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【青嵐編】86:xx19年4月26日

音楽学科棟内、講師準備室。


そう書かれたプレート横の引き戸の扉が開かれる。

深い緑の少し癖のある髪を首の後ろで束ね、

涼やかな目元を覆うように黒縁の眼鏡をかける男は

自身にあてがわれている事務机へとまっすぐに向かった。

室内に入った男に対して、すでに入室していた他の講師が挨拶をした。


 「おはようございます」

 「おはようございます」


当たり障りなく挨拶をしながら荷物を机の上に置く。

鞄の中から本や私物のノートパソコンなどを取り出している中、何名かの講師が

隣室に備えられている会議室から現れた。


 「しかし、返す返すも驚きですな」

 「まったくです。出来たらピアノ専科へ移ってほしいのですけど、やっぱり無理ですかねぇ……」

 「本人の意志もありますし、なにより葉山教授が手放しませんよ」


わいわいと話しながらそれぞれの事務机に座るのは、

緑髪の男と同様に、非常勤講師として大学に招かれている者たちである。

どこか興奮した様子で話している彼らの一人が、別の講師に話しかけられた。


 「結局どうされるんです?さすがに他の学生たちと同じ

  カリキュラムというわけにはいかんのでしょ?」

 「ええ、それはもう。彼女のスキルはもう、

  少なくとも一年生の基礎的な内容は軽々クリアですよ。

  なので、葉山教授とも相談しましたが、

  少なくともピアノとソルフェージュについては特例発動です」

 「出た特例」


別の席に座っていた若い講師がおどけたように言った。

この大学は学生の才能や能力に応じて、さまざまな「特例」を多用する。

次の授業のために資料をめくる手が止まる。

緑髪の男は、その言葉に自分にとっての馴染み深い男の顔を思い出した。

親しみもあれば友情も感じているが、今は純粋なそれだけではないわだかまりがある。

浮かんだ顔を打ち消して再び授業の準備に取り掛かる。


 「そういえば、物理学科の方に、同じ苗字の方いません?」


しかし再び手が止まり、今度は顔さえ上がった。


 「あ、それ、僕も聞いたことありますよ。

  今博士課程の彼ですよね。珍しい苗字だし、兄妹かなんかじゃないですか?」

 「久方ぶりに早期卒業の特例者が出たって話題になってましたよ。

  違うベクトルとはいえ、兄妹揃って天才ってあるんですねぇ」


視線を落とす。

あの化け物のような天才がそんなほいほいいてたまるかと思ったが

血筋というのは馬鹿に出来ないらしい。

講師たちが話題に出している学生についてはあまり興味ない。

予鈴が鳴る。

そろそろ講義の場所へ向かう時間である。

準備室内の講師たちの動きがてきぱきとしたものになり、

それぞれの担当授業の支度を進め始めた。

必要な資料、講義内で利用するタブレットやパソコンを一つに重ね、

椅子を引いて立ち上がった。


 「そういえば進藤先生の講義も取られていませんでしたか?」

 「さて、まだ学生の顔と名前は一致しないもので」


隣席のフルート専科の男性が思い出したように声をかけてきたが

それに当たり障りのない笑みで応え、進藤創は準備室を後にした。


たとえ斉王静の妹であっても興味はない。

燃え盛るほどの情熱は不完全燃焼に終わり、

明るく照らしてくれていた太陽は消え、

以来、自分の世界は今日もモノクロのままだ。




音楽学科の選択講義の中の一つ。

中世音楽論。

中世音楽とは現代のクラシックよりもさらに古い年代にあった音楽であり、

おおよそ5世紀頃から15世紀中頃までの、ヨーロッパにおける音楽の総称のことを言うらしい。

その頃の音楽は教会と密接に繋がりがあり、宗教的な意味合いも強かったという。

乃亜にとっては初めて触れるものだったが、

