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終わらない選挙と10兆ギルの回収②

 旧帝都の中心部、かつて皇帝の離宮が存在した一等地に、連合国の選挙管理委員会が陣取る仮設庁舎はそびえ立っていた。

 「仮設」とは名ばかりの、白亜の大理石と豪奢な彫刻で飾られたその建造物は、敗戦国から搾取した富を見せつけるための悪趣味な記念碑であった。


 廊下には異国から持ち込まれた甘ったるい香水と、高級な葉巻の紫煙が重く立ち込め、旧帝都の地下から漂うカビと汚水の匂いを強引に塗り潰している。


 柔らかな毛足の長い真紅の絨毯が敷かれた最奥の執務室。

 その中央に鎮座する分厚いマホガニーのデスク越しに、連合国の貴族派に属する選挙管理委員長、ガルドス伯爵は、目の前に立つ男を豚のように細めた目で見下ろしていた。


「……なるほど。旧帝国の財務高官であり、特別会計局の次長を務めた経歴を持つ、と」


 ガルドスは、手元に提出された羊皮紙の履歴書を、まるで汚物でも摘むかのように指先で弾いた。


「確かに、旧帝都の複雑怪奇な税制や、スラムに巣食うネズミどもの戸籍管理については、我々連合国の人間よりも熟知しているのだろう。

 この泥臭く煩雑な選挙管理の実務を丸投げするには、うってつけの経歴ではある」


 そこまで言い、ガルドスは口の端を歪めて冷笑を浮かべた。


「だが、バルタザールとやら。貴様は所詮、我々に敗れた旧帝国の負け犬だ。

 そんな底辺の輩を、神聖なる連合国の選挙管理における『特別監査人』などという要職に就かせると思うか?


 監査権限を与えれば、貴様は我々の資金の流れを覗き見ることができる。

 復興予算や選挙資金を横領し、祖国復興のテロ資金にでも回そうなどと企んでいるのではないだろうな」


 疑念と侮蔑が入り混じった視線が突き刺さる。

 背後に控える護衛の兵士たちが、腰の剣の柄に手をかける衣擦れの音が微かに響いた。


 しかし、バルタザールは背筋を真っ直ぐに伸ばしたまま、完璧なまでに計算された卑屈な笑みを浮かべて深く一礼した。


「ご懸念は尤もでございます、ガルドス委員長閣下。

 しかし、信用などという不確かな感情で私をご判断いただく必要はございません。


 私が絶対に連合国を裏切れない、そして裏切る意思など微塵もないという『確固たる証明』を、すでにお手元に提出しております」


「証明だと?」


「履歴書の次の束をご覧いただけますでしょうか」


 促されるまま、ガルドスが分厚い書類の束をめくる。

 そこに羅列されていたのは、見渡す限りの数字の羅列と、血印が押された無数の契約書の写しだった。


 数秒後、ガルドスの顔から冷笑が消え、代わりに驚愕と呆れがないまぜになった滑稽な表情が浮かび上がった。


「な……なんだ、この天文学的な数字は!? 94兆……いや、約95兆ギルだと!?

 貴様、連合国の複数の銀行や投資機関に対して、これほどの負債を抱えているというのか!」


「お恥ずかしい限りです。

 旧帝国の崩壊時、国家の負債をいくつか個人的に肩代わりする羽目になりまして。

 複利計算の恐ろしさを身を以て味わっている最中でございます」


 バルタザールは芝居がかった手つきで己の胸に手を当て、深い溜息を吐き出してみせた。


「委員長閣下。わずかな借金ならば、人は夜逃げを企てるかもしれません。

 あるいは、数百万ギル程度の横領で人生の逆転を狙うでしょう。


 ですが……約95兆ギルです。

 この旧帝都の土地をすべて売り払っても到底届かない絶望的な数字の前では、いかなる小細工も、テロリズムへの野心も、すべては無意味な徒労へと帰します」


 バルタザールの声は、どこまでも穏やかで、そして致命的な毒を含んだ蜂蜜のように甘く響いた。


「私の命は、事実上、債権者である連合国皆様のものです。

 これほど太く、重い『負債』という鎖で首を繋がれた猟犬が、どうして飼い主の喉笛に噛みつくことができましょうか。


 私はただ、皆様の手足となって泥臭い実務を完璧にこなし、選挙という儀式を滞りなく終わらせる。

 ……そしてその対価として、ほんのわずかばかり、負債の『利子』を減免していただきたい。それが私の、ささやかで切切な望みなのでございます」


 執務室に、重苦しい沈黙が降りた。

 ガルドスの豚のような小さな目が、書類の数字とバルタザールの顔を忙しなく往復する。


 彼の脳内で、打算と優越感が急速に結びついていく過程を、バルタザールは冷徹な観察眼で見透かしていた。


(……そうだ。計算しろ。自らの手を汚さず、スラムの貧民どもの不満を抑え込み、かつ絶対に逆らえない便利な奴隷。

 その価値を、貴様自身のちっぽけな物差しで計ってみせろ)


