終わらない選挙と10兆ギルの回収①
旧帝都の地下水脈から立ち昇る淀んだ湿気が、崩れかけた石造りの隠れ家の空気を重く沈ませていた。
薄暗い室内で、硝煙と魔力の残滓を纏う長大な狙撃銃――ルクレティアが、銃身の魔力結晶を明滅させて甲高くわめき立てる。
『ちょっと、バルタザール! 私の優秀な魔導演算領域をどれだけ間引いて計算しても、絶望的な未来しか出力されないじゃない!』
部屋の片隅で、粗悪な茶葉から滲み出た濁った液体を啜っていたバルタザールは、書類から視線を上げずに鼻で笑った。
『現在の純負債残高、約95兆ギル。これまでのようにはした金を取り立てたり、小悪党の資産をちまちま差し押さえたところで、焼け石に水よ!
このペースじゃ、いくら帝国の最高傑作たる私が粉骨砕身したって、永遠に借金なんて返せないわ!』
「……不本意だが、ルクレティアの意見に同意する」
壁際で無数の帳簿にペンを走らせていた未完成クローンの青年、ギルが、ガラス玉のような双眸を瞬きもせずにこちらへ向けた。
「現在の純負債残高、94兆9,600億9,320万300ギル。
現在の収益モデルを継続した場合、この元本を完済するには、旧帝国の歴史の3倍以上の時間を要する。
その間の複利計算とインフレ率の変動を考慮すれば、我々は永遠に利息を払い続けるだけのシステムの一部に成り下がる。
経済的観点から見て、現在の状況は破綻状態の延命に過ぎない」
機械的な事実の羅列。しかし、バルタザールの顔に焦りは微塵も浮かばなかった。
彼は手元の万年筆を置き、冷たい眼差しを向ける。
「お前たちは、借金というものを『ただ減らしていくべき数字』だと錯覚しているな。
馬鹿正直に約95兆ギルを金貨で揃えて、債権者のテーブルに積み上げる必要がどこにある」
『はぁ!? 違うの!?』
「俺たちが相手にしているのは数字ではない。『契約』であり『債権』だ。
いいか、債権者がその権利を物理的・法的に行使できなくなるか、あるいは債権そのものの価値が紙屑に変われば、約95兆だろうが無限だろうが、借金は消滅する。
俺たちが狙うべきは小銭の積み上げではない。債権の構造そのものを焼き切る、大規模な精算の機会だ」
その時、隙間風の吹き込む薄汚れた窓の向こうから、何者かが丸まったザラ紙の束を室内に投げ込んできた。
湿った床に落ちたそれを、ギルが無機質な動作で拾い上げ、机の上に広げる。
外の通りからは、名もなき浮浪児の「号外だ、号外!」という甲高い叫び声と、泥水を跳ね上げる足音が遠ざかっていった。
インクの悪臭が鼻をつくその紙面には、連合国の公用語の仰々しい飾り文字で『旧帝都自治代表選挙の実施』と見出しが躍っていた。
『はぁ!? 選挙? この薄汚い廃墟で!?』
ルクレティアの念話に、明らかな侮蔑と困惑が混じった。
『連合国の連中が、敗戦国の難民に旧帝都の自治権なんて高級なものを与えるほど慈悲深いわけないでしょ! ただでさえここは無法地帯なんだから!』
「慈悲などという無価値な感情が入り込む余地はない。これは、連合国による合法的な『搾取権の奪い合い』だ」
バルタザールは新聞紙を指先で弾き、冷笑を深めた。
「表向きは民主的な自治への移行だろうが、実態は違う。
連合国の内部では今、旧帝国の遺産をどう切り売りするかで、保守的な『貴族派』と、新興の『役人・商会派』が激しい派閥争いを繰り広げている。
彼らは自分たちの息のかかった傀儡を旧帝都の代表に据えることで、復興予算という名の裏金や、かつての帝都全体に眠る違法な利権を独占したいのだ」
「……つまり、候補者たちは連合国の派閥の代理人に過ぎないということか」
「その通りだ、ギル。
そして、権力闘争には必ず莫大な活動資金が必要になる。
候補者たちは背後のスポンサーから予算を引き出し、俺たちがいるこのスラム街を含めた、旧帝都に群がる有権者たちから票を買うために、なりふり構わず金をばら撒くことになる」
バルタザールの眼光が、獲物を見つけた猛禽のように鋭く細められた。
「選挙戦とは、実体のない幻想のために巨大な金が乱れ飛ぶ、最高の市場だ。
権力に目の眩んだ連中は、勝つためならば本国の優良資産を担保にしてでも、喜んで借金をする。
さあ、忙しくなるぞ。この底なしの泥濘に注ぎ込まれる連合国の資金、その最後の一滴まで、俺たちが吸い上げてる」
湿気にまみれた号外新聞を見下ろしながら、バルタザールは冷ややかな笑みを浮かべた。
「俺はこれから、連合国が設置する選挙管理委員会に『監査人』として潜り込む」
その宣言に、ルクレティアの銃身に埋め込まれた魔力結晶が、明滅の速度を上げた。
『はぁ!? 監査人!? なんでわざわざ敵の懐に入るのよ!
