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【青嵐編】89:xx19年5月5日

時刻は17:00頃。


煉矢からは事前に17:00から17:30の間くらいに迎えに行くと連絡を貰っていた。

そのため、演奏会の前には一応外泊の支度を済ませていた。

一泊分の着替えや美容品などを少し大きめのトートバックにまとめて入れ、

乃亜は落ち着かない時間を過ごさざるを得なくなっている。


 「……泊まるだけ、なのに」


つい独り言ちてしまう。

自分の中にある妙な気持ちがどうにも落ち着かせてくれない。

不安のような期待のような、なんともいえない歯がゆさとでもいうのだろうか。

煉矢と付き合い初めて一年が経過し、

二人で出掛けたことなどもう幾度もある。

しかし宿泊を伴うものは初めてである。


自分と煉矢は紛れもなく恋人であり、

彼から感じる愛情や、自分が彼へ抱く愛情は、薄まるどころが深まるばかりだ。

そんな自分たちだ。

宿泊の意味するところなど、と考えて、乃亜はふるふると首を振った。

頬に熱がこもり、思わず両頬を抑え込んだ。


 「もう、何考えてるの……」


いくら自分ひとりしかいないとはいえあまりにも恥ずかしい。

深く息を吐き出す。その吐息は熱い。


その時スマートフォンが震えだした。

CORDの通知、煉矢からだった。


 『もうすぐ着く。出てきてくれ』


どきりと心臓が跳ねる。

もう一度息を吐き出して、了解の意の返事をし、乃亜は立ち上がった。


 「……会うまでに、この赤い顔、どうにかなってるといいな……」


祈るような気持ちでつぶやき、乃亜は荷物をもって自室を後にした。




マンション近くで待機していてくれた煉矢と合流し、

乃亜はいつものように助手席に乗り込む。

なにも言われなかったことで顔のほてりは

少しは落ち着いているようだったことにほっとした。


隣で運転する煉矢をちらと見る。

いつもと同じ、その横顔に緊張よりも安堵感が広がる。

乃亜は自然と口元に笑みが浮かぶ。


 「海外出張、お疲れさまでした」

 「ああ、ありがとう」

 「お仕事はいかがでしたか?」

 「恙なく。これでようやく、一区切りだ」


彼としても肩の荷が下りたのだろう。

なにか安心したような声色に、乃亜も笑みが浮かぶ。

大変な仕事をこなしている彼に対して、自分ができることなどささやかだ。

乃亜は考えていたことを口にした。


 「あの、普段、夕飯って何時ごろ召し上がってますか?」

 「日によるな。特に決まっていないが、今日はどうする。

  どこかに寄っても構わないし、家で作ってもいいが」

 「良ければ、作ります。大したものではないですが……」


少し照れ臭いが、出来ることとして思いついたのはこれくらいだ。

煉矢は少し驚いたようで、ちらと一瞬視線だけこちらを見た。


 「ありがたいが、いいのか?お前も今日は忙しかったろ」

 「いえ、短い曲ばかりでしたし、さほど。

  あなたさえよければ」

 「……なら、頼む。お前の料理を食べるのは久しぶりだ」

 「あまり期待はしないでください……」


確かにふるまうことなど久しくなかったことだ。

最後にあったのは、高校の時、コンクール前に、

煉矢が家に顔を出していてくれた時だろうか。


 「それじゃ、途中にあるスーパーに寄ったほうがいいな」

 「あ、はい。お願いします。

  リクエストなどあれば、善処しますが……」

 「そうだな……、出来たら和食がいい」

 「はい、分かりました」


短いながらも渡米していたからかもしれない。

乃亜は笑ってそれを承諾した。


