【潮目編】98:xx19年7月31日
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翌日。
草津温泉までは都内から車で約3時間。
二人は車内でも会話を楽しみながら、時に外の景色を楽しみながらゆっくりと向かう。
チェックインである15時に宿に入れるように
それに合わせて家を出たため余裕のある行程だ。
建物のならぶ都会の雰囲気から高速に入り徐々に緑が多くなっていく。
そんな中、休憩としてサービスエリアに寄ることにした。
少し休息をとる中、ベンチでアイスの抹茶を飲んでいた乃亜はふと顔を上げた。
「そういえば兄さんにこのこと、
伝え忘れていました……」
別段承諾をとる必要はないのだが、もしなにか用事があったとき、
学生マンションにいないとなると迷惑をかけそうだ。
今までそういったことがあったわけではないものの、
やはりたった二人だけの兄妹。
それに兄は少々心配性である。
尚、"少々"どころでない、というのが周囲の意見だが乃亜にその認識はない。
その独り言に近い呟きに、
隣でアイスレモネードを飲んでいた煉矢が声を上げた。
「ああ、それならもう伝えてある」
「……えっ」
「だから気にしなくていい」
唖然と見上げるも、彼は素知らぬ顔だ。
用意周到すぎないだろうか。
それと同時に兄に旅行がすでに知られているという事実に
些か恥ずかしさも感じる。
しかし今更だ。乃亜は肩でふっと息を吐いた。
「煉矢は用意周到すぎます」
「お前と過ごすんだ。避けられる面倒は予め潰すに限る」
「兄さんを面倒扱いしないでください……」
煉矢はくつくつ笑い、乃亜の肩を抱いて髪に頬を寄せる。
乃亜も少し呆れていたものの、その様子になんだかおかしくなり
くすりと笑って、その肩に頭を寄せた。
草津温泉。
それは日本有数の温泉地としてあまりにも有名だ。
あまりそういったことに興味を抱かない人でも、
おそらく草津と聞けば温泉をあげるくらいには、日本で多くの人に知られている場所。
乃亜も同様、そういった常識ともいえるレベルの話は知ってはいるものの、
実際に訪れたことは当然ない。
そもそも旅行自体、さほど経験がないくらいだった。
そもそも、あまり人の多い場所は、特に中学の頃は苦手でさえあった。
しかし高校に入って以後、格段に自分の行動範囲は広がった。
車を駐車させている隣の煉矢をちら見る。
彼と出会って、彼に恋して、自分の世界は広がったのは間違いない。
「着いたぞ」
「はい」
宿泊する宿の駐車場に停車させ、
二人は出迎えてくれているスタッフに軽く挨拶をする。
後部座席から二人分の荷物を詰めた大きめのキャリーケースを取り出し、
それをスタッフが押し運ぶ。
その後ろに続きながら、乃亜は訪れた宿の外観に息を飲んだ。
細い金のラインが幾何学模様を描くの黒い柱の門。
宿の周囲を取り囲むように竹が空へと伸びている。
賑やかな湯畑のある場所より、少し高い位置にあるこの場所は、
まるで境界線があるように、ぐっと静寂の漂わせていた。
黒い門を越えると、一層静寂を強めた気がする。
綺麗に整えられた平坦な道だが、ただ平坦なだけでなく、
濃い黒の丸い模様が、まるで雨粒のおちる水面のように、
点々と宿の玄関へと導いてる。
庭は白い石が敷き詰められ、薄青のあじさいが竹の麓に群生して咲き誇る。
宿の壁は深い黒。
漆のようなどこか柔らかな黒である。
それが高級感と共に、どこか親しみやすさを感じさせてくれた。
少し緊張する乃亜の手を、煉矢が指を絡めて握り、
そっと背中を押すように足をすすめていく。
玄関から中へ入ると、いらっしゃいませ、というスタッフの穏やかな声と共に、
深緑の作務衣をきたスタッフが頭を下げる。
玄関で靴を脱ぐらしく、その指示に従い靴を脱ぐと、
