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【潮目編】97:xx19年7月23日/7月30日

【7月23日】


7月も半ばを過ぎ、乃亜は大学の講義を終えて学生マンションへと帰宅していた。

夕方に入ってもまだ空は明るい。

そんな中、ベッドに腰かけ、ある場所へ電話をかけていた。


 『はい、みずの音楽教室です』

 「水野先生、ご無沙汰しています。乃亜です」

 『あら!乃亜さん?まぁまぁ、久し振りね!』


変わらない様子の明るくも穏やかな声色に、乃亜は頬が緩む。

水野は乃亜が、中学から高校まで通っていたヴァイオリン教室の先生である。


 『大学はどう?楽しく音楽に触れられているかしら』

 「はい、とても。毎日学ぶことばかりですが、楽しく過ごしています」

 『それは分かったわ。あなたが楽しいのが一番よ』


本当に変わりないようでほっとする。

音楽を楽しむということを失くさないでいられたのは、水野のおかげだと思っている。

乃亜にとって、どれだけ時間が経っても生涯の恩師に変わりない。


 「ありがとうございます。その、少し相談があるんですが、今お話し大丈夫ですか?」

 『ええ、大丈夫よ。どうしたの?』

 「実は8月から9月の半ばにかけて、一度実家に帰るんです。

  なので、もし先生の教室に空きがあれば、スポット利用させていただきたくて」

 『ああ、成程』


間もなく大学は夏季休暇に入る。

その中で、乃亜は多忙を極める静のサポートをするべく、実家へ帰ることにしていた。

それについては静は承諾していたが、少し悩んだのはヴァイオリンだった。


今日、無事に前期の実技試験としてのヴァイオリンはクリアできた。

演奏したのは超絶技巧とされる1曲、【パガニーニ:24のカプリース 24番】だ。

かなり苦戦はしたが、葉山教授からも合格点を貰うことができた。

しかし夏季休暇中もヴァイオリンは引き続き練習する必要はある。

課題として出されている曲があるわけではないが、

葉山からは自分でこれと思う曲を練習するようにと言われている。


しかし自由に防音設備の使える今とは違い、

実家である静のマンションに戻ると自宅ではヴァイオリンは弾けない。

代わりの場所が必要になるが、以前水野から、

教室の時間貸しもしている、と聞いたことを思い出したのだ。


静にも相談し、快諾された。

むしろ安心したようなことを言われた。

妹のことを第一に考えてくれているのは変わらないらしい。


そして今である。


 「実家には8月から帰る予定なんです。

  なので、空いている時間を教えていただきたくて……」

 『そうね、夏休み時期は大型休みだから、結構空きがあったりするのよ。

  少し待ってね』


水野はそういって電話を保留にする。

1,2分ほど経過した頃、再び水野が話し出した。


 『8月なら、最短だと8月2日、もしくは8月9日ね。時間は14:00から。

  場所貸しのスポット利用の場合は、基本的に予約は1週間前なの。

  まとめての予約は受け付けていないから、来た時に翌週の予約をすればいいと思うわ。

  都合付けられたらいいのだけど、ごめんなさいね』

 「いえ、大丈夫です、ありがとうございます」

 『ああでも、仮予約しときましょうか。どうしても都合がわるくなったら、

  3日前くらいまでにキャンセルの連絡いれてちょうだい』

 「え、でも、いいんですか?」

 『ええ。可愛い自慢の生徒さんが来てくれるんだもの。それに大学の話も聞きたいわ』


教室を離れた今でも、そういってくれることに笑みが深まる。

やはり水野は乃亜にとって、最高の恩師だ。


 「ありがとうございます。

  じゃあ、8月9日を仮予約させてください」

 『分かったわ。時間は15:00だからね。……ふふ』

 「先生?」

 『大学でいい変化があったみたいね。

  昔のあなたなら、遠慮して、もう一問答あってもおかしくなかったもの』

 「あっ、すみません、その、図々しかったですか……?」

 『うふふ、いいえ、とんでもない。むしろ嬉しいわ。

  じゃあ、9日に会えるのを楽しみにしてるわね』

 「はい。私も楽しみです」


そうして通話を終えた。

確かに、以前の自分なら、そんなことをしてもらわなくても、と引いていたように思う。

それがいい変化なのかは乃亜には分からない。

しかし水野は笑って、声色からしても嬉しそうにしていた。

それが良いことなのだと信じたかった。


乃亜は仮予約してもらったヴァイオリン教室のスケジュールを、

静と共有している家族スケジュールアプリに登録する。

このアプリに登録するのも久しぶりのことだった。

これに登録しておくことで、静にも乃亜のスケジュールを伝えることができる。

懐かしさと、なにか嬉しさを感じ笑う。


続けて、個人で使っているスケジュールにも登録を済ませる。

そのカレンダーを確認していく中、夏季休暇最初の予定が目に入った。

7月29日から8月4日まで長いバーで塗られたその日程。


少し緊張を感じるその予定にはタイトルは入っていない。

どう書いていいか分からなかったからだ。


 「……荷造りしておかなきゃ」


少し頬を染めてつぶやいた。





【7月30日】


ことの発端は、ゴールデンウィークの一幕だった。


   " とりあえず、一週間くらいはもらおうか "


