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盤上の与信審査と70兆のレバレッジ①

 永世中立国・ヴァイス共和国。


 その首都の中心にそびえ立つ中央銀行は、国家の軍事力そのものと言えるほどの異常な防衛結界と、物理的な重装甲に守られた難攻不落の要塞であった。


「……最終防衛ライン、魔力センサーの死角を突いて突破。所要時間、4分20秒。事前の想定工数通り、当方の侵入コストはゼロだ」


『ふん、当然だ。この銀行の基本設計(セキュリティ)には、我が大公殿下も一枚噛んでおられるからな。我の演算能力をもってすれば裏口を開けるなど容易い』


 深夜の総裁室。

 ギルが音もなく天井の換気ダクトから降り立ち、手にした黒い杖――ヴォルフガングが自慢げに魔力を明滅させる。


『ちょっと! なんで私がわざわざ布でグルグル巻きにされてんのよ! 息苦しいし、せっかくの美しい赤色が台無しじゃない! 派手に正面の扉をぶち破って入りなさいよ!』


「静粛に願う、備品。ここは戦場ではなく交渉のテーブルだ。発砲による物理的破壊行動は、即座に国際問題という名の全額減損処理を引き起こす」


 布で巻かれたルクレティアの念話をギルが冷酷な経理用語で遮り、バルタザールは悠然と、最高級の革張りのソファへと腰を下ろした。


 そして、部屋の主が戻ってくるのを、暗闇の中で静かに待った。


 数十分後。


 重厚な扉が開き、1人の初老の紳士が執務室へと入ってきた。

 財務大臣兼・中央銀行総裁、クラウス。常に穏やかな笑みを絶やさない完璧な紳士として国際社会に名を馳せる男だが、彼が1人になった執務室で見せた顔は、氷のように冷徹な金融の怪物のそれだった。


「……私の部屋の基本設計(セキュリティ)を抜けるとは。どこの不法侵入者(ネズミ)か知りませんが、命知らずなことだ」


 クラウスはソファに座るバルタザールの影を見ても、驚いて声を上げることも、警報のボタンを押すこともなかった。


 ただ、極めて事務的な動作で葉巻に火をつけ、紫煙をくゆらせた。


「……永世中立国の総裁殿は、随分と肝が据わっている。駆除業者を呼ばないのかね?」


「不要でしょう。命を狙うなら、私が部屋に入った瞬間に仕留めているはずだ。……私に取引を持ちかけに来たのだろう?」


 クラウスの隙のない対応に、バルタザールは「やはり、一筋縄ではいかない悪党だ」と内心で確信し、ハゲタカの笑みを浮かべた。


「話が早くて助かる。単刀直入に言おう。……旧帝国の先代大公から貴国に秘密裏に信託された、70兆ギル相当の金塊。その返還を要求しに来た」


 その言葉が出た瞬間、クラウスの目が微かに、だが決定的に細められた。


 しかし、彼は動揺を見せることなく、ふっと鼻で笑った。


「……何の話か分かりませんね。旧帝国はとうの昔に滅びた。我が国にそのような資産が預けられた記録は、いかなる公式文書にも存在しない」


「当然だ。公式文書に残せば、貴国は敗戦国から資産を掠め取った泥棒国家として、連合国から非難を浴びる。だからこそ、2年間も自分の金として簿外で運用し、私腹を肥やしてきたのだろう?」


 バルタザールは机の上に、ヴォルフガングをゴトンと置いた。


「しらばっくれても無駄だ。ここに、完全なアクセス権を持つ生きた裏帳簿がある。……これが明日の朝、各国の報道機関に一斉送信されれば、貴国が誇る永世中立の信用は一瞬で崩壊し、取り付け騒ぎで国家が破綻するぞ」


 完璧な脅迫。相手の最大の弱点である信用を盾に取った、70兆ギルの引き出し要求。


 バルタザールは、クラウス総裁が顔を青ざめさせ、示談金の交渉に入ってくるのを待った。


 しかし、クラウスは葉巻を灰皿に置き、ゆっくりとバルタザール、そして机の上に置かれたヴォルフガングへと視線を向けた。


「……なるほど。確かにその杖の魔力波長は、間違いなく皇家魔導院の特務演算杖・ヴォルフガングのものだ。……久しぶりだな、堅物の杖殿。私だ、かつて大公殿下と朝まで酒を飲み明かした、ヴァイスの外交官のクラウスだ」