下足番らしいスタッフが、すばやくそれらをロッカー式の下足入れへとしまい、
木のプレートで出来た鍵を二人にそれぞれ手渡してきた。
スタッフが用意した柔らかな心地のスリッパに履き替え、
荷物を持ってくれていたスタッフに誘導されるまま、
エントランス奥のソファへ着席した。
「受付はこちらで行いますので、少々お待ちください」
そういって荷物をおいて下がっていった。
それと入れ違いに、別のスタッフが、ウェルカムドリンクを聞いてきた。
いくつかあるドリンクの中から、乃亜はひやし飴を選ぶ。
飲んだことがないので興味を抱いたからだ。
煉矢も同じものを頼んだ。
少ししてそれらが運ばれてきた。
一口飲むと、不思議な味わいだった。
ショウガの風味のあとに甘さが来る。
一口目は驚いたがそのクセに慣れると、甘さには丸みがあり、
移動の疲れが少し取れた気がする。
「冷やし飴ってこういう味なんですね……」
「意外と悪くないな。甘いが、さほど気にならない」
どうやら煉矢も気に入ったらしい。
乃亜は改めて周囲を失礼にならない程度に見渡す。
和風の旅館には違いないが、どこかモダンで品がある。
少し灰色のかかった白い色の床に、壁は外の門にもあったような深い黒と金の模様。
金はまるで生き物のように、曲線を細く描いている。
そして通されたソファ席の目の前。
一面のガラス張りの大きな窓。高い天井から床まで前面のガラスだ。
その向こうには穏やかな池と、薄青のアジサイ、竹。
さらには宿のスタッフが手入れをしているのだろう、
鉢植えの朝顔が、青、紫、薄青、赤紫、と様々な色で咲いていた。
「綺麗なお宿ですね」
「気に入ったか?」
「もちろん。なんだか、いつも素敵なところに連れてきていただいていて」
「お前を連れて行きたい場所を選んでいるだけだ。気にする必要はない」
「……はい」
本当になにも恥ずかしげなく言うのだから、こういった外では少しだけ困る。
乃亜は照れながら苦笑いを浮かべた。
ややあって冷やし飴を飲み終わるころ、
チェックインの手続きのためスタッフが声をかけてきた。
どうやらこちらが一息つくのを待ってくれていたらしい。
さすがの接客というべきか。
乃亜が感心している中、煉矢がチェックインの手続きを済ませ、部屋へと案内された。
話を聞けば、この宿は客室数が少なく、
その分部屋と部屋の間隔を広くしているため、
客同士のプライベート性をあげているのだそうだ。
なんだか話を聞けば聞くほど、
少々宿のお値段が気になってしまうところだが、
おそらく聞いたところで、そして言ったところで、
彼は素知らぬ回答しかしてくれない。
それを理解できるくらいには一緒にいる。
部屋への案内の途中、食事処の案内も受け、
酒や飲み物、部屋でつまむようなお菓子やつまみなどが購入できる売店も教えられた。
持ち込みは制限していないそうだ。
温泉街で購入して食べたりすることも多い場所であるからという。
やがて到着した部屋。
荷物を押してくれていたスタッフがドアを開けて、入室を促し中へとはいる。
まず玄関を入った目の前の扉、そこを開けると程よい広さの和室だった。
否、和室と言っていいのだろうか。
畳張りの床であるが、窓の外をながめられるように、
大きなL字型のソファがまず視界に入った。
窓の外には庭を眺められるような
ラタン調のガーデンチェアが二つ、バルコニーに並んでいる。
落ち着きのある雰囲気に息を飲んでいると、スタッフが荷物を部屋の脇、
フローリングになっている場所に静かに置く。
「室内のご説明をさせていただきます。
こちらのお部屋はリビングになっておりまして、
お外のバルコニーには自由に出ていただけます。
備え付けの冷蔵庫の中のお飲み物はフリードリンクですので、ご自由にお飲みください。