元々ミッション系の高校に在籍していたこともあり、

ある意味では馴染み深いものでもあった。


そういった理由もあり取得してみたが、なかなかに興味深く面白い。

乃亜は今日も前から数えて真ん中くらいの位置に席をとり、

講師の話を聞きながらノートに気付いたことや要点をまとめていく。


講師の進藤という男はまだかなり若い。

深い緑の、少し癖のある髪を首の後ろで結んでおり、

灰色の瞳で学生たちを時折見ながら淡々と講義を進めていく。

年齢はほぼ、兄である静と変わらないように思えた。


 「諸君らは中世音楽は、時に退屈だと感じられるかもしれない。

  しかし、その根底には、信仰という絶対的な価値があり、

  人々の素朴な願いや、時には深い苦悩が込められている。

  そして、その試行錯誤の積み重ねが、後のルネサンス、バロックへと続く、

  豊かな西洋音楽の礎となったのも事実である。

  音楽を志す君たちには、ぜひともクラシックの深層に触れる意味でも

  中世音楽というものに触れていただきたいところだ」


講義のまとめを離しながら学生らを眺めるように視線を向けている。

普段はスクリーンや手元の資料を眺めることが多い彼には珍しい。

ふと目が合ったような気がしたが、彼はそのまま視線をずらしていった。


そこで講義室にチャイムが響いた。


 「ではここまで。また次回」


そう切り上げたところで教卓に広げた資料などを片付け始めた。

学生らも退出の準備をはじめ、乃亜も同様にルーズリーフをまとめて片づけ始めた。

その中で残りのルーズリーフの枚数が少し心もとないことに気付いた。

購買部にでもよって購入することにする。


時刻は16:10。

乃亜の今日の講義はこれで終いである。

立ち上がり、教室を出ようとしたところで、ふと視線を感じて教室の前に目を向けた。

講師である進藤がこちらに視線を向けている。

なにかあるのか、と思ったが彼はとくになにも言ってこない。

乃亜は軽く会釈をして、そのまま教室を出た。


教室の外、さらに音楽棟を出る。

外はまだいくらも明るく、通り抜ける外気が心地よかった。

先ほど少なさを感じたルーズリーフの購入のため購買部へと向かうことにした。


大学に入学してからはやくも一か月近く経過している。

慣れと共にすこし疲れを感じる時期でもあった。

そんな学生たちだが、幸いなことに明日から連休に入る。

今年は日の並びが良く、通常の3日~5日程度のGWがその倍ちかい長さになっていた。

大学の友人たちは旅行にいったり、あるいは実家に帰ったりとするようだが

乃亜は特にそういった予定は立てていない。


恋人である煉矢は海外出張前で忙しく、

兄である静は、今博士論文の制作真っただ中だ。

ましろもまた、この休みを使い剣道の稽古や勉強に注力するらしい。

そんな中、乃亜はどうかというと。


 「乃亜」


名前を呼ばれ、はっとして振り向く。

そこにいた人物に、自分でもわかるほど、表情が明るくなった。


 「兄さん!」


白衣を着て軽く手を上げる静は、駆け寄る乃亜を穏やかな笑みで迎え入れた。

約一か月ぶりに会う兄は特に変わりない様子だった。

だが自宅で見ていた姿と違い、白衣姿は新鮮さを感じる。


 「一か月ぶりだな、乃亜。元気そうでなによりだ」

 「兄さんも、変わりないようで安心しました」

 「お前に心配されるか」

 「だって、今年は輪をかけて忙しいって言ってたじゃないですか。

  心配はします」


静の研究は詳しく知らない。

けれど大変な研究に加え、それを証明するための技術開発まで手掛けているという。

兄が生活能力も含め、なんでも素知らぬ顔でこなせるのは知っているが

それでも今年は博士論文が迫っている。心配しないわけがない。


静は小さく笑い、乃亜の頭をぽんと撫でた。


 「兄さんは購買ですか?」

 「いや、ずっと研究室にこもっていたからな。

