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暴走する需要と50億のぬいぐるみ②

 バルタザールはひどく痛む胃を押さえながら、黒革の手帳を睨みつけた。

 ギルの言う通りだ。この護衛を正面から突破するには、ルクレティアに数億ギル単位の高価な弾薬を食わせ、シールドを何十枚も物理的に粉砕しなければならない。


 仮に勝てたとしても、手に入る船の売却益を弾薬代が上回る「確実な赤字」だ。

(……ダメだ。この女には、論理ロジックも損得勘定も一切通用しない)


 バルタザールは冷酷な会計士の頭脳をフル回転させた。

 市場の相場、財務の健全性、契約書の重み。この世間知らずの令嬢にとっては、そんなものは紙切れ以下の価値しかない。


 彼女の行動原理はただ1つ、「自分の気分(カワイイ)」だけだ。

 ならば、論理を捨てて彼女の「主観的価値」に引きずり込むしかない。


「……ギル。待機しろ。暴力は最も非効率な投資だ」


 バルタザールはコートの襟を正すと、かつて帝国の皇太子に礼儀作法を教えていた「教育係」としての完璧な笑みを浮かべ、令嬢の前に進み出た。


「お嬢様。少しよろしいでしょうか」


「なあに? おじさん。私、そのキラキラした銃が欲しいんだけど」


「ええ、存じております。しかし、あのような無骨な兵器は、お嬢様の美しきドレスには少々『ありきたり』かと。所詮は金を出せば誰でも買える、量産品の鉄屑ですから」


『ちょっと!? 誰が量産品の鉄屑よ! ぶっ飛ばすわよバルタザール!』


 ルクレティアの怒鳴り声を完全に無視し、バルタザールは懐から「ある物」を取り出した。

 それは、今朝スラム街の露店で、情報屋への手土産代わりに「300ギル」で買った、薄汚れたウサギのぬいぐるみだった。


 左右で目のボタンの大きさが違い、所々綿がはみ出している、ひどく不気味な造形をしている。


「……な、なにそれ」


「これこそ、お嬢様のような真の価値がわかる方にふさわしい逸品」


 バルタザールはぬいぐるみを恭しく両手で掲げ、淀みない声で嘘八百を並べ立てた。

「これは旧帝国の末娘、悲劇の皇女が最期に手縫いで残した、世界に1つだけの呪われたぬいぐるみ『血濡れのノワール』です。持ち主の悲しみを吸い取り、代わりに永遠の愛をもたらすとされる、歴史的国宝でございます」


「世界に1つ……悲劇の皇女の、呪い……」


 シャルロットの瞳孔が、大きく見開かれた。

「先ほどの船のような、金さえあれば誰でも買える鈍重な鉄の塊など、お嬢様の『特別さ』を証明するには物足りません。しかし、このぬいぐるみは世界中探してもこれ1つ。真の特権階級セレブリティにしか似合わない、呪われたキュートさだと思いませんか?」


「……カ、カワイイ!! 呪われてるの!? すっごくロマンチックでカワイイ!!」


 シャルロットは完全に心を奪われ、ぬいぐるみに向かって両手を伸ばした。


「それ欲しい! ちょうだい!!」


「ええ、お譲りしても構いません。しかしこれは国宝……私も手放すには少々惜しい。もし、お嬢様が先ほどそこの社長に渡した『50億ギルの無記名債券』と交換していただけるのなら、涙を呑んでお渡ししましょう。ただし――」


 バルタザールは一呼吸置き、早口で淀みなく言葉を紡いだ。

「本取引は現状有姿げんじょうゆうしでのお引き渡しとなります。譲渡後の瑕疵担保責任は一切免除され、いかなる理由においても返品、およびクーリングオフは不可とする口頭契約に、法的に同意いただけますね?」


「よく分かんないけど、いいわよ! ヴァルガス、あれ取ってきて!」


「はっ」


 重装甲の巨漢が、今まさに歓喜の涙を流していた海運会社社長の胸ぐらを掴み、その手から「50億ギルの無記名債券」を力ずくでむしり取った。


「あ、あああっ!? お、お嬢様!? わ、私の50億ギルが……!」


 社長が悲痛な叫びを上げるが、ヴァルガスは無表情のままバルタザールに債券を渡し、代わりに300ギルの薄汚れたぬいぐるみを受け取った。


『……うわぁ、ドン引きだわ。そこまでして金が欲しいのね』


 一部始終を見ていたルクレティアが、心底呆れ果てたような思念を飛ばしてきた。

『帝国の皇室直属の教育係だった誇りとかないわけ? 薄汚いおっさんが、免責条項まで盾にして必死に三文芝居でガキを騙すなんて……控えめに言って最低の詐欺師よ。恥を知りなさい』


「黙れ。法と契約に則った正当な商取引だ」


 バルタザールは脳内に響く罵倒を冷徹にシャットアウトした。


「わぁっ! 変な顔でカワイイ! 今度のパーティーは絶対これ持ってく!」


 シャルロットはぬいぐるみを胸に強く抱きしめ、満面の笑みを浮かべた。

「あの船、やっぱり大きすぎて邪魔だからいらなーい! じゃあね、おじさん!」


 嵐のような足取りで、令嬢と巨漢の護衛は港から去っていった。


 静まり返った第十二ドック。

 バルタザールの手には、紙切れのように軽い「50億ギル」が握られている。


「……対象の取引完了を確認」


 背後で控えていたギルが、微かに首を傾げていた。

「理解不能だ。ただの布と綿の塊(原価推定10ギル)が、50億ギルの債券と等価交換された。論理的整合性が全く取れない。……資本主義のバグか?」


『ありえない! なんで私が薄汚いぬいぐるみに負けるのよ! ちょっと呼び戻しなさいよ、私の最高級結晶クリスタル生活ぅぅぅ!』


 ルクレティアが絶望の叫びを上げる中、バルタザールはひどく疲れた顔で額に滲んだ汗を拭った。


「市場価値とは顧客の主観が決めるものだ、ギル。需要と供給の極致……いや、ただの災害だよ。二度とあの小娘とは関わらん」


 バルタザールは債券を懐にしまうと、その場にへたり込んで虚空を見つめている海運会社の社長を見下ろした。

 手元から50億ギルが消え去り、彼に残されたのは再び「莫大な維持費と負債を抱えたオフェリア号」だけである。


 バルタザールは、社長室で交わした『10万ギルの譲渡契約書』を社長の鼻先に突きつけた。


「さて、社長。予定外の横槍が入ったが、元のビジネスに戻ろう。この船の所有権は契約通り、我々が10万ギルで引き取ってやる」


「あ……あぁ……」


 魂の抜けた社長を放置し、バルタザールは手帳の新しいページを開いてペンを走らせた。

 武力でもハッキングでもなく、徹底した財務分析と、1つの狂った詐欺取引による完璧な大黒字だ。


「行くぞギル。次は船の解体業者に、この鉄屑を売りつけに行く」


「了解した。……本日の取引データ、今後の予測演算マトリクスから除外しておく」

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