また、棚の中にございますコーヒーやお茶、カップにつきましてもご自由にどうぞ。
今回ご連泊でごさいますので、お飲みになられましたものにつきましては、
明日また補充させていただきます。
玄関の横の扉の向こうが寝室となっております。後程ご確認くださいませ。
こちらのクローゼットの中には浴衣がございますが、
女性のお客様につきましては、1階にございます浴衣コーナーより、
お好きな色物の浴衣をお選びいただくことも可能です。
どちらでもお好きなものをご利用ください。
また、こちらの草津温泉では、旅館の浴衣を着ての外出も推奨されております。
お着替えなさって、外を回られるのもよろしいかと思います。
お出かけの際には受付にてルームキーをお預かりいたします。
本日のご夕食は、お外でのお食事となっておりますが、お間違いございませんか?」
「ええ、それで予約しています」
「ありがとうございます。では明日ご朝食とご夕食、
また、明後日のご朝食については、先ほどご案内したお食事処でのご提供となります。
こちらに記載のございますお時間にお越しくださいませ」
「ありがとうごさいます」
「最後にお部屋に備えられているお風呂についてでございますが、
こちらの扉から、一度内風呂へとお入りください。
そこから露天風呂へ抜けられるようになってございます。
内風呂につきましては温泉ではございませんが、
露天風呂は源泉よりひいた天然温泉でごさいますので、ぜひお楽しみくださいませ」
それを聞いて乃亜は内心大変驚いていた。
部屋のすばらしさに圧倒されていたが、今露天風呂と言わなかったか。
失礼になるかもと表情を必死に取り繕い、
スタッフが挨拶して出ていくことを確認し、乃亜はようやく息を吐いた。
「あの、露天風呂……ですか?」
「ああ。部屋に備えつきのな。見に行くか?」
「は、はい……」
リビングにある引き戸を開けるとその向こうは洗面台と脱衣所になっていた。
そこも大変綺麗で溜息さえ漏れるのだが今はそれどころではない。
脱衣所の奥の戸を開けると確かに内風呂がある。
そこもヒノキで作られているのか入るだけで良い香りがした。
そして確かに、その内風呂の奥にもうひとつ扉があった。
乃亜はおそるおそるそこを開けると、
外気とともに石造りの露天風呂が確かにたたずんでいた。
一人か二人程度では広く感じるだろうその風呂の向こうには、
小さい灯篭と石畳、アジサイ、そして桜らしき小さな木が整えられて、
外から隠すための敷居は竹で隠されていた。
「……お部屋に露天風呂って、本当にすごいお宿ですね」
「一度こういった宿に泊まってみたくてな。
お前と過ごせるのならと選んでみたが」
「それは、はい。とても、嬉しいです。ただ少し圧倒されてしまって」
「ならいい。……そうだな」
「はい?」
「明日にでも、一緒に入るか」
「………えっ」
思わず見上げれば、いつものどこかこちらの反応を楽しむような笑みがあった。
からかわれている、違う、そう、違うと分かる。
それくらいには、もう、一緒にいる。
「れ、煉矢……!!」
「さて、少し休んだら、温泉街にでも足を延ばしてみよう。
さっきも言ったが、夕食は街でとる予定だからな」
聞こえているだろうに、彼はどこか楽し気にすでに背中を向けている。
乃亜はただ頬を赤くして、額を抱え、溜息を吐くことしかできなかった。
衝撃的な一言に頬を熱くさせつつ、乃亜は溜息によってとりあえず一度切り替える。
どうなるかはさておき、明日、ということらしいので
今日はひとまず頭からそれを締め出すことにする。
露天風呂に背を向けて内風呂を通りリビングに戻る。
彼は窓際で庭の景色を眺めていた。
乃亜はふと、寝室が別途あるらしい説明を思い出し、一度玄関の方へと戻った。
玄関横のドアを開けると、そこは照明の薄い部屋だった。
