表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
27/27

盤上の与信審査と70兆のレバレッジ②

「ば、馬鹿な……!? おいギル、お前がチェスで負けるなど……っ!」


 バルタザールが顔面を蒼白にし、キリキリと音を立てて激しく痛む胃を両手で押さえて崩れ落ちそうになる。


 しかし、盤の向こう側で、クラウス総裁は肩を揺らし、やがて腹を抱えて大笑いし始めた。


「あっはっはっは! まったく、見事なまでに同じ引っかかり方だ! この罠はな、合理的に物質的利益を追求する計算高い相手ほど、目の前にぶら下げられた騎士というエサの魔力に抗えず食いついてしまうのだよ!」


 クラウスは目尻に浮かんだ涙を拭い、ひどく懐かしそうにギルを見つめた。


「大公殿下も、ご自身の膨大な計算能力に自信を持つあまり、この罠に幾度となく引っかかっておられた。人間というのは、時に非合理な罠を仕掛ける生き物だ。……純粋な論理と計算の果てに同じ罠に落ちるその不器用な姿、あの偉大なる大公殿下とそっくりだ」


「……当方の演算アルゴリズムに重大な減損処理が発生。盤面外の心理的誘導によるテールリスクの評価を誤った。極めて非合理な敗北だ」


「それでいい。君がただの冷酷な計算機ではなく、旧帝国の血と魂を受け継ぐ者だと分かった。……与信審査は合格だ」


 クラウスは立ち上がり、バルタザールとギルに向かって深く頭を下げた。


「無礼な真似をして申し訳ない。私の友、大公殿下がお前たちに託したものを、私は信じよう。……70兆ギル相当の金塊、約束通りすべて返還いたす」


『おおお……! クラウスよ! やはりお前は帝国の真の友だ!』


 ヴォルフガングが感動にむせび泣き、ルクレティアが『よっしゃあああ!』と歓喜の声を上げる中。


 寿命が10年は縮んだバルタザールは、大量の冷や汗を拭いながら、ゼェゼェと荒い息を吐き出した。


「……ハァ、ハァ……。寿命と医療費の無駄遣いをさせやがって……。いいだろう。だが、総裁殿。金塊をここから物理的に引き出すつもりはない」


「なんと? では、どうやって復興の資金を……?」


「引き出すのは現金ではない。信用(クレジット)だ」


 バルタザールは震える手で黒革の手帳を開き、いつもの不敵な、ハゲタカの笑みを取り戻した。


「貴国が誇る中央銀行の絶対的な裏書があればいい。我が社が旧帝国のインフラを買い上げる際、貴国が『我々が70兆ギルの担保を持っている』と証明してくれれば、現金を1ギルも動かすことなく、無限のレバレッジを効かせて市場を支配できる」


「……なるほど。金塊を移動させる物流コストも、連合国に差し押さえられるリスクもゼロ。極めて合理的かつ、恐ろしいスキームだ」


「なんと……! 武器ではなく、帳簿で連合国と戦うと仰るのですね……!」


 クラウスがバルタザールの悪辣な、しかし見事な金融戦略に感嘆の声を漏らし、ギルが数値を弾き出す。


 ここに、旧帝国最高の演算杖と、亡き友を想う中立国の総裁、そして冷酷な会計士による、奇跡的な70兆ギルの資本提携が成立した。


 その、重々しくも感動的な空気をぶち壊すように、ルクレティアの甲高い念話が総裁室に響き渡った。


『ねえ、ちょっと待ちなさいよ。ずーっと疑問だったんだけどさ』


「なんだ、やかましい鉄屑。今、我が社が歴史的な契約を結んだところだぞ」


『いや、70兆ギルなんていうトンデモない金塊があったなら、なんで帝国は戦争に負けたのよ? それだけのお金があれば、私みたいな超兵器をもっと量産するとか、外国から最強の傭兵団を雇うとか、いくらでもやりようがあったんじゃないの?』


 ルクレティアの極めて単純で、しかし本質を突いた疑問。


 それに答えたのは、クラウスだった。

 彼は手元のチェス盤の孤立した王将を指でそっと撫でながら、ひどく苦い顔をした。


「……金があっても、それを使う市場から完全に締め出されていれば、金塊などただの重たい石ころに過ぎないのですよ、ルクレティア殿」


「その通りだ」


 バルタザールが冷酷な現実を補足する。


「戦争末期、旧帝国は連合国軍によって完全に制海権を奪われていた。加えて、猛烈な経済制裁だ。連合国は周辺の交易国に対し、『帝国に物資を1つでも売れば、お前たちも敵とみなす』と強烈な圧力をかけていた」


『あ……』


「いくら金塊を積もうが、弾薬も、食糧も、魔力結晶も、外部から一切買うことができなかった。国家間の公的な取引は監視され、物流ルートは完全に封殺されていたんだ。……我々が買い取った黒水港に、あの巨大なクラーケンが放置されていた理由がそれだ」


 バルタザールの脳裏に、ヘドロにまみれた旧帝国の港が蘇る。


「海上ルートを完全に絶たれた帝国軍が、せめて敵の海上封鎖艦隊を道連れにするために放った苦肉の策……あれは、帝国の物流が完全に死んだことを意味する悲鳴だったのさ」


「ええ……。我がヴァイス共和国でさえ、国家として表立って帝国に物資を売ることは不可能でした」


 クラウスが深く息を吐き出し、傍らのヴォルフガングに目を落とす。


「だからこそ、大公殿下は国家間の公的な条約ではなく、私という個人的な友人への秘密の信託という抜け道を使って、この金塊を国外へ逃がすしかなかった。……帝国を救うためではなく、いつか来る次の時代のために」


 国家の命運が尽きていく中で、どれほど莫大な富を持っていようとも、何も買うことができなかった絶対的な無力感。

 大公とクラウスが抱えた無念の重さに、ヴォルフガングが静かに魔力を明滅させ、ルクレティアもバツが悪そうに『……そ、そうだったのね』と口をつぐんだ。


「……感傷に浸る時間はないぞ、総裁殿」


 しんみりとした空気を切り裂くように、バルタザールが黒革の手帳をバチンと閉じた。


 その瞳には、すでに旧帝国の無念を弔う気など毛頭なく、ただ莫大な資本を手にした冷酷な投資家の光だけがギラギラと宿っていた。


「帝国という経済制裁の対象は死んだ。そして今、この70兆の金塊は、国家の縛りを受けない我々という民間企業の強力な信用(クレジット)へと生まれ変わった。……大公が使えなかったこの莫大な資本、私が1ギル残らず有効活用してやろう。まずは手始めに、連合国がのうのうと居座っている旧帝都のインフラから買い叩く」


「……ええ。存分にお使いください、バルタザール殿。我がヴァイス中央銀行が、全力で裏書いたしましょう」


 クラウスが、かつての友の面影を持つギルを見つめながら、力強く頷いた。


 死んだ国家の遺産が、最も悪辣で合理的な会計士の手に渡り、世界を買い戻すための生きた資本として目を覚ました瞬間であった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