話していた通り、途中にあったスーパーに寄り、食材などを調達した。

1フロアのみで、肉や魚、野菜といった生鮮食品はもちろん、

基本的な食材を中心にひとしきりそろえた一般的なスーパーだ。

二人は並んで買い物かごに相談しながら品を入れていく。

煉矢も自炊はする。

家には基本的な調味料や、多少の野菜などの蓄えはあった。

その内容を聞き、乃亜は慣れた様子で食材を選び購入にすすめていく。

野菜や魚の目利きについては静に教わったのか、

いくつかの食材を見比べながらひとつずつ籠に入れていく乃亜の姿を

煉矢はつい目を細めて見つめる。

乃亜もまた、なにか心地よさを感じていた。

観光地などに二人で出掛けるデートもとても楽しいし幸せだが、

こうして日常生活の一部を二人で過ごせることの幸福は今まで感じたことはない。

二人は自然と笑い合って買い物を進めていった。


その後、飲み物なども購入して、二人は再度、煉矢の自宅へと向かう。

乃亜は煉矢の家へ訪問するのは初めてだ。

煉矢は今年に入り一度引越しをしている。

元々就職したら引っ越しを予定していると話していたが、ついにそれが実行された形だ。

出社だけでなく、自宅でのリモートワークも増えてきていたらしく、

仕事のしやすい環境を求めてのことだという。


坂を車はすすんでいく、

駅前の繁華街を通り過ぎ、平地の住宅街を抜け、少し高い位置にあるらしい。

少々徒歩では移動のしずらい場所だ。

以前車がないと不便だと話していたが、確かに上り下りはつらい。

一応バスは通っているようなので来れないわけではないようだが、

それでも車があった方が圧倒的に利便性が高いのは間違いない。


やがて車は丘の上に立つ比較的新しいマンションに到着した。

マンション内の地下駐車場に入り、契約した場所へと車が止められる。


 「着いたぞ」

 「はい」


再び妙な緊張が内側で騒ぎだしている。

乃亜はそれをごまかしながら、もってきたトートバックと手持ち用の鞄を持ち、

買い物袋を持った煉矢に続く。

駐車場内にあるエレベータに乗り込むと、煉矢は全12階の8階のボタンを押した。


到着したフロアを案内されるままに進む。

綺麗に掃除された廊下を行き、やがて彼の部屋に到着した。

黒いドアが開かれ、中へ促される。


黒いタイル張りの玄関から始まる廊下は、ダークウォルナットでまっすぐに伸び、

その左右には白い壁、途中チャコールグレーのマットな質感の扉が三つあった。

シックな雰囲気は彼の雰囲気にとても合う。

中に進み洗面台やトイレ、寝室などの案内をされながら

リビングダイニングに進むとその広さに驚いた。

兄と暮らしていたマンションのリビングダイニングより広い。


右手側に黒を基調としたキッチン、棚や綺麗に掃除されている水回り、三口コンロが並ぶ。

煉矢はそこに買ったものを置く中、乃亜に荷物を適当に置くように告げる。

少し迷いながら、乃亜は自分の荷物をリビングのソファ脇に置いた。

ダイニングには四人掛けのダークブラウンのダイニングテーブルとイス。

リビングにはグレーとホワイトのラグ、

黒のアイアンの足にガラスのローテーブル、黒のソファ。

その正面には壁掛けのテレビがあった。


リビングの一部にはパソコンデスクが置かれており、

その横にはたくさんの本や書類がしまわれた本棚。

英語での仕事も多い彼らしく、書籍の日本語と英語が入り混じっているように見える。


何より目を引くのは最奥の壁一面の窓。

濃灰に赤いラインの入ったカーテンはたたまれ、

白いレースカーテンのみが引かれて、その向こうには街の夜景が広がっている。


全体を通してモノトーンに統一され、

