表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
14/27

終わらない選挙と10兆ギルの回収③

 旧帝都の南区、かつては瀟洒な噴水が飛沫を上げていたであろう廃広場。

 泥と排泄物、そして長年の貧困の臭いが染み付いた石畳の上で、今日はかつてない熱狂の渦が煮え立っていた。


 広場を二分するように、2つの陣営が巨大な天幕を張っている。


 片や、連合国の『貴族派』が雇った私兵と運動員たち。

 彼らは荷馬車から脂の滴る豚の丸焼きと、鼻をつくような匂いの安酒を振る舞い、「古き良き秩序と庇護」を声高に謳っていた。


 片や、『役人・商会派』の代理人たち。

 彼らは真新しい銅貨が詰まった麻袋を掲げ、小綺麗な衣服と愛想笑いを振りまきながら、「自由市場と豊かな再開発」を約束する握手を配って回っている。


 日々のパンにすら事欠くスラムの住人たちにとって、それは天から降ってきた奇跡のような光景だった。

 彼らは群れをなして配給の列に並び、施しを受け取るたびに卑屈な笑みを浮かべて忠誠を誓う——はずだった。


『旧帝都の誇り高き市民たちよ! 豚の餌のような薄いスープと、黒ずんだ銅貨数枚で、あなたたちの気高い尊厳を売り渡す気!?』


 突如として、広場を見下ろす崩れかけた時計塔の頂から、物理的な振動を伴う巨大な声が響き渡った。


 空気を震わすどころか、広場にいる数千人の有権者の脳髄へ直接叩き込まれるような、圧倒的な高密度の念話。

 その正体が、時計塔の影に固定され、銃身の魔力結晶を怒りの赤色に明滅させている長大な魔導狙撃銃——ルクレティアであると気づく者は、広場の群衆の中には誰一人としていない。


(ああもうっ、なんで帝国の最高傑作たる私が、こんな三文芝居のセリフを貧乏人どもに向けて叫ばなきゃならないのよ!

 屈辱、屈辱、大屈辱よ! あのクソ借金取り、あとで絶対に脳天を撃ち抜いてやるんだから!)


 ルクレティアは内なる演算領域でバルタザールへの呪詛を煮えたぎらせながらも、彼から渡された『台本』を一字一句違えずに読み上げ続けた。

 彼女が抱く強烈な怒りと不満の感情が、皮肉にも声に凄まじい熱量とカリスマ性を与え、群衆の心を鷲掴みにしていく。


『目を開きなさい! 貴族派はあなたたちを飢えた野犬と見下し、骨を投げて尻尾を振らせようとしているだけ!


 役人派はあなたたちを安上がりの労働力としか見ていない!

 彼らが連合国の本国で、どれほど豪奢な館に住み、贅沢な美食を貪っているか思い出しなさい!』


 群衆の手が止まる。

 口に運ぼうとしていた豚の脂が、途端に薄汚れた残飯のように思えてくる。

 握りしめていた銅貨の冷たさが、自分たちを縛る鎖の重さのように感じられてくる。


『あなたたちが持つ1票は、ただの紙切れではないわ!

 この旧帝都の未来と、膨大な復興予算の行方を決める、絶対的な権利そのもの!


 それを安酒と銅貨で手放すというの!? あなたたちの価値はそんなに安くない!

