終わらない選挙と10兆ギルの回収④
両陣営から本国の優良資産を担保とした借用書を巻き上げたバルタザールは、喧騒に包まれる広場の片隅、誰の目にもつかない暗い路地裏へと足を踏み入れた。
生臭い泥の匂いが漂う暗がりの中で、彼は「卑屈な監査人」の仮面を脱ぎ捨て、懐の通信用魔導具を起動する。
「俺だ、ギル。両陣営の『首輪』は回収した」
魔導具の向こう側から、一切の感情を持たないギルの機械的な音声が返ってくる。
『了解した。バルタザールの指示に従い、ペーパーカンパニーを経由して両陣営の口座に融資金を振り込んだ。
これで両陣営の資金注入が再開され、1票の買収相場はさらに非現実的な数値へと跳ね上がる。
彼らが借りた資金の燃焼速度を再計算……遅からず、明日の日没には再び底をつく算段だ』
「ああ。奴らは勝つために、自らの血肉を切り売りしてでもこの泥沼に金を注ぎ込み続ける。
……ルクレティアの煽りも上出来だ。
連合国の豚どもが限界まで融資を引き出し、完全に干上がって白目を剥くまで、この熱狂の火を燃やし続けろ」
路地裏の向こう、広場の中央では、見えないルクレティアの念話に扇動された有権者たちが、さらなる欲望を剥き出しにして候補者たちへ群がっていく。
終わりのないバブルの中心で、バルタザールは手元にある2枚の分厚い契約書を撫でながら、氷のように冷たく、ひどく満足げな笑みを浮かべていた。
* * *
旧帝都の南区、長きにわたり貧困と汚泥に沈んでいた広場は、狂熱という名の業火に焼かれ尽くそうとしていた。
ルクレティアが放つ高密度の念話が、有権者たちの脳髄を休むことなく直接揺さぶり続ける。
彼女の不満から抽出された扇動の言葉は、貧民たちの胸の奥底に眠っていた「持つ者への憎悪」と「果てなき強欲」を完璧に引き摺り出していた。
群衆は波のようにうねり、獣のように目を血走らせて両陣営の天幕へと押し寄せる。
彼らの突き出す汚れた手のひらに向かって、連合国『貴族派』と『役人・商会派』の運動員たちは、涙目になりながら現金や引換券を放り投げ続けていた。
つい数時間前、匿名の投資家から莫大な担保を引き換えに融資されたばかりの追加資金。
底なしの泥沼を埋めるには十分すぎると思われたその巨額の富すらも、暴走したインフレーションの前では、渇いた砂地に撒かれた一滴の水に等しかった。
マルベリア子爵が喉を枯らして叫び、ソーン商務官が髪を振り乱して帳簿を投げ捨てる。
両陣営の金庫の底が、再び冷酷な木肌を剥き出しにした、まさにその瞬間だった。
狂乱の渦巻く広場を切り裂くように、統制の取れた軍靴の響きと、冷たい金属の擦過音が響き渡った。
広場を囲む主要な路地のすべてから、白銀の甲冑に身を包んだ連合国本国の特務司法兵が雪崩れ込んできたのである。
彼らは抜刀こそしていないものの、その手には長大な槍が握られ、圧倒的な暴力の気配で暴徒と化した群衆を壁際へと押し込んでいく。
異常事態に気づいた有権者たちが、蜘蛛の子を散らすように口を閉ざし、一瞬にして広場は不気味な静寂に包まれた。
重武装の兵士たちを従え、中央に進み出たのは、連合国本国の紋章を胸に掲げた厳格な顔つきの司法官だった。
彼は懐から重々しい羊皮紙の令状を取り出し、広場全体に響き渡るよく通る声で宣告した。
「連合国最高司法会議の名において通達する!
此度の『旧帝都自治代表選挙』において、両陣営による大規模かつ極めて悪質な買収行為、および旧帝国選挙法への重大な違反が確認された。
よって、本選挙は即時中止、ならびに無効とする!