  休憩してこいと追い出された」

 「えぇ……」


言った傍からではないか。

そう顔に書いていたのだろう、静はくっと笑い、白衣のポケットに両手を入れた。


 「そういうわけで、カフェに少しコーヒーを飲みにな。

  乃亜も時間があるならどうだ」

 「いいんですか?」

 「ああ。たまたまにしてもこうして会えた。

  兄妹で過ごすのもいいだろう?」

 「はい、嬉しいです」


乃亜は満面に微笑み同意する。

一人暮らしを初めた直後に比べれば寂しさはいくらも薄まったが、

それでも兄とこうして過ごせるのは心底嬉しいのだ。


静と乃亜は二人、大学敷地内の一番奥にあるカフェへと向かった。

購買を越え、さらに奥にある美術棟の奥に、そのカフェはあった。

この大学にはいくつかカフェがあるが、

他にもレストランや学食も存在しており、

一番奥のカフェにまでやってくる学生はさほど多くはない。


乃亜も同様だったが、静いわく、あまり人が来ないこともあり

軽食程度ならここで一番過ごしやすいらしい。


カフェ自体の品ぞろえは他の場所とあまり変わりはなかった。

今の時間はカフェタイムらしく、コーヒーや紅茶、ジュースに加え、

ケーキや焼き菓子などが提供されていた。

乃亜はアイスコーヒーを頼み、静はホットコーヒーと焼き菓子を頼んでいた。

奥の一席に二人正面に向き合って座る。


 「甘いもの、珍しいですね」

 「ずっと頭を使っていると、さすがに少し糖分が欲しくなるんだ」

 「それは分かります……」


乃亜も午後は二限続けての座学だ。

静ほどでないにしても少し甘いものは欲しかった。

普段ミルクのみのコーヒーだが、今日はガムシロップを入れているのはそのためだ。

焼き菓子であるフィナンシェをフォークで割りながら静が口をひらいた。


 「大学生活や一人暮らしはどうだ?」

 「一人暮らしはなんとか。

  でも、いいフロアメイトに恵まれました。

  ましろもいますが、他の皆さんもいい人ばかりです。

  おかげで、にぎやかに楽しく過ごせていますよ」

 「……そうか。それは何よりだ」


本当に安心したのだろう。

静は笑みを深くしてフォークに差したフィナンシェを口にした。

乃亜も微笑み、少し甘いアイスコーヒーを口にする。

一人暮らしを初めて間もない頃にも、もちろんCORDでそれは伝えていた。

しかしこうして面と向かい、表情を見て聞くことで、

今度こそ安心したのだろう。


 「隼人もいるようだし、まぁ、さほど強く心配していたわけではなかったが」

 「ふふ、隼人はフロアのムードメーカーですね。

  ましろとのやりとりも、見ていて気持ちいいですし」

 「そういえば、今度のマンションの中庭での演奏会も、二人が発端だったな」

 「ああ……はい」


乃亜は苦笑いを浮かべつつそれを肯定した。

明日からの連休、乃亜の予定としてはそれの練習である。

いくらマンション内での内輪の演奏会とはいえ、

曖昧な演奏をするのはさすがに憚られるのだ。

もとより、他に予定もない。


 「俺も楽しみにしているが、ひとつ懸念があるとすれば、

  お前が防音室にこもらないかだけだな」

 「大丈夫ですよ……ちゃんと休憩とりつつにしますから……。

  ……研究室、休憩取るように追い出された兄さんには言われたくないです」

 「言うじゃないか」


兄は頬杖をついて目を細め笑う。

少しばかりの意趣返しであるが、兄はくつくつと笑うばかりでなにも気にした様子はない。

しかし、それを受けたままにしてもくれなかった。


 「演奏会はともかく、最近愉快な噂を聞くんだがな」

 「はい?」

 「音楽学科に天才が入学してきたと」

 「う……」

 「初回の授業で1年生のカリキュラムを吹き飛ばすくらいの技術を披露して、

  講師陣の目を飛び出させたとかなんとか」

 「……」