 銀貨でさえ安すぎる、金貨で報いさせて当然の権利よ! 彼らの懐には、まだまだ隠し持った富があるはず! 搾り取りなさい!』


 一瞬の静寂の後、広場を支配していた空気が劇的に反転した。

 群衆の瞳から卑屈な物乞いの光が消え去り、代わりに強欲な略奪者の炎が灯る。


 一人の男が、受け取ったばかりの安酒の入った木杯を石畳に叩きつけた。

 それを合図にしたかのように、怒号と要求の嵐が吹き荒れる。


「そうだ! 銅貨数枚で旧帝都の未来が買えると思うな!」


「俺たちの票が欲しけりゃ、銀貨を出せ! 豚の肉じゃなくて、牛のステーキを焼いてみせろ!」


「商会派の連中は新しい毛布も配ってるぞ! 貴族派、お前らはどうなんだ!」


 欲望の連鎖反応。

 熱狂は瞬く間に伝染し、有権者たちは両陣営を往復しながら、より高い「買収価格」を要求し始めた。


 想定外の暴動めいた要求に、連合国の運動員たちは顔色を青ざめさせる。

 しかし、隣の陣営が「では銀貨を1枚追加しよう!」と叫んだ瞬間、彼らもまた負けじと資金箱の鍵を開けざるを得なかった。


 選挙戦において、相手陣営に票が流れることは、これまでの投資バラマキがすべて無駄(サンクコスト)になることを意味するからだ。


 時計塔から少し離れた廃屋の屋根の上。

 完全に熱狂の坩堝と化した広場を見下ろしながら、ギルはガラス玉のような双眸に無数の数式とグラフを走らせていた。


「対象の不満分子が臨界点を突破。

 貴族派の陣営が鎮静化のために銀貨の箱を開封し、特別手当を放出。役人派が対抗して毛織物と小麦の無償配給手形を乱発している。


 ……1票の買収相場、初期設定の400パーセントから、さらに上昇中。現在、600パーセントに到達」


 一切の感情を交えない、機械的な音声が夜風に溶ける。

 眼下では、両陣営の金庫から溢れ出した富が、スラムの泥に吸い込まれるように消えていく。


 有権者たちはバルタザールの目論見通り、もはや候補者の政策など一切聞いていない。

 ただ目の前に積まれる「現金と物資の量」だけを比較し、終わることのないオークションの競り手として振る舞っている。


「……ルクレティアの不満係数に基づく『声の圧力』が、大衆の衝動買い(パニックバイ)ならぬ、衝動的な要求の暴騰を完璧に誘発している。

 バルタザールの台本の心理的誘導効果と相まり、極めて効率的なインフレーションだ」


 ギルが手元の帳簿に新たな数値を書き込んだその時、通信用の魔導具からバルタザールの声が響いた。


『俺だ。こちらの監査人としての潜入も完了した。

 広場の熱狂はここまで伝わってくる。俺が書いた台本通りとはいえ、あの鉄屑のヒステリックな念話は見事に民衆の強欲を煽り立てているな。望み通りの見事な働きだ、よくやったと褒めておけ』


「了解した。ルクレティア本人に、その評価を正確に伝達する」


 ギルは淡々と応じ、眼下で狂乱の渦と化していく広場を見下ろしながら問いかけた。


「現在のインフレーションの進行速度から推算し、両陣営の資金ショートは目前に迫っている。

 このまま彼らの軍資金が完全に枯渇した後、我々は次なるフェーズとしてどのように動くか。指示を」


『焦ることはない。連合国の豚どもが資金繰りに窮し、己のプライドと埋没費用(サンクコスト)の板挟みになって絶望するのを待て。

 奴らが完全に干上がり、引くに引けなくなった泥沼の底で……俺が匿名の『救済者(融資家)』として、慈悲深い手を差し伸べてやる』


 通信機越しのバルタザールの声は、冷酷な捕食者の笑みを微塵も隠そうとしていなかった。


『それまで、せいぜい奴らに無駄な金と血を流させろ。

 お前たちは状況を監視し、いつでも動けるよう準備を整えて待機しろ』


「了解した。引き続き、対象の資金残高の推移を監視する」


 連合国の連中が「安く買える」と侮っていた票の価格は、いまや天井知らずの高騰を続けている。

 熱狂のバブルは限界まで膨れ上がり、やがて来る破裂(デフォルト)の時へ向けて、無慈悲な秒読みを開始していた。


   * * *


 広場の東側に陣取る、連合国『貴族派』の豪奢な天幕。

 分厚いビロードの布地で外の喧騒を遮ろうとも、有権者たちの「もっと金貨を出せ」という地鳴りのような要求は、容赦なく内部へと侵入してくる。


 その天幕の中心で、貴族派が擁立した候補者であるマルベリア子爵は、滝のように流れる脂汗を拭うことすら忘れ、空っぽになった金貨の木箱を血走った目で見つめていた。


「どういうことだ……なぜ、金が残っていない!