そう告げられたのは、初めて煉矢の家に泊まった日だった。

乃亜はその意図を、夏休みが近づくにつれて考える時間が増えた。

やがて7月に入ったころに、煉矢からCORDで次のようなメッセージを受け取った。


 『7/29~8/4で外泊申請をしておいてくれ。

  ひとまず、俺の家に泊まることを想定した準備だけしてくれていればいい。

  少し荷物も多くなるだろうから、学生マンションまで迎えに行く』


約1週間の外泊に目を見開いた。

無論、そういった外泊、また彼の家に泊まるということは考えていた。

しかし、1日か2日程度だと思っていたが、まさかの1週間だ。


わずかな緊張と期待を抱きながら言われたとおりに申請を済ませた。

1週間分の宿泊となるとなかなかに荷物は多い。

少し大きめのキャリーケースを取り出し、少しずつ支度を進めて当日の昼頃。

果たして彼は迎えに訪れた。


キャリーケースを煉矢へ預け、そのままいつものように途中スーパーに寄って買い物。

彼の家に行くのは最初の時から、もう数回ほどは経験している。

夕飯を一緒に、ときにどちらかが作り、居心地の良い彼の部屋で、映画を見たり、

のんびりと話をしたりして過ごしてきた。

時に緊急で仕事が入ったときは、邪魔にならないように過ごしたりといったこともあった。


一緒に夕飯をこしらえて食べ、ゆっくりと就寝した。

彼の腕の中で眠ることも、もう、多少は慣れた、と思う。


そして、翌朝。

煉矢より早く目を覚ました乃亜は、

心地よいベッドの中で、安らかに寝息を立てる煉矢の顔に目を細める。

普段の彼よりも幾分もあどけない様子を見れることは、今の自分の特権だ。

起こさないように、彼の腕の中から抜け出し、身支度を整え、朝食の支度に進む。

静かに寝室から出て、ドアを音に気を付けながら閉めた。


わずかなりとも朝を共にして分かったことだが、意外と彼は朝に弱い。

目覚まし時計などがあればさっと目を覚ますようだが、

そういったきっかけがないと、なかなか目を覚まさない。

今まで知らなかった彼の一面に気付いたときは、

なんだか嬉しくなったことを覚えている。


朝食は洋食。

昨日の夕飯時、卵をはやく使ってしまいたい、と言っていた。

早々に使うのであればオムレツが簡単だ。

手早く卵液の準備を済ませてしまう。

更に、昨日の夕飯で使った多めに刻んだ玉ねぎを冷凍しておいた。

それを炒め、水を入れて煮込み、簡易的なオニオンスープを仕上げる。

レタスとトマト、それにベーコンを先に焼き、コーヒーの支度も済ませて、

食パンをトースターにセットしたところで煉矢を起こしに行くことにした。


もっと寝ていても悪いわけではないのだが、

以前、もし朝食を作るなら必ず起こしてくれと言われたからだ。

寝室に入り、まだ静かな寝息を立てている彼の元に歩む。

起こすのは少し忍びないが、そ、と肩に触れた。


 「煉矢、起きてください。朝食、できましたよ」


静かに声をかけるとややあって彼の瞳がひらく。

薄く開いた向こうに見えた赤い瞳に微笑みかけると、ふ、と目元が柔らかくなる。


 「……ああ、おはよう、乃亜」

 「はい、おはようございます」


頬に手が伸びる。

穏やかな朝の挨拶に、乃亜はその手に自分の手を重ねて答えた。


乃亜は再びキッチンへ戻り、彼が朝の身支度を整えている間にオムレツを用意する。

器用にフライパンの上で卵液を揺らし、

レタスやトマト、ベーコンが並ぶ皿の上に、

半月状に整えたオムレツをぽてりと転がした。

もうひとつも同じように作り、オニオンスープと共にカウンターに並べる。


 「いい匂いだな」

 「今日はオムレツにしました。卵使い切りたいと言っていたので」

 「ああ、助かる。明日から家を空けるしな」

 「え?」

 「これ、運んでしまっていいか?」

 「あ、はい、お願いします……」


なにやら聞き捨てならないことを言っていたが、

乃亜はひとまず朝食の支度を終わらせることにした。

バスケットにトーストを乗せ、バターやコーヒー、

カトラリーを同じく運んでテーブルに並べた。


二人で向かい合わせに座っての朝食の時間。

いただきます、と一言互いに告げて、乃亜はスープを口にする。

