第十九話:お迎えに上がりました、ヒカル様(最終話)
天幕の中で、5人の暗殺者がヒカルを包囲していた。
暗器が放たれる。ヒカルの心臓へ向かう軌道。
リリアの身体が、思考より先に動いた。
ヒカルと暗殺者の間に割って入る。手にした銀の短剣で暗器を弾き飛ばす。二の矢も弾く。
「ヒカル様……ご無事ですか?」
声が出た。震えていない。
震えていないのは、47回の練習のおかげだ。
控え室の壁に向かって、マルタの配膳のように同じ言葉を同じ間隔で繰り返した。1回目は声が裏返った。5回目は手が震えた。12回目は涙が出そうになったが、涙は出なかった——泣く機能は暗殺施設で壊されたから。23回目は殺意が噴出して、壁に向かって短剣を突き立てた。対処法の第一を発動し、親指を折った。30回目からは、マルタの配膳のリズムを思い出し、同じ間隔で繰り返し始めた。
47回目に、声が震えなくなった。
震えなくなったのではない。震えを殺す技術が完成しただけだ。その区別は、もうリリアにはつかなかった。
「お迎えに上がりました、ヒカル様」
7文字。47回の練習で磨き上げた7文字。
その7文字の裏で、右手は短剣を握りしめている。短剣の切っ先は暗殺者に向いている。だが、リリアの「監視する私」は知っている。あと0.2秒、暗殺者がいなくなれば——切っ先が向かう先が変わることを。
だから、暗殺者が全員倒されるまで、リリアは戦い続けた。
誰かを傷つけている間だけ、正気でいられる。
その事実だけが、リリアの笑顔を支えていた。
暗殺者は排除された。
盟約軍の護衛部隊が天幕に突入し、連携を崩した残りの暗殺者を打ち倒していく。喧騒が、雨音に混じって遠ざかっていく。
天幕の中に、2人だけが残された。
ヒカルが、そこにいた。
10年ぶりの至近距離。茶色の瞳。真っ直ぐな目。
その瞳を見た瞬間、リリアの中で——何かが、完成した。
音はなかった。痛みもなかった。ただ、胸の奥の深い場所で、長い時間をかけて組み上げられてきた何かが、最後の歯車を嵌め終えたような——静かな、確定の感覚。
愛おしさが、津波のように押し寄せた。
10年分の記憶が一斉に蘇る。泥道で駆け寄ってきた少年。白百合の花壇。「今日から君はリリアだ」。書斎の灯り。緑茶の匂い。作戦図に走り書きをする手。
その全ての記憶が、ヒカルへの愛として——同時に——殺意として——流れ込んでくる。
愛と殺意が、同じ回路を通っている。同じ燃料で動いている。愛おしいと感じた瞬間に殺意が生まれ、殺意を抑え込もうとすると愛おしさが薄れる。愛を感じることと殺すことが、同じ行為の表と裏になっている。
なぜこうなっているのか、リリアには分からなかった。
記憶の中に答えがあるはずだった。辺境伯の館で、誰かが、自分に何かを施した。その「誰か」の顔が——名前が——思い出せない。思い出そうとすると喉が焼け、視界が白くなる。
分かっているのは結果だけだ。
ヒカル様を愛おしいと感じるほど、この手が、あの人を殺そうとする。
その理由を知らないまま、リリアは戦い続けなければならない。理由を知る手がかりは全て封印され、残されたのは3本の釘と47回の練習だけだ。
3つの対処法が、限界出力で稼働した。親指を背後に回した手の中でへし折る。みり、と骨が軋む音。番号を暗唱する。027。027。027。舌の裏を噛む。鉄の味が口腔に広がる。
47回の練習の成果が、笑顔の仮面を維持する。メイドの微笑み。10年間磨き上げた微笑み。その裏で、全身の筋肉が殺意を抑え込むために総動員されている。腹筋が痙攣し、奥歯が砕けそうなほど噛みしめる。
「ヒカル様。ご無事ですか?」
声は震えていない。
マルタの手順。同じ言葉を同じ間隔で。配膳と同じだ。スープは左手、パンは右手、果物は最後。手順を守れば、世界は保たれる。手順を守れば——。
◇◆◇◆◇
ヒカルが、目を見開いた。
「リリア……!? 生きていたのか……!?」
その声を聞いた瞬間——。
リリアの右目から、涙が一滴、落ちた。
左目からは出なかった。右目からだけ、たった一滴。頬を伝い、顎の先から泥の上に落ちた。
リリアは、自分の頬を伝う液体の正体を、3秒かけて理解した。
涙だ。
泣く機能は壊されたはずだった。暗殺施設で矯正され、カインの——。
カインの、名前が浮かんだ。一瞬だけ。喉が締まり、吐き気が込み上げ、すぐに名前は消えた。だが、その一瞬に、「監視する私」は記録した。
(術式が、0.1秒だけ揺らいだ)
ヒカルの声が、全ての呪いを0.1秒だけ貫通した。
その0.1秒に、涙が出た。壊されたはずの涙が。暗殺施設で矯正され、あの名前の浮かばない男の術式で上書きされ、もう二度と出ないはずだった涙が。
たった一滴。
たった0.1秒の貫通。
それだけで十分だった。
リリアは深く一礼した。
「お迎えに上がりました、ヒカル様。——お久しぶりでございます」
その一言に、全人生が込められている。
辺境伯の館の地獄。壁に書いた血文字。マルタの「お気をつけて」。トビアスの善意の笑顔。3本の釘。47回の練習。1年半の軟禁。名前を思い出せない男の術式。「殺す私」と「守る私」と「監視する私」と「人形の私」。
全てが、この一礼に集約されている。
ヒカルの顔が歪んだ。感情が溢れている。彼の目にも、涙が浮かんでいた。