 やがて、ガルドスの顔に、先ほどよりもさらに醜悪で傲慢な笑みがねっとりと広がった。


「……くっ、くははは! 約95兆ギル! 傑作だ!

 貴様は一生、いや死してなお魂をすり潰して我々連合国に奉仕し続けるしかない、究極の奴隷というわけか!」


「仰る通りでございます」


「よかろう! その見下げ果てた境遇と、実務能力だけは評価してやる。

 特別監査人の役職、貴様にくれてやろう」


 ガルドスは引き出しから、連合国の紋章が刻まれた銀色の腕章を取り出し、机の上に放り投げた。

 金属が分厚い木材にぶつかる鈍い音が響く。


「だが、勘違いするなよ。

 各陣営の資金管理や復興予算の割り当ては、連合国本国から派遣された我々が行う。


 貴様のような負け犬に連合国の金庫の鍵を触らせるつもりは毛頭ない。

 貴様に任せるのは、旧帝都の薄汚い有権者どもの集票手続きと、現地の選挙規定の監査だけだ」


「重々承知しております。

 資金の流れという高尚な領域は皆様にお任せし、私は泥にまみれた実務のみを粛々とこなす所存です」


 バルタザールは恭しく頭を下げ、銀色の腕章を拾い上げた。


 仮設庁舎を出たバルタザールは、背後にそびえる白亜の建物を1度だけ振り返り、鼻で笑った。

 高級葉巻の匂いが夜風に流され、代わりに旧帝都本来の、湿った泥と人々の欲望が入り混じる生臭い風が彼の頬を撫でる。


 その瞬間、バルタザールの内側で、卑屈な借金取りの仮面が剥がれ落ち、冷酷な捕食者の素顔が露わになった。


(……馬鹿な豚どもだ。首輪を握っていると錯覚したまま、その鎖が自分たちの首に巻き付いていることにも気づかない)


 資金管理には手を出させない、か。結構なことだ。

 ガルドスは直接財布を握らなければ安全だと高を括っているが、経済を破壊するのに金庫の鍵は必要ない。


 集票手続きと選挙規定の監査権限。これさえあれば、あらゆる規定の穴を突き、書類の不備をでっち上げ、異議申し立てを繰り返し、候補者たちに「追加の経費(合法的な活動費や違約金)」を強制的に支払わせることができる。


 俺が直接金を抜かずとも、ルールの内側から無限の出費を強要してやれば、奴らの資金は勝手にショートし、選挙戦は『永遠に終わらない泥沼』へと沈んでいく。


 バルタザールは懐から通信用の魔導具を取り出し、冷たい声で命じた。


「俺だ、ギル。仕込みは完了した。

 連中は俺から資金管理の権限を遠ざけたが、集票とルールの監査権は手に入れた。


 これより旧帝国の複雑怪奇な選挙法を盾に取り、候補者たちに無駄な経費を際限なく吐き出させるフェーズに移行する」


『了解した。資金管理への直接介入不可を前提条件として再計算。

 ルールの厳格化による手続き遅延と、それに伴う各陣営の活動費用の燃焼率を上方修正する』


 通信機越しに、ギルの無機質な声に混じって、遠くから凄まじい大音量の念話の余波が大気を震動させて伝わってきた。

 スラムの広場から響く、ルクレティアのヒステリックな扇動の声だ。


『……ルクレティアによる有権者へのプロパガンダ(台本読み上げ)も、現在順調に進行中だ。スラムの住人たちの熱狂度は規定値を突破。

 両陣営によるバラマキ競争が激化し、現在、1票あたりの買収価格は初期設定の4倍に高騰している』


「素晴らしい。連合国の豚どもの資金が完全にショートするまで、極限までインフレさせろ。

 連中に、ルールという名の見えない刃で出血を強いらせてやる」


 バルタザールは銀色の腕章をポケットに無造作にねじ込み、熱狂の渦巻く旧帝都の喧騒へと向かって、静かに歩みを進めた。

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