落ち着く色合いのその部屋は、あまりに彼らしかった。


 「面白みのない部屋だろう」

 「いえ、そんなことは」

 「さして趣味というものもないしな。

  ……だがお前のおかげで、クラシックはだいぶ聞くようになったが」


どこか嬉しそうに笑う彼に少し緊張もほぐれ口元に笑みが浮かんだ。




早速と言うように、乃亜は買ってきた食材をもとに料理を始める。

煉矢は乃亜に調理器具や調味料の場所などを案内し、

冷蔵庫内の食材も必要であれば、自由に使ってくれと伝える。

彼女は頷いて、ポケットに入れていたらしい黒い髪ゴムで髪を首の後ろで結んだ。

随分と伸びた髪は、料理するのには不都合なのだろう。


乃亜が料理は問題ないことは知っているし、

そもそもアメリカで共同生活をしていたときに彼女の手際は見ているのだ。


乃亜が料理を進める様子を煉矢はリビングで見つめる。

思えばアメリカで共に並んで料理をしていたとき、

こんな風に彼女を心から愛しく、深く求めるようになるなど想像できなかった。

親友の妹であり、過酷な幼少期を過ごした子を、大切に預かり守ろうと……、

と、そこまで思ったが、だがやはり違う、と自分の考えを否定した。

おそらく途中まではそうだった。

だがあの生活の途中から、変わっていたのだ。

最初、彼女のヴァイオリンを間近できき、

その圧倒的な魅力と、演奏している姿を見て、きっと。


懐かしい記憶に浸っていると、乃亜がカウンターの向こうから視線をこちらに向けた。


 「あの、煉矢……?」

 「なんだ?」

 「その……そんなずっと見つめられると、さすがに、ちょっと……」


恥ずかしいらしく、乃亜は視線をさ迷わせている。

煉矢はそれにくすりと笑った。


 「悪い、ついな。アメリカでのことを思い出していただけだ」

 「……あのころは、こんな日がくるなんて、夢にも思いませんでした」

 「ああ……」


まさにそのことを考えていたのだ。

通じ合っているようでなにかくすぐったくも嬉しい。


 「いつか、また一緒に行こう。

  今度は、ちゃんと親父にも紹介させてくれ」

 「……そ、れは……、……はい」


驚いたような様子を見せながらも、ややあって頬を染め、少し伏目がちにうなずく。

それに煉矢は満足して目を細めた。




やがて料理が出来上がった。

深いえんじ色のランチョンマットの上に食事が並ぶ。

メインは鰆の煮つけ、新玉ねぎと豆苗のサラダ、

だし巻き卵、冬瓜と豚肉の味噌汁、と季節に倣った料理だった。

家庭的で優しいいずれの料理も大変に食欲をそそるものだ。

いただきます、という食事の合図と共に煉矢は味噌汁をすする。

豚肉の甘みと味噌の風味がよくからみあい、

さらに下茹でされた冬瓜はそれらの味がしみこんでほろりと崩れる。


 「美味い」

 「……よかったです」


一口目の感想に乃亜も安堵を見せた。

乃亜にとって料理は身近だ。

兄と二人で暮らしていた中でほぼ毎日のように触れていたのだから。

けれどやはり、誰かに食べてもらう、否、大切な人に食べてもらうというのは緊張を覚えた。


家庭的でどこか安心する味わいの食事を二人は進めていく。

甘い出汁がしみ込んだ煮つけは白米が進む。

新玉ねぎと豆苗のサラダは、その少し濃い味をリセットしてくれる。

また、途中口にするだし巻き卵は、口の中でじゅわりと出汁が染み出してきた。


 「そういえば、今日はどうだったんだ」


やはり煉矢としては気になるのはその話だ。

乃亜は内心ぎくりとしたが、それを全力で顔に出るのを抑え込んだ。


 「演奏自体は、楽しかったですよ。みんな、喜んでくれました」


演奏会自体は成功したのは間違いない。