「生きていたのか……本当に、リリアなのか……!」
ヒカルが手を伸ばしてきた。リリアの肩に触れようとする。
「守る私」が、その温もりを受け入れたいと叫んだ。10年間、その温もりだけを求めて生きてきた。
だが、意識の下で、別の回路が起動した。
ヒカルの手が近づくにつれ、回路の出力が上がっていく。手のひらの温度。指先から伝わる体温。その温もりを感知するたびに、回路は愛着を殺意へと変換する。
リリアの意識はそれを止めようとしている。「守る私」が叫んでいる。「監視する私」が数値を記録している。「殺意出力急上昇。あと0.8秒で対処法の限界を超過」。
リリアは、ヒカルの手が肩に触れる0.5秒前に、半歩だけ下がった。
メイドの所作として、完璧に自然な動作だった。主に馴れ馴れしく触れさせないための、礼儀正しい一歩。10年間の奉公で身につけた、メイドの距離感。
誰も、その一歩の本当の意味には気づかなかった。
あの人に触れられたら——何が起きるか分からない。「分からない」が最も恐ろしかった。意識的に殺そうとしているのではない。意識は全力で守ろうとしている。だが意識の下で、自分の知らない回路が、自分の知らない計算をしている。
触れられた瞬間、その回路が何をするのか。
リリアは、それを知る手段を持っていなかった。
だからこの先、ヒカル様の傍にいる限り——メイドの礼儀という名の壁を、一生、維持し続けなければならない。
愛する人に、永遠に触れられない。
それが、リリアが支払い続ける対価だった。
天幕の外から、護衛部隊の歓声が微かに聞こえた。「リリア殿だ」「ヒカル様がお探しだった」。
その歓声を聞きながら、リリアは深く一礼したまま、右手を背中の後ろに隠し続けていた。折れた親指が、メイド服の裾の中で、鈍く疼いていた。
◇◆◇◆◇
その夜、ヒカルが六龍姫たちに囲まれて眠りについた後、リリアは司令部の天幕の一角で、手鏡を見つめていた。
鏡の中に、一点の曇りもない微笑みを浮かべた、白百合のメイドがいる。
紺色のメイド服の下は、殺意を抑え込むために自ら刻んだ痣と、へし折った親指の腫れと、噛み切った舌の傷でぼろぼろだった。
「監視する私」が、肉体の損耗を記録する。
右手親指——骨折。応急処置で固定済み。戦闘には支障なし。
舌裏——裂傷。出血は止まっている。会話に支障なし。
腹筋——微細な筋断裂。痙攣は収まった。
全て、メイド服の下に隠されている。笑顔の下に隠されている。
辺境伯の館にいた頃、名前の思い出せない男が言った言葉がある。言葉の内容は覚えている。誰が言ったかだけが、思い出せない。
「お前にしかできない」
そうだ。私にしかできない。
ヒカル様の傍にいられるのは、私だけだ。ヒカル様の日常を知り、朝食の好みを知り、起床の時刻を知り、書斎での癖を知っている人間は、この世界で私だけだ。
そして——ヒカル様を殺せるほどの愛と殺意を同時に抱えている人間も、この世界で私だけだ。
リリアは、天幕の隅に置かれた白紙のノートに目をやった。
いつか、書かなければならない。
自分という存在が主を傷つけてしまった時のために。自分がこの内戦に敗れ、主の元を去らねばならなくなった時のために。あの方が、自分がいなくても王として生きていけるための、完璧な手順を。
主が自分を殺してでも生き残れるための、絶対の法則を。
3つの対処法では足りない。もっと必要だ。10の手順。100の手順。いや——全てを書き記す。自分の全てを。愛と殺意の全てを。ヒカル様が、この呪われたメイドの全てを理解した上で、それでも生き残れるための、完璧な一冊を。
12年後、それは287ページの文書になる。
だが今のリリアは、その未来を知らない。知っているのは、3本の釘と、マルタの手順と、47回の練習だけだ。
そして——ヒカルの「生きていたのか」という声を聞けた、という事実だけだ。
その一言が、全ての苦痛を帳消しにする幸福だった。
◇◆◇◆◇
呪いは消えていない。
ヒカルの傍にいる限り、スイッチは常に起動直前にある。
笑顔の裏で殺意と戦い続ける日々が、今日から始まる。明日も。明後日も。この先ずっと。ヒカルが生きている限り。自分が生きている限り。
それでも——。
「おかえりなさいませ、ヒカル様」
誰もいない天幕で、リリアはその言葉を口にした。それでも——。
リリアは唇を動かした。47回の練習で磨いた7文字ではない。練習したことのない、6文字の言葉が、喉の奥から勝手に出てきた。
「おかえりなさいませ、ヒカル様」
声は、震えていなかった。
練習しなくても、震えなかった。
その6文字だけが、呪いでも術式でも手順でもない、リリア・シャイニングという人間の、最後の肉声だった。
白百合のメイドの物語——「断罪」と「愛」の物語は、この凄絶な帰還の朝から、ようやく始まったばかりだった。
ここから終わりなき戦いが始まる。
【白百合の断罪 ——完—— 本編第58話へと物語は続く】
【本編第58話へと物語は続く】
https://kakuyomu.jp/works/822139837616606028/episodes/822139839821420896
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