玉ねぎの甘みがうまく引き出せたようだ。

続けてオムレツにフォークを入れると、中からトロリと半熟卵がこぼれる。

バターの風味も相まってシンプルながらに美味しくできた。


 「相変わらず料理が美味い。俺だとこうはいかないな」

 「煉矢も料理は十分上手だと思いますが……」

 「できないというわけじゃないが、レパートリーもそこまでじゃないしな。

  お前が来ているときは朝も夜も豪華だ」

 「大仰ですよ……。でも、やっぱり兄さんには敵う気がしません」


決して下手とは思わないが、

それでも一緒に暮らしていた時に食べていた兄の料理とは違う。

どうしても同じような味や風味にならない。


 「ましろによく、お前の兄さんの家事スキルが高くて

  私の立つ瀬がない、と言われます」

 「ふふ、ましろも大変だ」


くつくつと笑う煉矢に乃亜もくすりと笑う。

話をしながら食事をすすめ、それぞれの皿が空になった。

コーヒーをすすっている中で、乃亜は先ほどの言葉を確認していないことに気付いた。


 「煉矢、さっき、明日から家を空ける、と言っていましたが……」

 「ああ。明日から2泊な」

 「それは……」


どういう意味だ、とどうにも真意を測りかねていると、

煉矢は頬杖を突き、少し悪戯めいた表情で笑う。


 「乃亜、明日から2泊3日で旅行に行こう」

 「え……」

 「行き先は近場の温泉街だ。なにか異論はあるか?」

 「……っ!」


こちらの反応を楽しんでいるらしい煉矢の笑みが深くなる。

乃亜はただ、言われたことをもう一度脳内で反芻した。


2泊3日の旅行。それも煉矢と二人で。


今まで二人で旅行ということは、あったようでなかった。

ある意味ではアメリカの一件も似たようなものではあるが、

あれはあくまでイベントのためであり、煉矢にとっては旅行ではない。


また、数年前の夏に行った高原での旅行は、二人ではなく四人だった。

煉矢の家に泊まりに来ることはあっても、どこかへ二人きりで旅行ということはなかった。


 「い、行きたいです……!」

 「よし、なら、今日はその準備に当てよう。

  もしなにか足りないものがあれば、買い足せばいい」

 「はい……!」


まさかこんな驚きがあるなんて思わず、乃亜はぎゅっと胸元で両手を握り、

湧き上がる思いを抑えきれず、満面の笑みで頷いた。




準備とは言っても、乃亜はもともと煉矢の家に泊まりにきているため、

ある程度の外泊の支度は整えてきていた。

そのため今から買い足すようなものはほぼない。


とはいえ、折角二人で過ごしているのだからと、

二人は近場の商業施設へと足を運ぶことにした。

煉矢の車に乗り込み、車で15分ほどだという道中、

乃亜は助手席から煉矢に声をかけた。


 「近場の温泉街とのことでしたが、どこに行くんですか?」

 「草津だ。そう遠くはないし、いい宿があった」

 「確か……湯畑がある場所でしたか?」

 「そうだな。

  今の時期でも、山の中だからか、都心よりもそこまで暑くもないらしい。

  夜に歩くのもいいそうだぞ」


その名前は乃亜も知っている。

兄が多忙ということもあり、今まであまりそういった行楽地へ行ったことはない。

あったのは中学や高校の修学旅行くらいだ。

だがそれらはあくまで、観光とはいえ学校の行事。

ただ純粋に観光だけを楽しむという旅行はあまり経験がなかった。


 「いつから計画していたんです?」

 「旅行自体を考えたのはゴールデンウィークにお前の予定を聞いてからだな。

  場所を決めたのは先月だ」

 「……全然そんな素振りなかったですけど」

 「驚かせたかったからな」

 「もう……」


運転をしつつ笑う彼は、時折こういったことをする。

どうも反応を楽しまれている気がするが、その様子をみてあまり文句も言えないのだから

きっと自分にはどうしようもない、と乃亜は苦笑いを浮かべるしかなかった。


商業施設に到着した二人は、互いの服をみたりと時間を過ごした。

乃亜は少し迷ったが、リネンのワンピースを購入することにした。

煉矢もまたバンドカラーのシャツを購入していた。

オフホワイトの色味を感じさせるそれは、少し風合いが似ていて、なんだかこそばゆかった。