皆その反応の大きさはともかく、喜んでくれていたのは間違いないのだから。

尤も、演奏会のあとのアレコレについてはなにも言えない。

乃亜はそのアレコレをさらに深いところに押し鎮めるべく、味噌汁を啜った。


 「管理人の方に、小さいお子さんがいらっしゃるんです。

  以前、薬師先生のところで演奏した曲を取り入れてみたんですが、

  楽しそうに歌ってくれて……正解でした」

 「お前の場合、コンクールでの演奏もいいが、

  身近に観客がいるような場のほうが向いているのかもしれないな」

 「そうですね。個人的には、そのほうが好きです」


勿論、いずれも緊張はするのだが、

それでも乃亜にとって、やはり聞いてくれるひとたちが

近くにいてくれた方が心地よい。

今日も皆が笑って楽しんでくれているのをみて、心から楽しかったのだ。


 「コンクールといえば、しばらく予定していなかったな」

 「はい。大学の先生からも、

  その気がないのなら、今は土台作りに注力してもいいだろうと」


これはヴァイオリンを見てくれている葉山より言われたことだ。

自分が出たいと思わないのであれば無理をする必要はなく、

むしろその時間を使ってしっかりと土台となる基礎を固めた方が良いと言われた。

乃亜としても無理に出たいとは思っていないため、

葉山の言葉に否はない。


 「とすると……少し先の話になるが、夏は余裕があるか?」

 「余裕はあるといえばありますが、夏休みは、兄さんのところに戻ろうかと思ってます」

 「……ああ、あいつ、その時期は佳境だものな。

  自身が打ち立てた理論に基づいた初期病変検出プロトコルの確立、だったか?」

 「私には難しすぎて……でも、それです。

  確立のためのデータ解析や実験などで、今まで以上に多忙を極めるようなので

  さすがに少し心配で……」

 「まぁ、確かに。静が自分の体調管理をおろそかにするとは思えんが、

  それでも人間だからな。限界を越えないとも限らない」

 「はい……。

  ああ、でも、約束させられました。

  必ず私に予定が出来たらそちらを優先しなさい、と」

 「相変わらずだな、お前たちは」


呆れたような、けれど優しい笑みで笑う。

煉矢以上に、自分たちのことを察してくれる人はおそらくいない。

ましろも十分すぎるほど理解してくれているが、

それでも自分たち兄妹の一番の理解者は誰かと聞かれれば、

自分も、そして兄も、おそらく煉矢の名前を上げるだろうと思う。


 「まぁ、兎も角、夏休み時期については分かった。

  なら……そうだな」

 「煉矢?」

 「とりあえず、一週間くらいはもらおうか」

 「え……」

 「そのつもりでこちらも仕事の調整を進める」

 「あの、もう少し具体的に教えてください……」


一番の理解者であるけれど、彼は二人でいる時、こういった意地の悪さを見せる。

戸惑う乃亜をよそに、煉矢はくつくつと笑った。




食事を終え、片づけもしようとする乃亜をさえぎり、それは煉矢が引き継いだ。

美味い食事を作ってくれた彼女を労いつつ、

ざっと汚れを水で落として食洗器へ食器やカトラリーを放り込む。

食洗器で洗えないものや調理器具などは手動で洗い片づけを済ませていく。


乃亜も少し緊張がほぐれたらしく、ソファの向こう、窓から夜景を眺めている。

普段自分ひとりでさして感慨もない部屋だが、

彼女がいるだけでどこか部屋が明るさを帯びている気がするのだから

自分もなかなかに重傷だ。尤も今更な話である。

あの"最悪"と自己評価している告白にて、

自分は嫌というほど浅ましく情けない独占欲を抱いていると深く自覚してしまったのだ。

