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【潮目編】101:xx19年7月31日/8月1日

2026年GW中毎日更新です。

その後、ゆっくりと湯畑や湯滝を鑑賞しつつゆっくりと宿への帰路を進む。


硫黄の香の強く、湯滝から聞こえる水音は激しく騒がしい場所だったが、

それが不思議と不快感を感じさせず、むしろどこか安心感を覚える。

白と紫と青の湯煙が夜空に流れ薄れ消えていく様はなんとも幻想的で心地よい。


また、周囲の温泉街はどこかノスタルジックなものを感じさせる。

いつかどこかで感じたような、初めて着た場所のはずなのに、

不思議と感じさせるそれに乃亜は感覚が広がる心地だった。


ヴァイオリンを奏でるにあたり、こういった感覚の開き、

自分の世界が広がる感覚は非常に大切だと、最近よく思うようになった。


指を絡める手から感じるぬくもりに、

乃亜はふと隣を歩く煉矢をちらと視線だけでみる。

本当に自分は、彼に支えられている。

けれど、本当に、今のままでいいのだろうか。

その視線に気づいたのか、彼がこちらに視線を落としてきた。


 「どうした」

 「いえ……あなたには、いろんな面で、支えられていると思っただけです」


繋いだ指先に力を込める。

湯畑を取り囲むように多くの観光客が出歩き喧騒を作り出している。

また広場では路上パフォーマンスが人の注目を集め、

家族連れや若い観光客を楽しませていた。

明るい音楽を背後に、徐々に静かになっていく周辺の音。

湯畑から少し離れれば、人の往来は一気に減る。

宿への道はさきほどに比べていくらも暗い。

街灯はあるが、湯畑周辺に比べるといくらも頼りなかった。

草履で歩く二人の足音だけが大きく聞こえた。


 「……俺は、お前に支えられてばかりいる気がするがな」

 「まさか」

 「本当だ」


冗談のように思えて聞き返したが、彼は至極真面目な声色だった。

どういう意味かとさらに尋ねたかったが、

少々急な坂道になったことで会話は途切れた。


一歩一歩と、煉矢に手を借りながら歩き、ようやく宿の前にたどり着く。

ふうとひとつ息を吐いた。

宿を取り囲む竹が足元からライトアップされ、

まるで金色の竹に囲まれているように見える。

いくら場所がら涼しいとはいえ夏真っただ中の季節だ。

さすがに少し汗ばんだような気がする。


会話が中途半端なところで途切れたこともあり、

少し気まずい沈黙が二人の間に降りている。

繋がれた手はそのままに、宿の門へとどこか惰性的に向かう。


 「お前が俺を支えていないなどと思っているなら、大間違いだと言っておく」

 「……でも」


ぎゅっと繋がれた手に入る力が強まり、乃亜は顔を上げた。

いつしか顔が伏せられていたらしい。

横を見れば、彼は少し苦笑いを浮かべている。

優しい、少し呆れたような。

その表情の意味が分からず、首を傾げた。


 「お前の自己評価の低さは変わらないな」

 「……そう、でしょうか」

 「そうだ」


宿の門を通り、玄関に入る。煉矢はそれ以上は言わない。

玄関にて草履をスリッパに履き替え、受付にて預けていた鍵を引き取る。


あてがわれた部屋へと戻る廊下は、

間接照明として壁に当てられた光が反射し、

薄暗くもこの宿のモダンな雰囲気によく合っていた。

他の宿泊客の気配を感じないままに廊下を歩き、自室に到着して開錠する。


家主のいない部屋は静かで少し冷たさを感じさせた。

だが外から帰ってきた身体にはちょうど良い涼しさともいえる。

玄関でスリッパを脱ぐと、ようやく少し楽になった。

いくらか歩き疲れを感じてソファに腰を下ろすと、自然と息が漏れた。


 「乃亜、なにか飲むか?」

 「あ、はい……」


コーヒーやお茶、他冷蔵庫の中には、

オレンジジュースや地元サイダー、ペットボトルの緑茶、

スポーツ飲料、他いくつかのアルコールが入っているようだった。

乃亜はオレンジジュースをもらうことにした。


煉矢は発泡酒の缶を取り出し乃亜の隣に腰かける。

差し出されたオレンジジュースの缶を開けて一口飲むと、