大げさな、と言いたいところであるが、

残念ながらそうは言い返せない。

乃亜はニヤニヤ笑う静から視線を横へとずらした。


 「俺も人のことは言えんが、お前もなかなかにやらかしたな」

 「人聞きの悪い言い方はしないでください……」


悪いことをしているわけではないはずなのにいたたまれない。

誤魔化すようにアイスコーヒーを飲んだ。

静もまたくつくつと笑いながらホットコーヒーを啜る。


 「俺とお前が兄妹というのは別段言うでもなかったが、

  外見や苗字で繋がりに気付いた研究室の学生がな、わざわざ伝えに来たぞ」


余計なことを、と失礼ながら内心思ってしまった。


 「まぁ、こうもなるだろうな。

  水野先生もお前の才能には目をひん剥いていたし」

 「そうでしたか……?」

 「ああ。初めて行った時にな。

  後にも先にもあんな興奮している水野先生は見た覚えがないだろう?」

 「……確かに、言われてみれば」


普段温厚で、穏やかな恩師の様子を思い返す。

水野の音楽教室は、昨年のからの予定通り、大学進学と共に辞めている。

それは互いに合意の上であり、発展的な退会だ。

水野は乃亜が暁天大学の音楽学科に入学が決まったと聞いて

手放しで喜んでくれていた。


 「で、ヴァイオリンの方はどうなんだ?

  確か授業でマンツーマンのレッスンがあったろう?」

 「あ、はい。

  ……その、2回目のレッスンから、先生が変わりました」

 「ああ、初回でやらかしたからか」

 「だからその言い方やめてください……。

  ……大変ありがたいことに、葉山悠仁先生という、

  音楽学科でも大変権威のある先生がついてくださっています」


言わずもがな、ヴァイオリンは乃亜の専科である。

しかも、全国規模のコンクールで2位という実績をもっての入学だ。

そのため最初乃亜を担当してくれた講師もまた、決して実績のない講師ではなかった。

しかし、ピアノで驚愕を与え、ソルフェージュで衝撃を与えた乃亜に対し、

初回のレッスンで本来1名の講師であるにも関わらず、

もう一名、60代を越えるような白いひげと髪が特徴的な初老の男性が同席してきていた。

その人は特になにも口出しをすることなく、見学だけして去っていった。

一週置いて二回目、つまり今週の話だが、

その初老の男性が乃亜のレッスンを見ると言う話になった。


その人物のことを乃亜は当然知っていた。


 「葉山先生は、お若い頃に海外の有名オーケストラで

  ソリストとして活躍されていた大先輩です。

  今でも欧米の音楽学校とつながりも深い方で……。

  以前お会いした月城先生以上に、ヴァイオリン界では雲の上の方です……」

 「音楽学科でも一二を争うくらいの方じゃないか、その先生」

 「そうです……もう震えるくらい緊張しました……」

 「ははっ、お前らしいな」

 「もう、笑い事じゃないです!」


今週レッスンに赴けば、偉人とさえ感じるその人が

にこにこと笑いながらレッスンは自分が担当することになったと告げてきた。

叫ばなかった自分を心底褒めたい。

葉山は驚く乃亜に、好々爺のような雰囲気で言った。

 「君のヴァイオリンは本当に美しい。だがまぁ、まだ原石のようにも思う。

  カッティング次第で価値が大きく変わる、まだ粗削りな状態じゃな。

  美しい宝石を磨くことができるなぞ、教師冥利につきるわ」

呵々と笑ってそんなようなことを言われ、恐縮しきりであったことは言うまでもない。


 「だがありがたいことじゃないか。

  水野先生にも伝えるといい。きっと安心してくれる」

 「そうですね……。

  でも、煉矢や兄さんにそこまで笑われると……、

  なんか、水野先生にまで笑われそうです……」

 「ああ、煉矢にも話したのか」

 「はい。ピアノとソルフェージュの件は。

  ……爆笑されました……」

 「はははっ、あの煉矢が爆笑か!