愛しい彼女が自分のテリトリーにいると言うだけで、いくらも心は満たされているのである。


片づけを終え、コーヒーメーカーを操作し、手早く二人分のコーヒーを用意する。

彼女はミルクだけ、自分はブラック。

乃亜は甘味の濃いものは好まず、控えめの方が好みだと聞いた。


 「乃亜」


振り返る乃亜にコーヒーを淹れたことを示すと、礼を言ってソファに腰かけた。

ローテーブルに二つ分のカップ。

静かな室内だがひどくその沈黙は心地よかった。

乃亜はコーヒーを手に一口すすってほっと息を吐いた。


 「先ほど今日の演奏の件を聞いたが」

 「はい」

 「まだすべて話しきれてないんじゃないのか?」


乃亜の手の中にあるコーヒーの水面が揺れた。

やはり食事中、なんとなく感じ取っていた違和感は当たっていた。

乃亜は正直、嘘をつくのはうまくない。

なにか言いつくろったり誤魔化したりと言ったことに対して、

少なくとも付き合い初めてからは見抜けなかったことはない。


煉矢は隣に座る乃亜の顔を覗き見た。


 「乃亜?」

 「……‥え、演奏会については、嘘は言ってませんよ?」


それはもはや自白だと分かっているのだろうか。

煉矢は訝し気に目を細め追及を続けた。


 「演奏会以外ではなにかあったな?」

 「………え、と、その……なんと、言えばいいのか、その……。

  私もまだ、理解が及んでないというか……」

 「は?」

 「えー……と……」


言いにくい、というよりも、本当にどう話したものか悩んでいるような素振りに

煉矢は首をかしげるほかない。

乃亜はややあってたどたどしくも説明を始めた。

要約するならば、静やましろと同じ剣道道場出身者で、

現在は乃亜が講義を取っている非常勤講師の進藤創という男のことだ。

その男は乃亜のヴァイオリンを大層気に入ったらしい。


それだけならば別段気にするほどのことではないが、煉矢はなにか嫌なものを感じる。

視線をそらして話す乃亜の様子が気にかかった。


 「なにもされてないだろうな?」

 「ええ、別段とくに……」

 「なにも、されて、ないんだな?」

 「……て、手を握られて、間近で見つめられただけです……」

 「………」


機嫌が急降下したのが自分でもわかった。

それを感じ取ったのだろう、乃亜が焦ったように言う。


 「あ、あの、でも、進藤先生、私個人には興味がないと……」

 「は?」

 「その、ましろ曰く、私個人ではなく、私の演奏に興味があるだけだろうと……」

 「……いや、お前の演奏に興味があるというのは分かるが、

  お前個人には興味がない?演奏しているお前には興味がないと?

  ……まったく理解が追い付かないんだが?」

 「ええ、私もです……」


煉矢は振り上げたこぶしを下ろす相手が見つからない気分だ。

乃亜に触れたというだけだいぶ腹が立っているのだが、

それは乃亜に対する感情起因ではないという。

理解が追い付かず煉矢は頭を抱える。


乃亜は髪の一筋に至るまで自分のものだと強く考えてる。

しかしそんな彼女の中で唯一、自分だけのものにできないのがヴァイオリンだ。

乃亜のヴァイオリンは多くの人々へと向けられているものであり、

それを否定するつもりは煉矢にはない。


そんな、唯一、煉矢が独占できない領域だけを、

それ以外は目を向けず、純粋に求め愛するような男だとでもいうのか。


なんとも複雑この上ない。

湧き上がる嫉妬は誰にぶつければいいのか何にぶつければいいのかもわからない。

そもそも嫉妬するのも何か違うような気さえする。

煉矢はぐりぐりと眉間をもみほぐして誤魔化そうとするが

どうにもおさまりがつかない。


 「煉矢、あの、大丈夫ですよ?

