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負債の自覚と始まりの帳簿①

 スラム街の一角、雨漏りのするカビ臭いボロアパート。

 ダミー会社『L.G.B.エンタープライズ』の拠点たるこの部屋で、バルタザールはひび割れたマグカップの泥水をすすりながら、ゼノス将軍の黄金の要塞から没収した莫大な資産の目録を、分厚い黒革の手帳に几帳面な文字で書き写していた。


「……金塊、美術品、遅延損害金。見事な特大の黒字だ。あの狂った小娘のせいで抱えた赤字を補填して余りある」


 バルタザールは安物の煙草に火をつけ、深く紫煙を吸い込んだ。

 ペンの動きを止め、手帳のページを捲り、そして一番最初のページで指を止める。


 そこに大切に挟まれているのは、1枚の古びた『旧帝国の紙幣』だ。

 泥水に浸かり、拭き取られた後も消えない赤黒い染みがこびりついている。


 その紙切れの隣には、狂気じみた天文学的な数字が記されていた。


『純負債残高:95,000,000,000,000ギル』


 煙草の煙が、カビ臭い空気に溶けていく。

 バルタザールの灰色の瞳は、現在から2ヶ月前――全てが始まり、順風満帆だったあの日へと静かに沈んでいった。


   * * *


 空は、燃え尽いた帳簿の灰をぶちまけたような鉛色に沈んでいた。


 ザイデル帝国がゴルディオン通商連合の圧倒的な物量の前に膝を屈し、崩壊してから1ヶ月。

 かつて世界の中心として栄華を誇った帝都は、今や見渡す限りの焦土と化し、絶望という名の泥が支配する巨大なスラムに成り果てていた。


 後に「L.G.B.エンタープライズ」を立ち上げ、95兆ギルの負債返済という狂気の道へ足を踏み入れる2ヶ月前のことである。


 バルタザールは、連合の軍靴によって踏み荒らされた泥濘の路地を当てもなく歩いていた。

 仕立ての良かった黒いコートはすでに戦火の煤に汚れ、彼が持つ「特別会計局の次長」という肩書きも、今や一片のパンと交換することすらできない無価値な文字列に過ぎない。


 その時、雨上がりの淀んだ空気を切り裂くように、獣のような咆哮が響いた。


「返せ……! 俺たちの国を、俺たちの命を返せ!!」


 路地の奥で、泥にまみれた旧帝国の軍服を着た男が、刃の欠けた軍刀を振り回して暴れていた。


 男の周囲には、連合の配給物資を狙うスラムの住人たちが遠巻きに怯え、すでに数人のチンピラが血を流して倒れている。

 男の瞳は飢えと絶望で濁りきり、もはや目の前にいるのが連合の兵士なのか、同じ帝国の難民なのかすら判別できていないようだった。


「お前らも、あの氷の皇太子と同じだ! 俺たちをただの『数字』としか見ていねえ! 捨て駒にして逃げやがって!!」


 男は焦点の定まらない目で虚空を睨み、亡き次期皇帝――ギルバート皇太子の名を呪詛のように吐き出しながら、止めに入ろうとした初老の男へ無差別に凶刃を振り下ろした。


 錆びた鋼が、初老の男の肩を裂く直前。

 視界の端から滑り込んだ黒いコートの影が、暴れる狂刃の軌道を根底から狂わせた。


 刃と交差したバルタザールの腕は、鋼を力で弾き返すのではなく、濁流を受け流す柳のように滑らかに男の死角へと入り込んだ。

 同時に、バルタザールの革靴が泥を滑り、男の重心を支える膝の裏を正確に刈り取る。


 重力に逆らう術を失った男の巨体が、泥水のはねる鈍い飛沫とともに、冷たい大地へと縫い付けられた。


 バルタザールは男の背中に膝を落とし、その手から軍刀を奪い取って遠くへ放り投げた。

 呼吸の乱れ一つない、帝国の近衛武術における完璧な制圧。しかし、バルタザールの胸の奥は、数千の針で刺されたような鈍い痛みに支配されていた。


「離せ! 殺してやる、あの血も涙もない皇太子を……ギルバートを呪い殺してやる!!」


 泥に顔を押し付けられながらも、男は血を吐くような叫びを上げ続けた。


「最前線で包囲された第四大隊への撤退許可を、あの男は『損耗率が許容範囲内だから』と冷酷に切り捨てた!

 俺の部下たちは全員、連合の砲火で肉片になったんだ! 痛みも悲しみも知らねえ、ただの計算機みたいなバケモノめ……!!」


 男の口からあふれ出す恨み節は、泥よりも黒く、底なしの絶望に満ちていた。

 バルタザールは、泥に塗れた元兵士の腕を拘束しながら、ただ黙ってその呪詛を全身で浴び続けることしかできなかった。


(……そうだ。殿下は、あの日第四大隊を見捨てた。部隊を一つ犠牲にすることで、背後の市民3万人を逃がすための『合理的なコスト計算』だった)


 バルタザールは、目を伏せた。

 脳裏に浮かぶのは、まだ幼かったギルバート皇太子の顔だ。優しく、傷ついた小鳥のために涙を流すような、心優しき少年。


 その少年の心から「私情」を削ぎ落とし、国家を運営するための冷徹な計算機へと造り変えたのは、他でもない教育係のバルタザール自身だった。


『殿下。国家とは巨大な帳簿です。為政者は、100人の命を救うために10人の命を平然と切り捨てる、冷酷な会計士でなければなりません。そこに涙の入る余地はありません』


 あの日、自分が少年の心に植え付けた「合理」という名の呪い。

 その呪いが皇太子を氷の支配者に変え、結果として最前線の兵士たちにどれほどの地獄を見せたのか。


 この男の絶望も、狂気も、行き場のない怒りも……その源流を辿れば、すべて自分の「行き過ぎた教育」という大赤字に行き着くのだ。


(……すまない)


 泥に顔を押し付けられ、嗚咽を漏らす元兵士を見下ろしながら、バルタザールは無表情の仮面の裏側で、血の滲むような独白を落とした。


(お前の恨みは、正当だ。優しかった殿下から私情を削ぎ落とし、あのような冷徹な為政者へと作り上げたのは、他でもない私なのだから)


 声には一切出さず、ただ静かに拘束を解くと、バルタザールは立ち上がった。


 懐を探り、残り少なくなっていた自身の「連合紙幣」をすべて取り出すと、泥に泣き伏す男の傍らに無言で落とす。

 それは同情でも施しでもない。教育係として犯した過ちに対する、あまりにも安っぽく無力な「利息の支払い」だった。

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