また、草津は都心より涼しく、夜は気温が下がるらしいと聞いて、

カーディガンも購入した。

ブルーグレーのオーバーサイズのカーディガンだ。

もし着なかったとしても秋から十分に活躍してくれそうである。


そうして買い物をした二人はフードコートで休憩を取ることにした。


 「前期試験はどうだった?」

 「なんとか……、といったところですが、とりあえず無事に終わりました」


安堵と疲労、思わず肩で息を吐きながら、それらがにじみ出た言葉を漏らした。

注文したボンゴレパスタにごろごろと乗っている浅利の身をフォークと指先を使い外す。


先週一週間は前期試験一色だったと言っていい。

座学の講義はもちろんのこと、実技試験もそうだ。

実技に関してはヴァイオリンだけでなく、ソルフェージュやピアノ、

アンサンブルにオーケストラとさまざまにあった。

後者の2つについてはまだいいが、前者の3つについてはかなり緊張した。


副科であるピアノとソルフェージュについては

本来年間を通して授業をとり、後期の試験の結果を経て単位の取得となる。

しかし、以前から言われていたように、特例として、

乃亜は前期の試験をもって完了となった。

ありがたいことに合格をもらえ、後期からは完全に空き枠となった。

また各座学講義も恙なく完了し、単位落としはなった。


しかしなにより緊張したのはやはりヴァイオリンの試験だ。

幸い合格としてもらえだが、自分の中では及第点もいいところ。

そしてそういった思いを、葉山は完全に把握しておられる。

いったいどういった難曲が後期に言い渡されるのか恐ろしい。


煉矢はその様子に小さく笑いながら、とんかつ定食についているソースの器を取り上げた。

トロリとカツに流しかけていく。


 「後期から一部の実技は免除なんだろう?空いた枠はまた別の講義を入れるのか?」

 「いえ、まだ考えているところです。

  ただその、出来たら空きのままにして、ヴァイオリンの練習に当てようかと……」

 「またえげつない曲でも課題に出されたのか」

 「まだ課題は出てないです、が……そんな予感しかしません」


前期は本当に苦労したのだ。

後期も同様のレベル、あるいはそれより少し上の課題を出されてもおかしくない。

正直少し怖さすらある。


 「でも、葉山先生のご指導はとても勉強になるので、決して嫌ではないんですよ」

 「ああ、それはわかってる。

  お前も楽しそうだし、定期演奏会の演奏も、とてもよかった。

  ……なにか、懐かしいというか、いつかのお前を思い出したよ」

 「それは……」

 「あまりお前にとっては思い出したくない話かもしれないが、

  数年前の、お前がスランプだった時のな」


それに、乃亜は少し驚きフォークが皿の端にカツンと小さな音を立てる。

ふ、と小さく笑みがこぼれた。


 「そうですね……、確かに、そうかもしれません」


あのとき、自分もまたそのころのことを思い出していた。

決していい思い出ではないけれど、それでもあの日々は

自分にとって大きな糧だったのは確かだ。

兄にも煉矢にもましろにも大変に心配をかけてしまったけれど。

それでもあの日々がなかったら、今の自分は決していなかっただろう。


今の自分の望む理想も形を持つことはなかったような気がする。


 「乃亜?」

 「いえ、なんでもないです」


この人に少しでも、受けた愛を返していける、

そんなヴァイオリストにいつかなれるように。

乃亜は少し頬を赤らめながら、微笑んだ。


2026年GW中毎日更新致します。


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★毎週木曜11:30・日曜19:00頃更新予定★

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★アルファポリスでも連載中★

https://www.alphapolis.co.jp/novel/598640359/12970664

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