  進藤先生が言葉の通りなら、普段はなるべく避けていればいいですし……」

 「そうは言うがお前講義取ってるんだろう」

 「それはそうですが、終わったらすぐに退出するようにしますから。

  たぶん、なにか接触があるとすれば、定期演奏会くらいで……」

 「ああ……前に言っていた夏と冬にあるやつか……。

  ……それに、見に行くと言っていたのか?」

 「え、ええ、はい、まぁ……」

 「………なんと言われた?」

 「……楽しみに、してる、と……」

 「それだけか?ほんとうに?あとでましろに聞くがいいな?」

 「……………」

 「乃・亜」


コーヒーを手に持って必死に視線をさ迷わせる乃亜からコーヒーを奪う。

あっ、と声を上げた彼女の顔に近づき真正面から見ると、いよいよ観念したのか、

頬を染めてごく小さな声でつぶやいた。


 「………い、愛しのアリア、と」

 「は……?」

 「だっ、だから、先生はその、私個人はどうでもよくて、

  あくまで私の音楽がご自身のそれに合うからだという意味で、

  な、なので個人名も避けるそうで、その……っ、アリアと……」

 「なん、だ、それは……」


いよいよ理解の範疇を越える。

煉矢はぐったりと肩を落とす。嫉妬やら混乱やらで正直頭が痛い。

落ち着いたらまずましろにこと細かい状況を確認し、

友人らしい静にクレームを入れることにする。

深く深くため息を吐き出し、煉矢はそのまま身体を横に倒した。


 「れ、煉矢……っ?」

 「少し休ませてくれ」


もはや半ば自棄だ。乃亜の膝に頭を乗せてあおむけになった。

視線の向こうに戸惑う乃亜の顔がある。

本来ならもっとリラックスして彼女の膝を堪能したいところだが、

正直今は腹立たしさやら混乱やらが勝っている。


 「まったく、俺も院に進むべきだったかとこういう時思う」

 「なにを言ってるんですか……もう……」

 「本音だ。今の仕事は満足しているが、こういう時、静が羨ましい」


手を伸ばして彼女の頬に触れる。

少し熱い頬はやわく心地よく、少しだけ心のトゲが抜けたような気がした。

乃亜は困ったようにわらい、そ、とこちらの髪を撫でてくれた。


 「煉矢、大丈夫ですよ。

  私は……あなたのところしか、行き場所はありません」


やわらかく微笑むその表情に、波打った心が驚くほどおだやかに凪いで行く。

撫でられる指先の感覚、微笑み、言葉。

やはり乃亜は、自分の心の灯台だ。煉矢は乃亜に微笑み返し、

その心地よさの目を閉じた。




少し休む、という言葉の通り、煉矢は乃亜の膝に頭を預けながら目を閉じている。

乃亜はそんな彼のさらりとした黒髪を撫でていた。


正直最初は驚いた。

普段冷静であまりはっきりと感情を表に出さないでいる彼が、

いきなり、なんの脈略もなく膝に頭を乗せてきたのだから。

所謂膝枕だ。膝の上で苛立ちや愚痴をなにひとつ隠さず漏らしている。

その姿がたまらなく愛おしいと感じた。


あの告白のことは忘れられない。

普段理知的な彼はきっといい顔はしないだろうが、

乃亜はただ甘い言葉だけの告白より、今思えばよかったと思っている。

彼の赤裸々な思い、偽らざる独占欲。

確かに衝撃ではあったが、きっと最初にそれを打ち明けてくれなかったら、

今こうして甘えや弱さを見せてくれなかったのではないだろうか。

今まで伏せていたものを見せてくれた。

そう思うと愛しさばかりが募る。


 「……煉矢?」


そっと声をかけるも返事はない。

目が伏せられ、眉に力がなく、わずかに身体が上下している。

どうやら眠ったらしい。

少しどうしようかと思うが、今しばらくはこのままでいいと思いなおした。

無防備に、自分の膝の上で、穏やかにいてくれている。


彼は彼自身が独占欲が強いと考えているだろう。

乃亜にはその深さはわからない。

だが、こうして、自分にだけ無防備な様子を見せてくれるということ、

それに満たされる心地よさ。

これもそれに近い感情ではなかろうか。


 「……大好きです、煉矢」


そう髪を撫でながら微笑む眼差しには、深い慈愛が満ちていた。




しばし時間が経過した。静かな部屋に軽快なメロディが流れる。

それに乃亜は顔を上げ、また、その音楽のせいか、

膝の上で目を閉じていた彼もまた瞼を揺らして目を覚ました。

煉矢は体を起こして少し目元を拭う仕草をした。


 「……悪い、寝ていたな」

 「いいえ。お疲れだったんですよ」

 「風呂が沸いた……ということは、もう10時か。

  すまないな、せっかく、来てくれているのに、暇を持て余させた」

 「大丈夫です。暇、ということはありませんでしたから」