正面にある窓には和紙で菊の花らしき模様が描かれた障子が敷かれ、
室内への日の光を程よく遮っている。
セミダブル程度のベッドが二つ、隙間を作らず並べられていた。
床の間には撫子の花が生けられ、モダンな照明がそれを静かに照らしている。
上品な室内の雰囲気にただただ溜息が漏れた。
本当にこんなにいい宿に泊まらせてもらってよいのだろうかと、少しだけ不安がにじむ。
おそらく煉矢はそんなこと気にするなと笑うだろうけれど。
自分と煉矢は6つの歳の差があり、
彼はすでに大きな仕事をいくつもこなしている。
彼の家に出入りするようになり分かった。
以前一度泊まりに行く際に、迎えが難しいかも、と連絡があった。
急遽クライアントとの打ち合わせが入ってしまったと、ひどく申し訳なさそうに。
行くのを止めようかと提案したがそれは断られた。
退屈させるかもしれないが、もし乃亜さえよければ来てほしい。
乃亜はそれに頷いた。
自分に彼の仕事を手伝えるような技術も知識もない。
ただそれでも求められているのであれば近くにいたい。
電車とバスで彼の家に向かった。
自宅に到着し、彼は心底すまなそうにしていた。
そして初めて近くで彼の仕事の様子を見ていた。
淡々と英語で打ち合わせをしながら、相手のいささか興奮した様子の話を聞きながら、
それに受け答えをしつつ、時に考え質問しつつ、
そして打ち合わせ終わりには相手の声は落ち着きを取り戻し、
どこか安堵した色さえ見せていた。
その後もパソコンにてなにかを打ち込みながら、
時折ノートや資料を確認しながらと。
自分にできることは本当に些細なものだ。
それでも夕飯を用意するとうれしそうに笑ってくれた。
それを目にして、改めて彼のすごさを感じた。
大人としての、社会で生きている姿に、ただ、尊敬を抱いた。
そして、今。
本当に自分は、彼の隣にいても見劣りしないだろうかと、とどこか不安がもたげている。
「……だめですね、私は」
ぽつり、とつい、口から言葉として漏れた。
おそらくこれは自分の短所だ。
数年前に比べて、自分のことが理解できてきている。
しかし一方で、理解したからといったどうにかなるものではない。
乃亜は寝室の出入り口に左肩を預ける。
どうしたら、もっと彼にふさわしい女性になれるだろう。
「乃亜、どうした?」
「あ、いえ」
リビングから顔を出した煉矢が怪訝な顔でこちらを見ている。
乃亜は笑みを浮かべて彼の怪訝を払拭しようと努めるが、あまりそれは効果がないらしい。
少し申し訳ない気持ちになり、一度逃げることにした。
「寝室もとても綺麗なので、見とれていただけです。
それより、私、浴衣見てきてもいいですか?」
「……乃亜」
「先ほどスタッフの方が、色物の浴衣を選べるとおっしゃっていましたから」
彼がなにかを言うより先に、乃亜はキャリーケースに収めた自分の分の荷物を開ける。
その中からハンカチで包んだあるものを取り上げ、手荷物にそれを入れた。
「……わかった。行ってくるといい。俺も着替える」
「はい」
まだ釈然としていないようだが、とりあえずはこの場では収めてくれるらしい。
乃亜は手荷物だけ持って部屋を出た。
煉矢の年収は「外資系大手コンサル会社」あたりで調べた額で想定してます。
支出と収入のバランスが明らかにあわない。
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★毎週木曜11:30・日曜19:00頃更新予定★
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★アルファポリスでも連載中★
https://www.alphapolis.co.jp/novel/598640359/12970664




