼差しで検分する。リリアは木陰に立ち尽くし、荒い呼吸を整えながら、霧の向こうに広がる戦場を俯瞰した。
(斥候の配置が甘い。……いえ、あえて隙を作っているのですね。逃亡兵を無益に殺さず、降伏を促すための『慈悲の道』。……あの方らしい、甘くて残酷な戦術です)
リリアは、かつてヒカルと共に戦術盤を囲み、夜更けまで議論を戦わせた日々を思い出す。
あの方は軍師として、常に「死ななくていい命」を救う道を模索していた。その戦術的な癖、思考の軌跡を誰よりも理解しているリリアにとって、今の盟約軍の包囲網に開いた「穴」を見つけるのは、呼吸をするよりも容易いことだった。
だが、その容易さが、彼女の「暗殺者」としての本能に、強烈な警鐘を鳴らしていた。
(……違和感があります。これでは、あまりに通りやすすぎる。カインが、こんな単純な盤面を見逃すはずがない)
森の境界線、放棄された帝国の物資集積所の影で、リリアは気配を完全に断ち、冷たい泥の中に身を伏せた。
数メートル先。教団の制服を脱ぎ捨て、薄汚れた傭兵の身なりに擬装した数人の男たちが、周囲を警戒しながら声を潜めて密談を交わしていた。
「監視する私」が、雨音に紛れる微かな唇の動きを読み取る。それはカイン直属の暗殺部隊が好む特殊な暗号。
「……王の巡察は明後日の深夜。断崖付近の北側ルートだ」
「軍参謀長のシエルやユグドラという女たちが厄介だが、護衛のシェイドを撹乱班が引きつけている隙に、教団特製の『刻印』を叩き込む。竜姫たちが気づく前に、あの方の心臓を止める。……カイン様からの至上命令だ」
リリアの心臓が、鐘を全力で打ち鳴らされたかのように激しく脈打った。
だが、彼女の「監視する私」は冷ややかにその密談を切り捨てた。
(……囮ですね。この男たちの歩法は素人同然。カインが本気でヒカル様を殺すなら、こんな目立つ連中に作戦を喋らせはしない)
リリアは泥の中でさらに息を潜め、五感を鋭敏に研ぎ澄ませた。
雨音の向こう側。風の揺らぎさえ伴わない「真空」のような不自然な静寂を探す。
……いた。
百メートルほど離れた老木の上。三人の影が、背景の闇に溶け込んで微動だにせず潜んでいる。
密談を交わしている男たちを「観測」し、その混乱に乗じて真の暗殺を完遂させる、カインが好んで使う多重構造の刺客部隊だ。
(カイン……あなたは私を信じていなかった。私という刃を研ぎ上げながら、保険として別の刃を忍ばせていた。……いえ、それすらも囮なのかもしれない)
瞬間、深層に埋め込まれた「殺す私」が爆発的な熱量を持って跳ねた。
自分以外の刃が、あの人の命に触れる?
あの方を終わらせる光栄を、別の誰かが奪おうとする?
激烈な拒絶と殺意が混ざり合い、リリアの脳内を狂気的な速度で掻き回す。
「……落ち着きなさい、私。壊れてはなりません」
リリアは泥を噛み、己の右手の親指を、みり、と鈍い音がするまで逆方向にへし折った。
鋭い激痛が脳を貫き、暴走する回路を強引に遮断する。
(いいえ。この刺客たちの存在は好機です。彼らが『撹乱班』として動き、本陣が騒がしくなる瞬間に合わせれば、私の潜入はより劇的な『再会』として演出できる)
冷徹な「軍師」としてのリリアが、急速に冷えていく頭で盤面を書き換える。
暗殺者たちのルート、タイミング。それをあえて泳がせ、自らが「暗殺を間一髪で防いだ忠義のメイド」として現れれば、六龍姫の警戒心さえも逆手に取れるかもしれない。
(あの方を救えるのは、私だけ。……竜の支配からも、カインの刺客からも、私だけが、あの方を安らかに終わらせてあげられる)
歪んだ使命感が、暴走しそうな殺意をかろうじて「型」の中に押し込める。
潜入して、彼を救う。そして、自分の手で、彼を永遠の安らぎへと導く。そのための舞台装置として、目の前の刺客たちを利用し尽くす。
◇◆◇◆◇
数時間後。
リリアは盟約軍の前線基地を囲む、厳重な外周部に到達していた。
彼女は、あえて「最も兵が疲弊している交代時間」を選んで姿を現した。雨に打たれ、泥にまみれ、疲れ果てた哀れな一人のメイド。だがその内側では、「監視する私」が周囲の兵士の視線、緊張度、実戦経験の有無を秒単位で分析し、最適な「弱々しさ」と「必死さ」を緻密に演出している。
「……止まれ! 何者だ!?」
鋭い叱咤と共に、数本の槍がリリアに向けられた。
斥候の兵士たち。その瞳には、竜の王への揺るぎない忠誠心と、それゆえの鋭い警戒心が宿っている。
「……私は……辺境伯エルヴィン様の館で、お世話になっていた……リリアと申します……」
掠れた、今にも消え入りそうな声。
リリアは力なくその場に跪き、震える泥まみれの手を、救いを求めるように差し出した。
この言葉は嘘ではない。辺境伯の館にいたことは事実だ。それ以上のことは——言えない。言おうとすると喉が締まる。これも、名前の思い出せない男が設計した手順の一部なのか。それとも、自分自身が選んだ沈黙なのか。区別はつかなかった。
「ヒカル様の、……ヒカル様がこの近くにいらっしゃると……噂を聞いて……居ても立ってもいられず……。お願いです、あの方に……一目だけでも……」
その瞬間、「守る私」が主の名を呼ぶ歓喜に激しく震えた。その震えを、兵士たちは「過酷な行軍による衰弱と、主への忠誠心」と完璧に誤認した。
「監視する私」が、彼らの瞳の奥に「同情」と「驚愕」が芽生えるのを確認する。
「リリアだと……? おい、まさか、あのヒカル様がずっと探しておられた……」
兵士たちの間に、衝撃が走る。
ヒカルがどのような苦難の中にあっても、決して諦めずに探し続けていた大切な存在。その名前の持つ重みは、この最前線の兵士たちにまで、神話のような切実さを持って周知されていた。
(成功。……確率98%。これから私は、あの方の本陣へと運ばれる)
リリアは意識が遠のくふりをしながら、泥の中にゆっくりと顔を伏せた。
冷たい雨が頬を打ち、泥の臭いが肺を満たす。
ヒカル様。
もうすぐ、お迎えに上がります。
カインの呪いと、自分自身の引き裂かれた愛と、そして利用価値のある刺客たちの影。
すべてが渦巻く奈落の底で、リリアは完璧なメイドの仮面を、泥の中でより一層、静かに、そして鋭く磨き上げていた。
【第十八話:愛と殺意の境界線 につづく】
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