偽りざる思いである。

静かに流れる時を、ただぼんやりと過ごすことに苦を覚える質ではないし、

愛しいひとの安らぎであれる時間は幸福だ。

また、普段外では見れない、彼の無防備な寝顔を堪能できたのだから。

果たして乃亜のその思いに気付いているかは定かではないが、

彼は少しばつが悪そうに苦く笑う。


 「風呂が沸いたようだから、先に入ってくれ」

 「あ、いえ……でも」

 「俺は後でいい」


家主より先にいただいていいのかという遠慮も芽生えるが、

有無を言わせないらしく、乃亜はやがて頷いた。


立ち上がったとき、すこし腿がしびれていてふらつきを感じたが、

それは気づかれなかったと信じたい。

バスルームの場所に案内され、タオルなどを借りた。

持ってきた着替えなどの一式を入れたビニールバックを手に脱衣所に入り、

一人になったところで、乃亜は息を吐き出した。


なにか緊張しているからだ。

身体の内側、奥の方で、期待とも不安とも言えない感情が渦巻きだしたからだ。

家に訪れた時以上のざわつきが身体を落ち着かせてくれない。


とはいえここでいつまでも立ち尽くしているわけにもいかない。

兄と暮らしていたマンションとも違う、

多少慣れた学生マンションとも違う、

ただ彼の匂いだけがあるその場所で衣類を脱ぐ。

ただそれだけのことなのに、鼓動は静かに、けれど確かに強くなっていく。


なにを馬鹿な、と呆れつつ自分を叱咤しながら、

乃亜は逃げるようにバスルームに入り込んだ。




乃亜をバスルームに送り届け、煉矢はいくらか後悔を抱いていた。

彼女の膝の上で眠ってしまうとは。

もちろん膝を借りたことに自体は良い。自分でしたことだ。

いまさらその程度はとくに気にしていない。

だがそのまま寝入るとは思わなかった。

彼女の細い指先が髪を撫で、頭を通じて感じるぬくもりが心地よく、

気付けば意識が落ちていた。

口にしたように折角来てくれているのだから、

もっと大切に時間を使いたいというのに、いささか無駄にしたような気がしている。


さらに言うと、情けなさもあった。

あの最悪の告白以後、彼女の前では取り繕えない。

普段の自分らしくないとさえいえる。

本当は自分こそ、彼女を守り支えたいと考えているのに、

気付けば支えられているような気がするのだから。


溜息を呑み込んで、寝室へ足を向けルームウェアに着替える。

少し気分を切り替えるために、キッチンの冷蔵庫からミネラルウォータを取り出し、

グラスに注いで飲み干した。

多少すっきりとした気がする。

そのときバスルームのドアが開く音がした。

乃亜が風呂から上がったらしい。


 「すみません、お先に頂きました……」


少し恥ずかしそうな声色で廊下から顔を出した乃亜は、

当然ながら持ってきていたルームウェアに着替えている。

薄手のパールグレーのルームウェアは10分丈のズボンとキャミソール、

その上にオーバーサイズの薄手のカーディガンを羽織るスリーピースだった。

手足こそきっちり隠れているものの、

オーバーサイズのカーディガンは肩や脇などを隠しきれていない。

おそらく完全にそういった意図はないであろうから逆に困る。

まだ濡れている髪といい、分かっていたことであるが、想定以上の攻撃力に違いない。


 「……あの、煉矢……?」

 「……いや、なんでもない。俺も入るから、くつろいでいてくれ。

  冷蔵庫の飲み物は好きに飲んでいい。

  もし眠ければ、寝室に行っていてもいいからな」

 「あ、はい……」


乃亜の顔を流し見程度に見て、自分もバスルームへと向かう。

その道中、静からのCORDメッセージを思い出した。

『20歳までは手を出すな』

受け取ったときは吹き出しつつも不満さえ抱いたが、今となっては良いけん制だったと思った。


残された乃亜は、その場に立ち尽くし、ややあって頬を抑え込んだ。

どちらかというと、普段の煉矢の装いはぴっしりとしているものが多い。

あまり肌の露出は好まないのか、

夏場もせいぜい七分程度のシャツで、襟が付いたものを着ている方が印象としては強い。

Tシャツなどのルーズな恰好はあまり着ていた記憶がない。


そんな彼の、オーバーサイズのルームウェア。

全身黒で、色こそ彼らしいが、その印象に最初見た時声を上げかけた。

風呂上りの熱ではないそれが頬に集約される。

加えて、寝室に行っていていい、という言葉。


今更ながら、本当に今更ながら、彼の家に泊まるということを強く意識した。

果たして自分の心臓は朝まで耐えられるのだろうかという一抹の不安を抱いた。




しばらくして煉矢も風呂から上がった。