さっぱりとした酸味が広がり身体の熱を冷ましてくれた。


 「……それで?」

 「はい?」

 「なにか今日は、時々考え込んでいる」


何故どうしてこうも気づかれるのだろうか。

乃亜は視線を少し下げ、唇を引き締めた。

オレンジジュースの缶を掴む両手に知らずうちに力がこもり、

缶がべきりと小さな音を立てた。


 「先ほどの話といい、なにか気がかりなことがあるんだろう。

  俺に話せることであるなら話してくれ」


気がかりとして感じていたのは事実だ。

煉矢の隣に立てていられる自信が揺らいでいる。

彼にばかり支えられている。

総合するなら、そんな気持ちだ。

話せない、とは言わない。ただ、彼はきっと、否と言ってくれる気がしている。

それくらいには、彼の愛情を感じているからだ。


しかしこれは、自分の自信の問題だ。

それに甘えていていいのか、と心の中の自分が言う。


黙り込んだ乃亜に対して、煉矢はひとつ息を漏らし、乃亜の肩を抱き寄せた。


 「先ほどの続きだが、俺ばかりが支えてるとお前は考えているんだろう。

  が、それが出来たらどれだけ楽か分かったもんじゃないな」

 「煉矢……」


視線を煉矢に向ければ、彼の表情はどこか自虐的な笑みだった。


 「俺はいつも、お前に支えられて救われている。不甲斐ないほどだ」

 「え、そんなことは……」

 「あるんだ。だからせめて、こうして出掛けた時くらいは、

  お前を楽しませたいと思ってあれこれするわけだが……余計なことだったか?」

 「まさか!」


振り返りつい大きく声を張り上げてしまった。

煉矢は少し驚いた様子を見せる。

乃亜はいたたまれずに視線を落とすが、それだけははっきり否定したい。


 「あなたが私の世界を広げてくれているんですよ。

  いろんなところに連れていってくれて、見せてくれて、

  それは私のヴァイオリンにも大きく影響していて……。

  だから、あなたに支えられていると感じているし、

  それに、今だって、こうして気づいて、声をかけてくれています。

  それが、どれだけ私にとって、救いになっているか……」

 「乃亜……」

 「不甲斐ないなんてことありません、絶対に。

  だって、私自身が、あなたに支えられているって強く感じているんですから」


ソファについた両手を強く握りしめる。

不甲斐ないなんてことを言わないでほしい。

それに支えられていることを強く伝えたい。

必死に言葉をつなげていると、頬に手が触れた。

顔を上げると、ひどくやわらかい笑みで煉矢が笑っていた。


 「……ほら、そういうところだ」

 「え?」


背中にゆっくりと腕が回され抱き寄せられる。

どんな心地の時であっても、彼の腕の中に収まると安堵感を覚えてしまう。

乃亜もまた背中に腕を回して肩に頬を寄せた。


 「乃亜、あのコンクールの夜を覚えてるか?」

 「忘れるわけないです」


あのコンクールの夜、と示されて思い出すのは、

初めて煉矢に愛を告げられた夜だ。忘れるわけがない。

それまで名前がなかった関係に、明確な名前がついた大切な時だ。

煉矢は少し苦くわらったようだった。


 「俺としては忘れてほしい気持ちもあるが……、

  あの時俺はお前に、どうしようもない自分を見せた」

 「……」

 「本当に最悪の告白だった。

  そんな俺を、お前は、受け入れてくれた。

  弱く醜い、情けない俺を肯定してくれるのはいつもお前だ。

  いつも、俺はお前の優しさに甘えている。

  今だってそうだ。不甲斐ないなんてことはないと言ってくれる。

  それに俺がどれだけ救われているか、お前にはわからないだろうな」

 「煉矢……」


身体が離れ、間近に彼の赤い瞳がうつる。

穏やかで大切なその色は、こちらを愛し気に見つめている。

頬を撫でる手も、まるで宝物を触れるように丁寧だ。


 「お前が俺を支えられていないなんてことはない。絶対に。

  俺自身が、支えられていると感じているんだからな」

 「!」


その言葉にはなにも返せない。

返してしまえば先ほどの自分の言葉も否定することになる。

