市場への宣戦布告①
ゴルディオン通商連合が管理するスラム街の地下。
そこは、合法・非合法を問わずあらゆる「価値あるもの」が取引される巨大な闇市だった。
今宵の目玉である大規模オークションの開始前、隣接する地下闘技場では、血に飢えた金持ちたちのための余興が行われていた。
円形の闘技場の中央に、ギルは立っていた。
身につけているのは簡素な衣のみ。武器すら持たされていない。
対峙するのは、連合軍が旧帝国の魔獣保護区から密猟してきたという「重装甲熊」。
体長3メートルを超える巨躯は硬い外殻に覆われ、一撃で鉄柱をへし折る腕力を持つ。
観客席の高みからは、下馬評通りの凄惨な結末を期待する野次と嘲笑が飛んでいた。
華奢で美しい作りの少年など、数秒で肉塊に変わるだろうと誰もが思っている。
「……個体識別、重装甲熊。敵対的アプローチを確認」
ギルは無機質な声で呟き、わずかに腰を落とした。
「質量差、約30倍。正面衝突による骨格系の損耗リスクを回避。自己資産の減価償却を防ぐための最適解は、装甲の継ぎ目へのピンポイント打撃による運動機能の停止」
魔獣が咆哮を上げ、巨大な爪を振り下ろす。
だが、ギルの姿はすでにそこにはなかった。
「遅い。魔力効率が悪すぎる」
空気を裂くような破裂音。
魔獣の背後に回り込んだギルが、その分厚い装甲の「継ぎ目」へと正確に貫手を突き入れていた。
クローンとして極限まで調整された筋組織と、体内で瞬間的に練り上げられた最少の魔力が、ギルの腕を鋭利な槍へと変える。
装甲を容易く貫通し、魔獣の心臓を直接破壊した。
巨体が地響きを立てて崩れ落ちる。開始からわずか3秒の出来事だった。
水を打ったように静まり返る観客席。
やがて、誰かが息を呑む音が響き、それが爆発的な歓声とどよめきに変わった。
「なんだあの少年は!」「あの銀髪、まさか旧帝国の……いや、そんなはずは!」
特等席の暗がりで、バルタザールは葉巻の煙を細く吐き出した。
手元の黒革の手帳には、次々と跳ね上がっていく「予想落札価格」が書き込まれている。
「いいぞ、ギル。お前の『時価総額』が今、天井を突き破った」
バルタザールは冷酷な笑みを浮かべ、本命のオークション会場への扉を見据えた。
* * *
熱狂冷めやらぬまま、舞台は闘技場から本命の地下オークション会場へと移った。
天鵞絨の幕が上がり、厳重な魔力手錠を嵌められたギルが壇上に引き出される。
その瞬間、会場を埋め尽くす欲望の熱気が一段と跳ね上がった。
先ほどの闘技場での「実演」は、余興としてはこれ以上ない宣伝効果を発揮していた。
「開始価格、5,000万ギル!」
司会者の声が響くや否や、怒号のような入札が飛び交う。
「6,000万!」
「8,000万! あの白銀の殺戮人形は俺のファミリーがもらう!」
数多の金持ちたちが群がる中、ひときわ異彩を放つ男が最前列に陣取っていた。
ゴルディオン通商連合の裏社会を牛耳る巨大マフィア『黒の天秤』のボスだ。
傷面の巨漢は、先ほどの闘技場で見せつけられた圧倒的な暴力に完全に魅了されていた。
「1億ギルだ。雑魚はすっこんでろ」
ボスの凄みのある声に、会場が水を打ったように静まり返る。
1億。それは地方都市の年間予算に匹敵する額だ。
だがその沈黙を、会場の最後列から響いた落ち着いた声が破った。
「……1億5,000万」
目深に帽子を被ったバルタザールだ。
手元の黒革の手帳をめくりながら、彼は退屈そうに、だが確実にマフィアのボスの闘争心を煽る絶妙なトーンで価格を提示した。
「なんだと?」
ボスの太い首が後ろを向く。
「2億。手に入れられないなら、さっさと降りることをお勧めするよ。成金殿」
バルタザールは鼻で笑い、さらに火に油を注ぐ。
架空の売掛金を利用した巧妙な価格の吊り上げだ。
壇上で魔力手錠に繋がれたギルは、無表情のまま眼下の狂騒を見下ろしていた。
彼の脳内では、論理回路が冷徹に数字を弾き出している。
(魔導銃『ルクレティア』の予想落札価格、約3億ギル。現在の入札額、2億ギル。目標金額まで残り1億ギル。……バルタザールの挑発による感情バイアスを計算に加味。マフィアの『面子』という無形の負債を利用し、支払い限度額を強制的に引き出す算段か。10秒以内に目標額を突破する確率、98パーセント)
「舐めやがって……! どこの馬の骨か知らねえが、裏社会の王に逆らったことを後悔させてやる!」
マフィアのボスは葉巻を噛みちぎり、太い指に嵌めた宝石の指輪を鳴らして吼えた。
「5億だ!! これ以上競る命知らずは、この場で鉛玉を食わしてやる!」
殺気を孕んだ脅迫に、今度こそ会場は完全に沈黙した。
司会者の木槌が振り下ろされ、ギルの『売却』が確定する。
「上出来だ」
影に溶け込むように立ち去りながら、バルタザールは手帳に『売掛金(未回収):5億ギル』と書き込んだ。
* * *
一方その頃、会場裏の特別引き渡しルーム。
マフィアのボスと数人の武装した護衛が、厳重な魔力手錠で両手首を拘束されたギルを取り囲んでいた。
「へへっ、いい面構えだ。あの貧乏くさい男には過ぎた代物だぜ。今日から俺のファミリーでたっぷり躾けて……」
ボスが下劣な笑みを浮かべてギルの顔に手を伸ばした、その瞬間。
ギルの脳内回路が、極めて冷静な推論を弾き出した。
(現在地の敵対戦力は5名、完全武装。当初の予定では会計士との合流地点で脱出だったが、合流後に交戦した場合、対象名ルクレティアの稼働による余分な魔力消費と、会場設備破損による損害賠償リスクが上乗せされる。……結論。現在地での無力化が最もコスト効率が良い)
「……予定を変更する」
無機質な声とともに、ギルの姿がブレた。
魔力手錠は装着者の魔力を封じ、数トンの張力に耐える特殊合金製だ。
しかし、ギルは魔力など一切使わず、クローンとして極限まで調整された純粋な筋力と質量だけで動いた。
「がっ!?」
繋がれた両手の手錠の鎖が、ボスの太い首に巻き付く。
ギルはそのまま背後の壁を蹴り上がり、テコの原理と自重を利用してボスの巨体を一瞬で宙に吊り上げた。
「なっ、撃て! 撃ち殺せ!」
慌てて銃を抜く護衛たち。
だが、ギルは吊り上げたボスを肉の盾にしつつ、拘束されたままの両足で信じられない跳躍を見せた。
壁、天井とピンボールのように反射し、護衛たちの急所を次々と踵落としで粉砕していく。
わずか10秒。
引き渡しルームには、白目を剥いて気絶したマフィアたちと、彼らから奪った鍵で悠々と手錠を外すギルの姿だけが残された。
「……無駄な労働だった。時給換算で請求を追加しておく」
ギルは呟き、バルタザールが待つオークション会場への扉を蹴り破った。