各陣営の責任者および立候補者を、司法妨害と選挙法違反の容疑で直ちに拘束せよ!」
その言葉は、両陣営の候補者たちにとって、文字通り死の宣告であった。
「な、なんだと……選挙が無効!? 待て、待ってくれ! 我々はお前たちと同じ連合国の人間だぞ!」
「買収だと!? 役人派の連中がやっていたから対抗しただけで……離せ! 私を誰だと思っている!」
両腕を屈強な兵士たちに掴み上げられ、地面に膝を突かされるマルベリア子爵とソーン商務官。
彼らの顔からは血の気が失せ、これまでばら撒いた天文学的な資金——その大半が本国の領地や関税特権を担保にした『借金』であるという事実が、遅れて脳裏に蘇る。
選挙に勝てば回収できるはずだった。旧帝都の利権を握れば、借金など端金に過ぎないはずだった。
それが「無効」になればどうなるか。彼らに残されるのは、見知らぬ高利貸しに対する、返済不可能な絶望的な負債のみである。
「誰だ……誰が我々を通報した! ガルドス委員長か!? あの豚め、我々を切り捨てる気か!」
マルベリア子爵が狂乱したように周囲を見渡した時、兵士たちの列の隙間から、一人の男が優雅な足取りで歩み出てくるのが見えた。
仕立ての古いコート。
その腕には、連合国の選挙管理委員会から与えられた銀色の腕章が、夜の闇の中で冷たく光っている。
「おお……バルタザール! 監査人殿!」
ソーン商務官が、泥にまみれた顔を上げてすがるような声をあげた。
「貴様が監査の責任者だろう! 匿名の通報だと!? 誤解だと説明してくれ!
それに、あの融資家だ! 彼がどこにいるか教えてくれ、せめて担保の件だけでも交渉させてくれなければ、我々は終わりだ!」
涙と鼻水にまみれ、なりふり構わず這い寄ろうとする両候補者を見下ろし、バルタザールはひどく悲しげな、完璧なまでに計算された『善良なる役人』の仮面を被って首を振った。
「お気の毒ですが、お二方。私はただ、自身の職務を全うしたに過ぎません」
「職務、だと……?」
「ええ。特別監査人として旧帝都の集票手続きを監視していたところ、極めて詳細な裏帳簿と、有権者への現金の受け渡しを記録した証拠物件が、匿名の善意ある市民から私の元へ届けられたのです」
バルタザールの声は、どこまでも穏やかで、氷のように冷酷だった。
「これほど明白な不正の証拠を握り潰すことは、連合国の神聖なる選挙に対する冒涜に他なりません。
ゆえに私は、提出された証拠を本国の司法機関へそのまま引き継ぎ、判断を委ねました。
私はただ監査人として、極めて『公正』に対処したまででございます」
公正。その一言が、鋭利な刃となって候補者たちの胸を抉る。
彼ら自身が「権限がないなら都合がいい」と見下し、手駒として利用したつもりの男が、その「権限がないこと」を逆手にとって本国司法という絶対的な暴力を引きずり出してきたのだ。
「き、貴様が通報したのか! 貴様しかいないだろう! この悪魔め!」
マルベリア子爵が血の涙を流さんばかりの形相で叫ぶ。
「融資家だ! あの融資家も貴様と繋がっているのだろう! 答えろ!
我々の領地と特権を奪い取ったあの悪魔は、いったいどこの何者だ!!」
「私にはわかりかねます」
バルタザールは一切の感情を交えず、淡々と嘘を吐き捨てた。
「私個人の知人とはいえ、彼は常に匿名を貫く方ですから。
ただ……契約というものは神聖です。
お二方が署名されたあの借用書は、決して消え去ることはありません。
融資家殿は遅からず、本国のご自宅まで、皆様の資産を『公正』に回収しに向かわれることでしょう。……どうか、ご武運を」
それだけを言い残し、バルタザールは踵を返した。
背後から響く、狂乱と絶望に満ちた候補者たちの絶叫。
彼らはこれから、本国の薄暗い牢獄に繋がれ、見知らぬ債権者がいつ自分のすべてを奪いに来るかという底知れぬ恐怖に一生怯え続けることになる。
真綿で首を絞められるような、完璧な破滅であった。
* * *
旧帝都の地下水脈から立ち昇る淀んだ湿気が、崩れかけた石造りの隠れ家の空気を満たしていた。
広場の狂熱から遠く離れた薄暗い室内で、長大な狙撃銃――ルクレティアが、激しい疲労と呆れを混じらせた念話を周囲にまき散らしている。
『ああもう、最悪! 私の尊厳を泥まみれにしてあんな貧乏人どもを扇動させておいて、最後は自分で通報して選挙ごと潰すなんて!
自分で煽って借金させて自分で通報するマッチポンプ……あんた、本当に人間の心がないわね!』
部屋の片隅で、粗悪な茶葉から滲み出た濁った液体を啜っていたバルタザールは、コートを脱ぎ捨てながら鼻で笑った。
彼の顔からは、すでに卑屈な監査人の仮面は完全に剥がれ落ちていた。
『それに、ずっと気になってたんだけど!』
銃身の魔力結晶を瞬かせ、ルクレティアが問い詰める。
『両陣営が喉から手が出るほど欲しがった莫大な融資金なんて、借金まみれの私たちがどこから湧いて出させたのよ!?