  俺もたぶん片手で数えられるくらいしか見たことないぞ、それは」

 「私も初めて見ました……もう、複雑です……」

 「ふふ、仲良くやっているようで何よりだ」


本当に楽しそうに笑い、静は残っていたコーヒーを飲む。

笑われなんとも複雑であるが、

それでも安心し、笑っている様子に、乃亜も小さく笑い、少し薄まったアイスコーヒーを飲んだ。


 「あの、兄さん、夏なんですけど」

 「うん?」

 「8月、そちらに帰ってもいいですか」


静はきょと、と目を丸くした。


 「もちろん構わない、というか、わさわざ許可を取る必要もないが。

  どうした?」

 「いえ、その、学生マンションでの暮らしは楽しいですし、

  不満もなにもないんです。

  ただ、兄さん、本当に夏、忙しいでしょう?」

 「……」


静の研究について詳しいことは知らないが、実のところ、兄がどれだけのことをしているか

家を出て、間接的に聞ける機会が増えたのだ。

その発端は空良だった。


 「同じマンションの友人に、工学科のひとがいるんです。

  その人から、兄さんがどれだけのことをしているか、色々聞いて。

  それだけでなく、先生方からも耳にします」


ずっと兄が続けていた研究が、ついに具体的な形になってきている。

大学2年の時に発表し、まだ理論にも届いていない、というものだったが

兄はそれをたった数年で形にし、実証できるところまできている。

空良から聞いたのは、それは世界的に見ても大きな発見であり、

今の技術を大きく飛躍させるほどのものだということ。


 「だから、少しでも兄さんの役に立ちたいです。

  おうちのことくらいしか、私にはできませんが」


そう告げれば兄は少し眉を寄せた。

そういった表情をすることは分かっていた。

それくらいには兄と兄妹をしている。


 「だが、折角の大学生の夏休みだぞ。

  お前も大学の課題はあるだろうし、なにより、

  友人たちと出かけたり、したいことを思い切りしていいんだ」

 「分かってます。もし私に予定があればそれを優先します。

  兄さんがそう望んでること、私も分かってますから」

 「……本当に言うようになったな、お前」


静は苦い顔で笑う。

確かに数年前までの自分であれば、こんなことはとても自分から言い出せなかった。

言い出したとしても、兄の言葉にうなずく方が多かった。

しかし今は、乃亜は静の目をまっすぐに見ていた。

やがて静ははぁと少し呆れたような溜息を吐いた。


 「ここで俺が承諾を渋っても、お前、また我儘だと言い張るだろう?」

 「……バレてますね」

 「何年お前の兄をやってるとおもってるんだ」


やはりお見通しらしい。

この手は以前も使っている。

静はふっと笑い、腕を伸ばして乃亜の髪をくしゃくしゃに撫でた。


 「分かった。任せる」

 「!」

 「まったく、あざとくなったもんだ。煉矢の悪影響か?」

 「それは、煉矢への風評被害です……」

 「ふふ、ありがとうな、乃亜」


静の言葉に、乃亜は明るく、少し頬を染めて微笑んだ。





それなりに話し込んでいたらしく、1時間ほど経過していた。

カフェから校門への道をいく学生はまばらだ。

少し日が傾いたか程度でまだ空はいくらも明るい。

二人は研究棟の近くまで並んで歩く。

校門近くの事務棟、その隣の一般棟の奥にあるのが研究棟だ。

一般学部学科に所属している教授の研究室があり、静も今はそこに在席している。


 「それじゃあな、乃亜。学生マンションの演奏会、楽しみにしてる」

 「はい。兄さんの休息になるといいんですが」

 「分かり切ってることを言うな。お前のヴァイオリンだぞ?」

 「それ、私はなんて答えたらいいんですか……」


顔を見合わせ、くつくつと笑う静に乃亜もおかしくなって笑う。


 「では、兄さん、また……」


 「静?」


ふと声がかけられ、兄と共に顔をそちらに向ける。

乃亜は意外な人物だったことに驚き目を丸くする。


 「創」

 「えっ」


顔を兄に戻すと、笑みが消えていた。しかし厳しさはない。

少し驚いた様子は見せているがそれだけだ。

しかし驚いているのはこちらである。


 「え、兄さん、進藤先生とお知り合いだったんですか?」

 「ん?ああ、言ってなかったか。

  剣道道場の一年先輩だ。ましろや隼人も知ってるぞ」