『む……? おお! お前、あの時の小僧か! 立派な総裁になったものだ!』


 ヴォルフガングが驚きに魔力を明滅させる。


 クラウスは穏やかな、しかし決して隙を見せない銀行家としての瞳で、バルタザールを見据えた。


「大公殿下は敗戦を予期し、私という他国の友人を信じて、この70兆の金塊を託してくださった。いつの日か、帝国を再興し得る正当な後継者が現れた時、すべてを返還してほしいと。……私はこの2年、連合国の査察の目をごまかし、血を吐くような思いでその約束を守り抜いてきた」


 そこには、国家の重鎮としての凄みと、友への深い義理立てがあった。


 バルタザールは己の「悪徳政治家だろう」という目論見が外れたことを悟り、僅かに眉をひそめた。


「……ならば話は早い。私たちはその正当な債権者だ。金塊を――」


「渡せませんね。どこの馬の骨とも知れない、金目当てのゴロツキには」


 クラウスが冷酷に言い放つ。


「私は善人ですが、馬鹿ではない。大公殿下の遺産を、ただ密約の証拠を持っているだけの脅迫者にホイホイと渡すわけにはいかない。……あなた方が、本当にこの莫大な資産を背負うに足る器かどうか、私が与信審査を行わせてもらう」


 そう言うと、クラウスは執務室の奥から、美しい琥珀と黒曜石で作られたアンティークのチェス盤を取り出し、テーブルの中央に置いた。


 大公の別荘の地下にあったものと同じ、高度な魔法仕掛けの盤上遊戯だ。


「大公殿下は無類のゲーム好きでね。この盤を挟んで、国家の行く末をよく語り合ったものだ。……そこの、銀髪の少年」


 クラウスは、暗がりに立つギルを真っ直ぐに指差した。


「先ほどから、君のそのガラス玉のような瞳が、私の心拍数や筋肉の弛緩から心理状態を完全に読み取っているのは分かっている。……その顔立ち、そして演算能力。君が私の相手だ。私に勝てば、70兆の金塊は全額返還しよう」


 ギルはバルタザールを無機質な視線で見つめた。


 バルタザールは一つ頷く。


「やれ。時給換算で70兆ギルの大仕事だ。絶対に勝て。敗北による私の胃壁の修繕費は高くつくぞ」


「……了解した。ルールのインプット完了。初期配置の資産評価完了」


 ギルが席に着き、静かな、しかし異常な速度での盤上遊戯が始まった。


 ギルの生体演算能力は完璧だった。クラウスの指先の微細な動きから数億通りの分岐を逆算し、最適解だけを冷徹に打ち出していく。


 大公の遺した防衛AIすら3分で完全論破した彼にとって、生身の人間相手など赤子の手をひねるようなもの……のはずだった。


 中盤。クラウスが、自らの騎士(ナイト)をギルの陣地深くに単騎で放り込んだ。


 ギルは即座に歩兵(ポーン)を1つ進め、その孤立した騎士を攻撃する構えを見せる。騎士は逃げるか、守りを固めるしかない。


「……敵対的買収の兆候を確認。防衛ラインに移行」


 しかし、クラウスは騎士を逃がすどころか、全く関係のない端の歩兵を進め、ただ騎士の背後を支えるだけの不可解な手を打ったのだ。


 ギルの歩兵が騎士を取れば、クラウスは歩兵を取り返せるが、チェスの点数計算において「歩兵で騎士を取る」のは圧倒的な物質的有利である。


「……盤面評価、当方の圧倒的優勢。敵の意図は不明だが、統計学的に極めて非合理な資産の放棄と断定。……騎士(ナイト)を自社資産として計上する」


 ギルは一切の感情を交えず、利益の最大化としてクラウスの騎士を盤上から排除した。


 勝負あった。バルタザールが勝利を確信し、ルクレティアが『やった! 70兆ギル!』と歓喜の念話を飛ばした、その瞬間。


「――かかったな」


 クラウスが静かに笑い、自らの歩兵でギルの歩兵を取り返した。


 途端に。


 盤面の端、それまで静かに身を潜めていたクラウスの戦車(ルーク)の射線が、ギルの王将(キング)の喉元に向かって、一直線に、そして無慈悲に開通した。


「……なっ!?」


 さらにクラウスは、空いたスペースに最強の駒である女王(クイーン)を滑り込ませた。


 ギルの生体演算回路が、突如としてけたたましいエラーと警告を弾き出し始める。


「……演算を修正。キングの退路、ゼロ。防御手段、ゼロ。……スレットレベル極大。チェックメイトまで、不可避の4手。当方の破産手続きが確定」


 たった1つの「タダ取りできる騎士」というエサに食いついたが最後、戦車と女王の連携による、絶対に逃げられない死の網に引きずり込まれたのだ。


 完璧な生体コンピューターであるギルが、盤面を見つめたまま完全にフリーズした。

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