不良債権と黄金の要塞①
スラム街の一角、雨漏りのするカビ臭いボロアパート。
ダミー会社『L.G.B.エンタープライズ』の拠点たるこの部屋で、バルタザールはひび割れたマグカップの泥水をすすりながら、ゴルディオン通商連合の経済新聞に目を通していた。
「……よし。旧帝国領の『第四魔石鉱山』の労働争議は順調に泥沼化しているな。予定通りいけば、来週末にはあの鉱山の運営会社の株価は紙屑同然になる。底値で株を買い占めた後、ギルにストライキの首謀者を物理的に排除させれば、数日で莫大な利益が……」
黒革の手帳に緻密な数字の羅列を書き込み、会計士として完璧な悪巧みに口角を上げた、その時だった。
新聞をめくり、経済面のトップ記事が目に入った瞬間、バルタザールの動きが完全に硬直した。
『連合の超富裕層・シャルロット令嬢、暴落中の第四魔石鉱山を即金300億ギルで電撃買収!』
『令嬢のコメント「あそこの鉱石、暗闇で青く光ってすっごくカワイイの! これから全部掘り出して、私の別荘の庭に敷き詰めるわ!」』
陶器が限界を超えてひび割れる鈍い音が響き、バルタザールが握りしめていたマグカップの取っ手が、怒りの握力によって砕け散った。
「……ふ、ふざけるな……! あのイカれた小娘ぇぇぇッ!!」
バルタザールは新聞を床に叩きつけ、激しい胃痛に顔を歪めてうずくまった。
「俺が3週間前から裏で労働組合を煽り、賄賂をばら撒いて仕込んでいた空売りスキームが……! 暴落するはずの株価が、あの小娘の『カワイイ』という思いつきのせいで、ストップ高まで跳ね上がっているじゃないか!!」
壁際に直立不動で待機していたギルが、ガラス玉のような瞳をバルタザールに向けた。
「……バルタザールのバイタルサインに異常を検知。心拍数と血圧が急上昇している。胃粘膜の損傷リスク大。胃薬の服用を推奨する」
ギルは無機質な声で告げながら、脳内の論理回路で現在の状況を計算した。
「対象企業への空売りによる含み損、および工作員への先行投資費用。……現時点で、我が社は推定800万ギルの純損失を計上。このままでは今月の利息すら払えない」
『あーあ、言わんこっちゃないわ!』
机の上に置かれたルクレティアが、呆れたように甲高い念話を響かせた。
『だからあの時、私をあの娘に売ればよかったのよ! そうすれば今頃、私は青く光る最高級の結晶風呂に浸かって、特権階級な生活を送ってたはずなのに! あんたのセコい計画なんて、あの娘のお小遣いの前じゃチリ紙以下の価値しかないのよ!』
「黙れ鉄屑! 次その小娘の名前を出したら、お前を質屋の奥底に沈めるぞ!」
バルタザールは荒い息を吐きながら、充血した目で黒革の手帳を睨みつけた。
「……チッ、予定が狂った。こうなれば手段は選ばん。即効性があり、かつこの800万ギルの赤字を今日中に補填できる『高収益な不良債権』を回収するぞ」
* * *
数時間後、連合の歓楽街の地下深く。
分厚い紫煙と違法な魔薬の匂いが立ち込める闇カジノのVIPルームで、バルタザールは裏社会の金融業者ガストンと対峙していた。
「……旧帝国軍の元・将軍ゼノスが発行した、200億ギルの横領金返還請求書。これを100万ギルで俺に売れ」
バルタザールが黒革の手帳を叩きながら持ちかけると、恰幅の良いガストンは葉巻を咥えたまま鼻で笑った。
「冗談だろう、会計士の旦那。いくら回収不能の不良債権とはいえ、額面200億ギルの債権をたった100万で手放す馬鹿がどこにいる」
「ただの紙切れを100万で現金化できるんだ、御の字だろう」
「断るね。あのゼノス将軍は今、連合の法律も届かない辺境の私有地に黄金の要塞を築いて引きこもっている。最新鋭の防衛システムと、数百人の重武装傭兵団だ。……俺も過去に何度か回収部隊を送ったが、全員肉片になって帰ってきたよ」
ガストンは背後に控える屈強な4人のサイボーグ護衛を顎でしゃくった。
「お前さんみたいな貧弱な男と、その後ろの優男が取り立てに行ったところで、要塞の入り口で蜂の巣だ。……お前らが死ぬのは勝手だが、持たせた『債権の原本』まで焼失されちゃたまらない。手元に残しておけば、期末の税金対策に使えるからな」
経済的な理由で売却を拒むガストンに対し、バルタザールは深くため息をつき、背後のギルに視線を送った。
「……ギル。我が社の『回収部門』の有能さを、この頭の固い金融屋に説明してやれ」
「了解した」
ギルが一歩前に出た瞬間、ガストンの4人の護衛が一斉に殺気を放ち、魔導ライフルを構えた。
だが、ギルは構えすら取らず、ガラス玉のような瞳で冷徹に周囲を走査した。
「敵対戦力、4名。完全武装。……室内環境を分析。床のペルシャ絨毯の市場価格、推定120万ギル。壁の絵画、推定80万ギル。流血や銃撃による器物破損が生じた場合、弁償コストが今回の債権購入費を上回る赤字となる」
「な、何をぶつぶつと……やっちまえ!」
ガストンの怒号が飛ぶが、引き金が引かれるより先に、ギルの姿がブレた。
「対象の運動エネルギーを利用。生体稼働コスト、極小。器物損害、0ギル」
静寂。
銃声は一発も鳴らなかった。血の一滴すら流れなかった。
ただ、護衛の男たちが自身の構えた銃の重みに引っ張られるように、不自然な角度で糸が切れたように床へ崩れ落ちたのだ。
ギルは瞬きする間に4人の懐に潜り込み、彼らの頸動脈と神経の結節点を、指先でほんの数ミリ押し込んだだけである。
絨毯にシミ一つ作らない、完璧な「コストゼロの制圧」だった。
「……は?」
ガストンは口から葉巻を落とし、白目を剥いて気絶した護衛たちと、息一つ乱していない銀髪の少年を交互に見比べた。
「我が社の備品は、極めて燃費が良く優秀でしてね」
バルタザールは冷酷な笑みを浮かべ、あらかじめ用意していた債券譲渡契約書と、100万ギルの小切手をテーブルに滑らせた。
「これでもまだ、回収不可能だと言い張りますか?」
「ば、化け物め……わかった、サインする! 持っていけ!!」
ガストンは震える手で契約書にサインを殴り書きし、金庫から古い帝国の紋章が入った「200億ギルの債権原本」を震える手で差し出した。