そんなまどろっこしい真似しないで、候補者の金庫を直接撃ち抜いた方が早いわよ!』
「盤上の駒をいくら破壊したところで、ゲームの構造自体は変わらない。
終わらない選挙戦という名の『資金吸収システム』を構築するには、ルールの内側から破綻を引き起こす必要がある」
バルタザールは手元の万年筆を弄びながら、冷徹な視線を宙に向けた。
「俺が監査人として入り込める理由は十分にある。
第1に、俺が旧帝国の財務高官であり、複雑怪奇な行政実務に長けていることだ。
連合国の豚どもは甘い汁を吸うことしか頭になく、泥臭い選挙管理の実務は誰かに丸投げしたがっている」
「需要と供給の合致だな」
ギルが淡々と事実を述べる。
「第2に、旧帝都における俺の立ち位置だ。
連合国から見れば、俺は敗戦国の難民たちを束ねる顔役のように映る。
選挙という名の搾取に対し、連合国に悪感情を抱く地元住民たちを抑え込むための『防波堤』として、俺を利用できるという打算が働く」
「第3の理由は、我々が抱えている巨額の負債か」
ギルの推論に、バルタザールは深く頷いた。
「そうだ。連合国側は、俺が奴らに対して首の回らないほどの借金を抱えていると知っている。
ゆえに『生殺与奪の権はこちらにあり、手綱は完全に握れている』と錯覚する。
負債という名の鎖が、逆に最強の『信用』として機能するのだ」
『ええっと……つまり、わざと弱気な借金取りのフリをして懐に入って、内側から帳簿を滅茶苦茶にするってこと?』
ルクレティアは魔力結晶の光を揺らめかせ、いまいち要領を得ない様子だった。
『ルールだの遅延だの、遠回りすぎて私にはよく分からないわ。
……でも、あんたがその算盤で連合国の連中を絶望させるっていうなら、黙って見ててあげるわよ』
「見ているだけではない。
候補者たちに無限の資金を吐き出させるには、有権者である住民の欲望を煽り、1票の買収価格を極限まで吊り上げる必要がある。
そのための扇動と煽り立てる役が必要だ」
『扇動? そんな泥被るような役回り、適任なんているの?』
首を傾げるような思考波を放つルクレティアに対し、バルタザールは冷酷な目で、壁に立てかけられた長大な狙撃銃を真っ直ぐに見据えた。
「お前だ」
『はぁ!? わ、私!?』
銃身が驚愕と怒りに打ち震え、金属の軋む音が室内に響いた。
『冗談じゃないわよ! 私は帝国の最高傑作たる魔導狙撃銃なのよ!?
なんで私が、泥まみれの貧乏人どもに向かって演説なんてしなきゃならないのよ! 絶対に無理、そんなことできないわ!』
「できるさ。俺が完璧な『台本』を書いておく。お前はそれを一字一句違えずに記憶し、広場でわめき散らせばいい。
お前は普段から、念話の声が無駄に大きく、頭に響く。
うるさいだけの鉄屑だが、群衆を煽る『スピーカー』としては丁度いい性能だ」
『ス……スピーカー扱い!?』
ルクレティアの魔力結晶が、かつてないほど激しい真紅の光を放った。
『あんた、本当に最低最悪のケチ男ね! 帝国の最高傑作を、ただの拡声器代わりに使う気!?
覚えてなさいよ、この屈辱、きっちり利子をつけて返してやるんだから!』
「威勢が良くて結構だ。その怒りを、そのまま民衆への扇動に転化しろ。
さあ、忙しくなるぞ。ギル、まずはルクレティアの台本の作成と、初期流入資金の計算だ」
「了解した。直ちに作業フェーズに移行する」
かくして、旧帝都を飲み込む泥沼の経済戦争が、静かに幕を開けた。