 「え、ええ?!」


進藤に目を向けても無論否定の言葉はない。

だが乃亜にとって進藤は中世音楽の研究家だ。失礼ながら武道とはあまり結びつかない。


 「先輩などど言っても、お前に一度も勝ったことはないがな」

 「まだ根に持ってるのか、お前は」

 「過去に敬意を持ちそこにある事実をしたためるのが研究者というものでね」

 「おまえのそれはただしつこいだけだ」

 「思い出とともに感情も大事にしているだけだよ俺は」

 「思い出も断捨離の時期だろいい加減」

 「それは困る。お前との苦々しい思い出とはいえあの道場での日々は俺の青春だしな」

 「感情だけうまい具合にやってくれ」

 「感情と言えば、お前がそんなに感情豊かに笑っているのを見るのは

  ましろの前くらいかと思っていたが妹の前でもそうだったんだな」

 「可愛い妹の前で仏頂面など出来るわけないからな」

 「ほう。可愛い妹とやらの時間を大事にするならその間ましろの時間は空くな?」

 「あ?」


軽快な言葉の応酬が続いているのをどきどきしながら聞いていたが、

ましろの時間が空くと聞いたとたん聞いたことがないくらい低い声が静の口から飛び出した。


 「お前、いい加減諦めろ」

 「そうしたいのは山々だがどうにもならなくてな。

  いずれ時間が解決するだろうから、お前が諦めてくれ」

 「馬鹿も休み休み言え。

  どこに恋人に惚れてる男が恋人に声をかけることを容認できる男がいる」

 「世界初だな、おめでとう」

 「本当にいい加減にしろよおまえ……」


乃亜はただ唖然として二人の会話を聞いている。

話の内容からして、どうやら進藤創はましろのことを想っているらしい。

それを兄は知っていて、

かつ、兄とましろが恋人であることを進藤創も把握しているのだ。

そして、進藤はましろをあきらめていない。


はぁと進藤は深いため息を吐き出した。

話が通じないと言う様子で首を振る進藤に

静のこめかみに青筋が浮いてるように乃亜には見えた。


 「ときに、君」

 「え、あ、は、はい!」


まさかこちらにまで話しかけられるとは思っていなかった。

乃亜はぴっと背筋を伸ばした。

進藤はどこか冷めた眼差しで笑っている。


 「やはり静の妹だったか。容姿は似ているし、そうかと思ったが」

 「は、はい、斉王乃亜と申します……」

 「ああ、知ってるとも。

  音楽学科に突如現れた天才と、講師たちの間でも話題だ」

 「………」


大変いたたまれない。

乃亜は眉をハの字に下げ、身体を小さくし目を伏せた。

まさかというかやはりというか、乃亜にとっては望まない騒ぎになっているらしい。

その様子に進藤は笑みを消し、わずかに眉を持ち上げた。


 「……、乃亜といったな」

 「あ、はい」

 「天才などともてはやされてるようだが、あまり調子に乗らないように」

 「おい、創」

 「じゃあな、天才兄妹」


進藤は言いたいことを言ったのか、そのまま校門の外へ歩いて出て行った。


苦々しい顔で静は進藤の後ろ姿を見送っていたが、

一方で乃亜はそう悪い心地ではなかった。


 「……進藤先生、悪い人じゃないみたいですね」


同じくその背中を見送って呟くと、静が少し驚いた顔をして乃亜を見た。


 「それは、まぁ、間違ってないが……。

  よくあの一言でそういう感想が出るな」

 「まぁ、言葉はそうかもしれませんが、

  ……なんとなく、忠告というか、気遣ってくれてるような気がします」


乃亜は口元に小さく笑みを浮かべる。


天才だと言われ、それにおだてられもてはやされ、

そのまま持ち上げられて調子に乗ってもろくなことにならない。


灰色の瞳からは、そんなあたたかさを感じた。


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★毎週木曜11:30・日曜19:00頃更新予定★

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★アルファポリスでも連載中★

https://www.alphapolis.co.jp/novel/598640359/12970664

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