 本国から持ち込んだ莫大な軍資金が、たった数日で底をつきかけているだと!?」


 子爵の悲鳴に近い声に、周囲を取り囲む運動員たちは青ざめるしかない。


「申し訳ありません、子爵閣下。

 スラムの連中の要求が、我々の想定を遥かに超えて暴騰しておりまして……。


 豚の丸焼きや銅貨の束など見向きもせず、あちらの陣営が銀貨を出せばこちらは金貨を出せと、暴動寸前の勢いで詰め寄ってきているのです」


「馬鹿なことを言うな! あんな貧民共の票など、銅貨数枚で買い叩けるはずだっただろうが!

 なぜこんな異常な相場になっているのだ!」


 子爵が拳を机に叩きつけ、インク壺が跳ねて書類を汚す。

 彼の喉は枯れ、華美な礼服は冷や汗でひどく湿っていた。


 もしここで資金が尽き、選挙戦から撤退することになれば、これまでにばら撒いた数百万ギルという巨額の投資がすべて無に帰す。

 いわゆる埋没費用(サンクコスト)の重圧が、彼の首を真綿で絞めるように追い詰めていた。


 ここで負ければ、本国の派閥からは無能の烙印を押され、政治生命は完全に絶たれる。引くことなど、絶対に許されない。


 そこへ、天幕の入り口を押し開けて一人の男が優雅な足取りで入ってきた。

 仕立ての古いコートの腕に、連合国の選挙管理委員会から与えられた銀色の腕章を輝かせている。


 特別監査人、バルタザールであった。


「おお、監査人殿! 丁度いいところへ来てくれた!」


 子爵は藁にもすがる思いで、バルタザールに詰め寄った。


「この異常な相場の暴騰を今すぐ止めさせろ!

 役人派の連中が、裏で不正な資金操作を行っているに違いない!


 監査の権限で奴らの金庫を差し押さえ、有権者への買収行為を直ちに凍結するのだ!」


 荒い息を吐きながら命令を下す子爵に対し、バルタザールは困惑したような、ひどく申し訳なさそうな表情を浮かべて深く頭を下げた。


「お気の毒ですが、マルベリア子爵閣下。

 私に与えられている権限は、あくまで『集票手続きの適正化』と『選挙規定の監査』のみでございます。


 資金管理や市場の統制といった高尚な領域は、すべてガルドス委員長をはじめとする連合国本国の皆様の管轄となっております」


「な、なんだと……?」


「私のような敗戦国の民に、連合国の偉大なる資金の動きを止めるような越権行為は許されておりません。

 ガルドス委員長の厳命ですので、私にはいかんともしがたく……」


 他者の権限を完璧な盾として使い、一切の責任を回避する。冷酷な官僚の論理であった。


「くそっ、あのガルドスめ、保身ばかり気にしてこんな時に役立たずの監査人を……!」


「ですが」


 毒を含んだ蜂蜜のような声で、バルタザールは言葉を継いだ。


「監査人としてではなく、私個人の『知人』からの提案としてなら、閣下のお力になれるかもしれません」


「知人、だと?」


「ええ。旧帝国の隠し資産を個人的に運用している、とある匿名の投資家です。

 彼がこの熱狂的な選挙戦に強い関心を示しておりまして。


 確実な担保さえご用意いただけるなら、即座に莫大な活動資金をご融資できる、と申しております」


 バルタザールは懐から、上質な羊皮紙でできた契約書を取り出し、机の上に静かに置いた。

 子爵の顔に一瞬の安堵がよぎるが、その契約書に書かれた法外な金利と、要求されている担保の項目を見た瞬間、顔面を蒼白にさせた。


「な……担保だと!?