まさか、どこかの銀行を襲撃でもしたわけ!?』
「俺が用意した元手など、ほんのわずかな持ち出しに過ぎない」
バルタザールは冷めた茶を一口飲み、事も無げに種明かしをした。
「お前が広場で熱狂を煽っている裏で、スラムの顔役たちと交渉していた。
奴らが両陣営から受け取ったばかりの現金や物資を、裏道を通って即座にこちらへ回収させたのだ。
そして、回収した彼ら自身の軍資金を、『匿名の融資』と称して法外な金利で再び貸し付けた」
「右のポケットからこぼれ落ちた小銭を拾い集め、左のポケットへ恩着せがましくねじ込む。
極めて効率的な自転車操業だ」
壁際で無数の帳簿にペンを走らせていた未完成クローンの青年、ギルが、ガラス玉のような双眸を瞬きもせずにこちらへ向け、淡々と補足した。
「両陣営の候補者は、自分たちがばら撒いたばかりの金を、本国の領地や特権を担保にして借り直していたに過ぎない。
資金の総量は最初から増えていない。
対象は自らの血肉で己の首を絞め上げていたということだ」
『……呆れた。悪魔も泣いて逃げ出すようなドケチの手口ね。
でも、あの意地汚いスラムの連中が、貰ったばかりの現金を素直に差し出すなんて信じられないわ。どうやって協力させたのよ?』
「奴らとて、ただその日を生きるだけの獣ではない。
旧帝都の底辺で泥水を啜って生き延びてきた意地がある」
バルタザールは冷ややかな笑みを浮かべた。
「連合国の豚どもに飼い慣らされ、息のかかった傀儡にこの街を支配されることだけは、反吐が出るほど拒絶しているのさ。
だからこそ、豚どもの金を巻き上げて破滅させるという俺の計画に、喜んで乗った。
目先の小銭よりも、連合国の支配を跳ね除ける意趣返しを選んだということだ」
『なるほどね。貧乏人の意地ってやつね』
「さあ、極上の精算の時間だ。ギル、計算しろ」
「了解した」
ギルは手元の帳簿に新たな数式を走らせ、契約書の担保項目を冷徹に金銭的価値へと変換していく。
「本国司法への匿名通報プロセスの完了を確認。
連合国による選挙の無効化に伴い、対象の政治的生命および資産凍結手続きが事実上進行中。
これより、我々が回収した債権による純負債残高の圧縮計算に移行する」
ペンが紙を擦る乾いた音だけが、静まり返った室内に響き渡る。
「貴族派候補者、マルベリア子爵の連帯保証による本国領地および銀山採掘権の譲渡。
現在の相場と将来的な産出利益を算定し、資産価値およそ5兆2,000億ギル。
役人・商会派候補者、ソーン商務官の連帯保証による本国関税免除特権および商会資産の差し押さえ。
資産価値およそ5兆1,000億ギル。
これに、両陣営から事前に巻き上げた仲介手数料等の現金を加算」
やがて、計算を終えたギルが顔を上げた。
「対象の破産手続き完了。合計、10兆3,000億ギル相当の債権確保。
我々が抱える元本に対して、極めて有効な負債の圧縮に成功した」
その数字を聞いた瞬間、バルタザールの口の端が、三日月のように鋭く歪んだ。
10兆ギル。
一般の市民が何千回生まれ変わっても使い切れないほどの天文学的な富が、たった数日の狂騒と数枚の契約書によって、連合国の豚どもから合法的に奪い取られたのだ。
「素晴らしい。連合国の奴らがこの旧帝都の焼け跡から絞り出そうとした利権は、すべて俺たちの負債を減らすための養分となった」
そう言い残すと、バルタザールは椅子から立ち上がり、ハンガーに掛けられていた古びたコートを再び羽織った。
そして、机の引き出しから鈍い音を立てる重々しい革袋を掴み取る。
『ちょっと、どこへ行くのよ?』
「役者たちへの出演料の支払いだ。旧帝都の誇り高き市民たちに、約束の報酬をくれてやらなければな」
軋む扉を押し開け、冷たい夜風が室内に流れ込む。
かくして、旧帝都を舞台にした終わらない選挙戦は、何一つ生み出すことなく、ただ敗者の血肉を吸い尽くして幕を閉じた。
背中を向けて闇の中へ消えていく借金取りの足音と、微かに目減りした莫大な数字の羅列だけが、この狂騒の確かな結末であった。