乃亜はリビングのソファでスマートフォンを眺めていた。

なにか面白いものでも見ているのか口元には笑みが浮かんでいる。


 「なにかあったか?」


ソファの後ろから声をかければ、乃亜は顔を上げて少し笑う。


 「以前もらった写真を見ていただけですよ」


髪を拭きながら乃亜の隣に腰かけ、

彼女が差し出したスマートフォンの画面を横から見る。


そこにあるのは、もう懐かしいアメリカでの出来事の写真だ。

あれからもう、三年は経過している。

写真は準備中の様子だ。

乃亜がヴァイオリンを弾き、その横でギターやドラムを

どこかふざけた様子で笑いながら友人たちが奏でている。

準備期間中は、本来演奏しないというのにふざけてセッションしたりしていたのだ。


 「楽しそうだなと思ってみていた記憶がある」

 「そうですね、楽しかったと思います。今思うと」

 「今同じイベントがあれば、また全く変わったものになりそうだな」

 「ふふ、そうですね。

  いつか、あの時の皆さんとまた、やってみたいです。

  それに、今度はリンディさんともセッションしたいです」

 「ああ……いいな、それは。リンディもそれは両手を上げて喜びそうだ」

 「あとエマさんたちに歌ってもらって、ああ、ニックさんにも入ってもらいたいです」

 「……ニックはいい」

 「え、どうしてですか?」


決して嫌っているわけではないのだが、

どうしても煉矢はニックに警戒心を抱かないわけにはいかない。

先の創など目ではないほどに、彼は明確に乃亜へ恋愛感情をあらわにしている。

そして諦めているとは感じられなかった。


 「今度こそお前をアメリカへ攫って行きそうだ……」

 「さすがに考えすぎですよ」

 「ああ、考えすぎだ。だが、お前のことになると俺はどうしてもそうなる」

 「……煉矢」


乃亜は少し困ったような様子を見せているが、煉矢としては本音である。


 「お前にはなにも取り繕えなくなったからな」

 「それは……私は、嬉しいですが……」

 「嬉しい?」


何故そう思うのかよく理解できずに聞き返す。

乃亜はスマートフォンを所在なく手の中で揺らしながら目を泳がせる。

煉矢が答えを待っていることを察したのか、

ちらと、少し上目遣いで見て、口を開いた。


 「だって、……自然体で、いてくれる……と、いう、ことでしょう……?」


だから、嬉しい。

自然体、とは随分やわらかい表現をしてくれたものだというのが感想だ。

煉矢自身としては、浅ましく醜く利己的で、

情けない姿とさえ感じるそれを、自然体という。

正直これが自分の本性だとは考えたくないのだが、

それを見せている彼女は、それを受けいれてくれている。


煉矢は乃亜の頬に手を添えてこちらに顔を向けさせる。

乃亜がそれに少し頬を染めながらも、瞳を閉じたことを確認し、そのまま唇を奪う。

頭の芯が痺れる。

愛しさが溢れる。

普段とは違う完全に誰もいない、

閉ざされた自分たちだけの空間に押され、擦れる唇の隙間に舌を押し入れた。

乃亜の身体がぴくりとゆれる。

逃がさないというように肩を抱き、後頭部を抑える。

深くなる口付けは止まることを知らず、より深く、奥へと入り、

彼女の小さなそれを絡め取り撫でる。

その度に重なる唇の隙間から熱い吐息が漏れ、

薄く開いた乃亜の瞳が揺れている。


細い乃亜の腰を抱え、ゆっくりとソファに押し倒す。

唇を舐めて身体を浮かせ、乃亜を見れば、真っ赤な顔で瞳は潤んでこちらを見ていた。


 「……なら、俺にも、俺だけが知るお前を見せてくれ」


その言葉に、乃亜は息を飲み、やがて、小さく頷く。

それを見届けもう一度乃亜の唇を奪った。















尚これは後日談である。

久方ぶりに静と二人で酒を飲んだ。

当然、数日前、乃亜が泊まりに来たときの話もあがる。


 「手は出してないだろうな」

 「最後まではな」


煉矢の回答に静は酒を噴いた。


最後まではしてはいけない=最後までしなければいい


暴論。

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★毎週木曜11:30・日曜19:00頃更新予定★

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★アルファポリスでも連載中★

https://www.alphapolis.co.jp/novel/598640359/12970664

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