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第十八話:愛と殺意の境界線

 盟約軍の前線基地。急造の天幕は、外の激しい雨音を鈍く響かせ、重く湿った泥の臭いを閉じ込めている。


 リリア・シャイニングは、斥候の兵士たちに保護され、待機室に通されていた。泥に汚れた紺色のメイド服を纏い、粗末な木箱に腰を下ろしている。すでに、斥候に保護されてから数時間が経過していた。


 指先は冷えきっているが、右手だけが異常に熱い。

 前線基地に足を踏み入れた瞬間から、リリアの意識に奇妙な変化が起きていた。


 辺境伯の館を出た時には、まだ4人の自分がいた。「殺す私」「守る私」「監視する私」「人形の私」。4人が1つの身体の中で軋み合いながら、それでも自分が何者で、何をしようとしているかは理解していた。


 だが、盟約軍の領域に入り、ヒカルの魔力の気配に触れた瞬間——何かが、変わった。


 記憶の一部が、音もなく沈んでいった。


 辺境伯の館にいた1年半の記憶は残っている。マルタの配膳。トビアスの善意。エルヴィンの怯え。壁に書いた血文字。3つの対処法。それらは全て、鮮明に残っている。


 だが、その1年半を設計した者の顔が——消えた。


 名前が浮かばない。声は覚えている。低く、冷静で、感情のない声。ヒカルの作戦記録を広げ、「あいつならこの局面でどう動く?」と問いかけた声。「お前と俺は同じだ」と言った声。


 声の主が——誰だったのか。


 思い出そうとすると、喉の奥が焼けるように締まる。吐き気が込み上げ、視界が一瞬白くなる。思考が遮断される。


(なぜ思い出せない。なぜ、思い出そうとすると身体が拒絶する)


「監視する私」が、その異常を記録した。だが記録しただけだった。追及する余力がない。追及すれば、今この瞬間にかろうじて維持している均衡が崩壊する。


 代わりに、別の異常が記録された。


 ヒカルの気配が近づくほど、右手が熱くなる。

 ヒカルの名前を心の中で唱えるだけで、指先が何かを握る形に固まろうとする。


 これは以前からあった反応だ。辺境伯の館でも、トビアスの笑顔を見た時に右手が震えた。だが今の反応は、あの頃とは質が違う。震えではない。指先が——最適な角度を計算している。頸動脈への到達距離。肋骨の隙間の位置。心臓までの深度。


 その計算を、リリアの意識は行っていない。意識の下で、自動的に、呼吸のように、走っている。


(これは何だ。いつから、こんな計算が——)


 答えは、思い出せない記憶の中にあるはずだった。だが、その記憶に手を伸ばすと喉が締まる。手を引くと、計算だけが残る。


 リリアは、自分の右手を左手で握りしめた。

 分かっていることは1つだけだった。ヒカル様に近づけば近づくほど、この手は——危険になる。


 なぜ危険なのか、その理由を、リリアは知らなかった。


 知らないことが、最も恐ろしかった。



 見張りの兵士長が、執拗な問いを繰り返していた。


「辺境伯の館で、あの方の噂を聞いて飛び出してきた……。それが真実だとしても、この時期、この状況だ。身元が完全に割れるまでお前をここから出すわけにはいかない」


 リリアは、か細い声で答えた。


「……信じて、ください……。私は、ただ、あの方に……一目だけでも……」


「人形の私」が動いている。怯えた少女の瞳。震える声。過酷な行軍で衰弱しきった身体。全てが——設計通りだ。設計した者の顔を、リリアは思い出せない。辺境伯の館にいた誰かが、この計画を立てた。誰だったか。名前が浮かばない。


(思い出そうとすると、喉が詰まる。吐き気がする。——なぜ?)


 その疑問を、「監視する私」が記録した。記録だけして、追及しなかった。追及すれば、今この瞬間に維持している「人形の私」の均衡が崩れる。崩れれば、「殺す私」が表に出る。表に出れば——。


 兵士の会話が、天幕の布越しに聞こえてきた。


「王に暗殺未遂があった」

「メイド隊が警戒強化」


「殺す私」と「守る私」が、同じ情報から、同時に反応した。


 守りたい。——殺したい。


 2つの衝動が、同じ速度で、同じ強度で、胸の中を走った。どちらが先だったのか、リリアには分からなかった。分からないということは、もう2つの衝動を区別する基準が、自分の中から消えかけているということだ。


 リリアは木箱の上で、右手を左手で握りしめた。爪が掌に食い込む。痛み。痛みだけが、今の自分と外界を繋いでいる。


 ◇◆◇◆◇


 待機室の外の騒ぎが、大きくなっていた。


 北側の物資集積所から爆鳴が上がった。地響き。天幕が揺れる。


(来た)


 リリアの「監視する私」が、冷徹に分析を開始した。辺境伯の館を出る前に——誰かから——与えられた情報。この時刻、この方角からの攻撃は、盟約軍本陣の防御を分散させるための囮。本命は、その混乱に紛れて本陣に侵入する暗殺者。


