負債の自覚と始まりの帳簿②
冷たい泥濘の路地をさらに進むと、スラムの広場に出た。
そこでは、連合の軍服を着た柄の悪い商人が、荷馬車に積んだ粗末な配給用の小麦粉を法外な値段で売り捌いていた。
「頼む、これだけでいい。孫が3日も何も口にしていないんだ」
泥に膝をつき、商人にすがりついていたのは、かつて帝都の裏通りで皇室御用達のパン屋を営んでいた老女だった。
彼女が震える手で差し出したのは、旧帝国の紋章が刻印された紙幣の束。
だが、商人は鼻で笑い、その紙幣を泥水の中へ無造作に叩き落とした。
「字も読めねえのかババア! それは滅んだ国の紙切れだ。ケツを拭く紙にもなりゃしねえよ! 連合の正規ギルを持ってこい!」
商人の蹴りが老女の肩を打ち、彼女は泥の中へ転がった。周囲の難民たちは見て見ぬふりをして俯くだけだ。
国家という後ろ盾を失った瞬間、彼らが一生をかけて信じてきた「通貨」も「誇り」も、ただのゴミと化したのである。
(……国家とは、暴力の装置ではない)
バルタザールの脳裏に、あの日、皇太子ギルバートに教え込んだ言葉が蘇る。
(民と交わした『明日も生きられる』という信用の巨大な帳簿だ。殿下は、その帳簿の赤字を一身に背負って死んだ。だが……)
バルタザールは静かに歩み寄り、泥水に沈んだ旧帝国の紙幣を拾い上げた。
仕立ての良い黒いコートの袖を汚すことも厭わず、ハンカチで丁寧に泥を拭い取る。
「……何だお前は」
怪訝な顔をする商人に対し、バルタザールは冷ややかな、しかし絶対的な威圧感を伴う声で告げた。
「私(俺)は、ザイデル帝国の会計士だ」
バルタザールは、自身が身につけていた最高級の銀時計(かつての恩賞の品)を外し、商人の足元へ放り投げた。
「その小麦粉の袋を3つ、この老女に渡せ。釣りは要らん」
商人は忌々しげに舌を鳴らすと、銀時計の価値に目を眩ませ、小麦粉の袋を乱暴に投げ落として立ち去っていった。
「あんた……どうして、ただの紙切れのために、あんな高価な時計を……」
老女が信じられないものを見るような目で問いかける。
バルタザールは泥を拭い取った帝国紙幣を、自らの分厚い黒革の手帳の最初のページに、丁寧に挟み込んだ。
「……国が滅びても、負債(責任)は消えないからだ」
バルタザールの灰色の瞳に、暗く、狂気に満ちた静かな炎が宿った。
「私(俺)の教え子が背負い、返せなかったこの国の負債。……それらすべてを清算し、もう一度、この紙切れに価値を取り戻す。それが、彼を創り上げた教育係の……最後の職務だ」
バルタザールは、絶望の泥濘を見渡した。
彼の手帳の最初のページには、泥まみれの紙幣とともに、天文学的な数字が書き込まれていた。
『純負債残高:95,000,000,000,000ギル』
ここから、すべてが始まる。
冷徹な会計士が、亡き教え子の負債を背負い、連合から「帝国そのものを買い戻す」という、狂気と論理の債務整理が。
バルタザールは黒いコートを翻し、かつての旧帝立技術研究所――未完成の演算機が眠る地下凍結室へと向け、迷いのない足取りで歩き出した。
* * *
「……バルタザール。心拍数の微細な低下と、呼吸の乱れを検知。疲労の蓄積と推測する。現在の我が社に医療費を捻出する余裕はない。速やかなる休息を推奨する」
ガラス玉のような無機質な声に、バルタザールは意識を現在へと引き戻された。
壁際では、未完成のクローン兵器であり、今や彼が「備品」として運用するギルが、一切の感情を交えずにこちらを見つめていた。
『ちょっと! 手帳なんか見てないで、ゼノスから奪った金塊の一部を早く私に食べさせなさいよ! 散々石ころ撃たされたんだから、特別ボーナスくらい要求する権利はあるわよね!』
無造作に机に置かれたルクレティアが、頭痛を誘発するような甲高い念話を飛ばしてくる。
バルタザールは短く息を吐き、黒革の手帳を静かに閉じた。
かつての亡霊も、取り返しのつかない後悔も、今はすべてこの分厚い革表紙の奥底に封印する。彼は再び、冷酷な会計士の仮面を被り直した。
「休んでいる暇などないぞ、ギル。今日の稼ぎは悪くなかったが、まだ94兆ギル以上もの途方もない赤字が残っているからな」
バルタザールは吸い殻を灰皿に押し当て、不敵な笑みを浮かべて立ち上がった。
「さあ、次の不良債権を探すぞ。連合の無能な資本家どもの帳簿を、片っ端から丸裸にしてやる」