 どこの馬の骨とも知れん高利貸しに、我がマルベリア一族の誇りである本国の領地と、代々受け継いできた銀山の採掘権を差し出せというのか!


 しかもこの金利……暴利にも程がある!」


「お気に召さないのであれば結構でございます」


 バルタザールはあっさりと契約書を引き寄せ、背を向けようとした。


「ただ、先ほど『役人・商会派』の天幕の前を通った際、あちらの陣営も随分と資金繰りに苦しんでおられるご様子でした。


 この融資のお話、あちらの候補者殿にお持ちすれば、本国の関税権を担保にしてでも飛びつくかと思われますが……」


「ま、待て!」


 子爵の喉から、ひっくり返ったような悲鳴が漏れた。


 ここで自分が借金を断り、敵対する役人派がその資金を手にしたなら。

 広場にいる有権者は完全に役人派へなびき、自分の敗北が確定する。


 莫大な借金を背負う恐怖よりも、これまで|積み上げてきた投資がゼロになる恐怖《FOMO》が、子爵の理性を完全に焼き切った。


「貸せ! その契約書をよこせ! どうせ選挙に勝って旧帝都の利権を手に入れれば、こんな端金すぐに返してやるわ!」


 震える手で羽根ペンを握りしめ、子爵は自らの破滅を約束する羊皮紙に、血を吐くような思いで署名を刻み込んだ。


   * * *


 それから数十分後。広場の反対側に位置する『役人・商会派』の天幕でも、寸分違わぬ構図の喜劇が繰り広げられていた。


「毛織物も小麦の引換券も、紙切れ同然に突き返されただと!?

 現金を用意しろだなんて、我々の用意した予算を何だと思っているのだ!」


 青ざめた顔の役人派の候補者、ソーン商務官が、インクの染みついた帳簿を前に頭を抱え、自身の髪を乱暴に掻き毟っていた。

 そこへ現れたバルタザールに対し、彼はすがるような目を向ける。


「監査人殿! 貴族派の連中が相場を破壊しているんだ!

 奴らの資金源を今すぐ監査して、バラマキを止めてくれ!」


「お気の毒ですが、私に資金管理の権限は与えられておりません。ガルドス委員長のご決定ですので」


 バルタザールは全く同じ台詞を、寸分違わぬ完璧な愛想笑いとともに口にした。

 そして、絶望の底に沈むソーン商務官に向かって、再び「匿名の投資家」の存在を囁き、新しい羊皮紙の契約書を提示する。


「法外な利子だろうが! そんな悪魔のような契約書にサインできるか!

 我々新興の商会派にとって、本国の関税免除特権を担保にするなど、命綱を手放すのと同じことだぞ!」


「ご無理を申し上げるつもりはありません」


 バルタザールは悲しげに目を伏せ、懐に契約書をしまおうとする。


「ただ、先ほど貴族派の天幕に伺った際、マルベリア子爵閣下は『本国の領地を担保にしてでも、この融資を受けたい』と、今まさにペンを手に取っておられましたよ。


 今頃はもう、サインを終えて莫大な資金を広場にばら撒く準備をしている頃合いかと……」


「な……っ!」


 ソーンの顔が、屈辱と焦燥で醜く歪んだ。


 貴族派が追加資金を手にしたなら、自分たちも同等以上の現金を投入しなければ確実に敗北する。

 商会の出資者たちからの突き上げを想像し、彼の全身の毛穴から冷たい汗が噴き出した。


 敵に先を越される恐怖。撤退することの絶望。


「貸せ! その契約書をよこせ!!

 本国の関税権でも何でも担保にしてやる! 奴らに勝つためならば、いくらでも借りてやる!!」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