 情報を与えた者の顔が——浮かばない。名前が——。


 吐き気。


「監視する私」が警告を発した。この記憶の欠損は、術式の一部だ。思い出す必要はない。今、必要なのは、手順だけだ。


 リリアは木箱から崩れ落ちるふりをした。咳き込む。見張りの兵士が駆け寄る。


「おい、大丈夫か!」


「人形の私」が、怯えた少女の瞳で兵士を見上げた。


「……怖い、のです……。あの方の、ところに……」


 兵士の警戒が緩んだ。0.3秒。


 リリアの手が動いた。「人形の私」の奥から、「殺す私」でも「守る私」でもない、純粋な技術だけが発動した。首筋の経穴を打つ。声も上げさせず、崩れ落ちる兵士を物陰に横たえる。


 天幕を出る。冷たい雨が顔に叩きつけられる。泥の中を走る。メイドの靴が泥を蹴る。


 走りながら、右手の人差し指が、無意識に銀の短剣の柄を探していた。


(この短剣は、ヒカル様が12歳の時にくれたもの。護身のために)


 護身。


 この短剣で、何を護るのか。ヒカル様を護るのか。ヒカル様から自分を護るのか。


 その問いに答える前に、本陣の天幕が見えた。


 ◇◆◇◆◇


 本陣の外郭に、気配があった。


 10人。


 リリアの暗殺者の感覚が、雨音に紛れる「無」の気配を正確に捉えた。音を消すことに特化した呼吸法。歩幅を完全に均一にする足運び。暗殺施設で、自分が教わったのと同じ——技術。


 人間の暗殺者。10人。


「殺す私」が、その瞬間に爆発的な熱量を持って跳ねた。


 自分以外の刃が、あの人の命に触れる。


 あの方を終わらせる権利を、別の誰かが奪おうとする。


 ——許さない。


 リリアは懐から銀の短剣を引き抜いた。


 1人目の喉笛を、背後から断ち切る。2人目の胸元に短剣を突き立てる。3人。4人。5人。


 泥を跳ね上げ、雨を切り裂く。紺色のメイド服が、返り血で黒く変わっていく。


「監視する私」が、冷静に記録していた。


 ——殺している。

 ——殺しているのは、ヒカル様を守るため。

 ——守るために殺している間だけ、「殺す私」の出力がヒカル様に向かない。

 ——誰かを傷つけている間だけ、正気でいられる。


 その記録の冷たさが、リリアの中で唯一、人間として機能している部分だった。


 10人全員を泥の中に沈め、リリアは本陣の天幕の入口に立った。


 天幕の中から、暗殺者たちの気配。あと5人。すでに内部に侵入している。

 銀の短剣を握り直す。


 柄が、手に馴染む。ヒカルが12歳の時に渡してくれた短剣。掌ほどの刃渡り。当時のヒカルの手の大きさに合わせて作られたもの。だから、リリアの手にも馴染む。2人の手は、当時、同じくらいの大きさだった。


 その記憶が走った瞬間、「殺す私」が暴走しかけた。ヒカルがいる方向に向かって、右手の切っ先が動こうとした。


 意識は「守る」と叫んでいる。意識は「主を傷つけるな」と命じている。


 だが、意識の下で——意識が関与できない深い場所で——別の回路が稼働している。その回路は、ヒカルへの愛着が高まるたびに出力を上げる。愛おしいと感じるほど、指先が最適な殺害角度を計算する。


 リリアは、その回路の存在を理解していなかった。理解するための記憶が封印されているからだ。あの名前の思い出せない男が何を自分に施したのか、その全容が意識から消えている。


 残っているのは、3つの対処法だけだった。


 これは、リリアが自分の意志で見つけ出したものだ。壁に血文字を書き、数字を羅列し、マルタの手順から着想を得て構築した、意識的な抵抗の手段。


 対処法は、意識の表層で作動する。殺意が噴出した瞬間に、痛みで回路を0.3秒だけ遮断する。番号の暗唱で愛着の感情を一時凍結する。舌を噛むことで意識を肉体に引き戻す。


 だが、対処法が止められるのは、殺意の初動だけだった。


 意識の下で稼働する回路そのものを止める術を、リリアは持っていない。持っていないことすら、知らない。


 親指をへし折った。みり、と鈍い音。痛みが脳を貫く。

 舌の裏を噛む。鉄の味。


 027。027。027。


 3つ全てを同時起動して、ようやく——右手の痙攣が止まった。

 今回は止められた。だが、「監視する私」は冷静に記録していた。


(殺意の持続時間6.1秒。対処法による抑制に要した時間8.3秒。前回より1.7秒増加。対処法の残存効力、推定47%)


 いつか、この3つの対処法では間に合わなくなる。


 その「いつか」が、いつ来るのか。リリアには分からなかった。

 リリアは天幕に飛び込んだ。


【第十九話:お迎えに上がりました、ヒカル様 につづく】


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