目元が急激に熱くなる。混みあがって来るものを呑み込む。

だから、支えられていると感じるのだ。

本当に、同じものを返せているのかは分からないが、

それでも、彼の言葉であるなら、信じないという選択肢はない。


乃亜はたまらず、煉矢の首に両腕を回した。

抱き着いた自分の背中に両腕を回し、肩口から小さく笑った声がした。

なんだが本当に敵わない。

心の奥の淀んだ気持ちが晴れ、喜びと嬉しさ、そして、ほんの少しの悔しさが沸き起こる。


 「……ずるいです、その言い方」

 「ふふ、いい言葉を聞かせてもらったからな」

 「もう……」


くつくつと笑う煉矢は、すぐ顔の横、

乃亜の浴衣の隙間から首筋にそっとキスを落とした。

ちくりと僅かな甘い痛みがさし、乃亜は身体を離そうとするが、

わずかばかり、首が離れただけだった。

背中はしっかりと抱きすくめられている。


 「愛してる、乃亜。これからも俺の傍で、隣で、支えてくれ」


彼に支えられてばかりだと感じていた気持ちが霧散する。

仮にそうであったとしても、そうでないと信じよう。

彼が自分を求めてくれているからだ。


 「……あなたの為にできることなら、いくらでも」


やがて二人の影は重なる。

口づけが深くなるその最中、煉矢は乃亜の髪をとどめる簪をそっと引き抜いた。




【8月1日】


目を先に覚ましたのは煉矢だった。

薄暗い室内の中で心地よく柔らかなベッドとぬくもりに気がつく。

視界の中にあるのは朝の陽射しをやわらかくする、

フィルターのような役割を果たしている障子。

そして銀色の髪。


左腕で彼女の背中を抱えるように眠っていたらしい自分は、

本当にどこまでも彼女を求めているのだと強く思う。

少し視線を落としてみると、ごく静かな寝息を立て眠る、乃亜の寝顔があった。

彼女の寝顔を、こうして明るい朝の空気の中見るのは新鮮だ。


いつもは乃亜の方が先に目を覚ますことのほうが多い。

というよりも、もしかしたら先に目をさましたのは初めてではないだろうか。


いつも自宅に泊まりに来た時、

彼女は先に目を覚まして朝食を用意してくれる。

心地よい声で起こしてくれて、

朝食の匂いとともに目覚めることの幸福感と言ったらない。


移動や観光で疲れたのか、それとも昨晩の『味見』のせいか。

浴衣がはだけ、肩があらわとなり、肌着のストラップがずれている。

その肩や鎖骨に昨晩つけた赤い印が薄く見えた。

少々やりすぎたかと思わないでもないが、

今日まで『最後』まで至らず、耐え続けているのだから

これくらいは許してほしいところである。

多少、曲解している自覚はあるものの、『手を出すな』と言った友人への義理だ。


だが果たしてこの旅行中、それを守り続けられるか自らに問えば、

はっきり言って自信はない。

それほどに、乃亜の浴衣姿はあまりにも、艶やかだった。

だがそれに罪悪感や、申し訳なさのようなものはあまり感じていないのだから、

不義理になったものだと、どこか他人事のように思った。


ふと、乃亜の身体を抱える自身の左腕に

ずっとそうしていたのだとすれば重かったかもしれないと気づいた。

腕をしずかに持ち上げて伸ばしたところで、少し、浴衣の襟が引かれたような感覚を得た。

首を少しもたげて自分の浴衣の襟元を見れば、それを掴んでいる乃亜の右手に気付く。


ただの偶然かもしれないが、

普段あまり甘えるような様子をみせない彼女が、無意識にそうしているのかと思うと

ただ、愛しい、という気持ちばかりが湧き上がり、自然と笑みが浮かんでくる。

たまらず抱きしめたくなったが、寝息をたてる乃亜を起こすのは忍びない。

そっと顔にかかった前髪を指先で払うことにとどめた。


その寝顔は安らかで、ごく小さな寝息を立てる、半開きの唇は薄い桃色。

今は閉ざされているが、透明感のある青緑の瞳、それを彩る長いまつげ、

柔らかな白い肌に薄く紅の差した頬。

無防備な姿で自分の隣、腕の中にいる彼女は、紛れもなく、愛しい恋人だ。


けれど先日、乃亜の大学の定期演奏会に顔を出したとき、

久しく感じていなかった恐怖が、わずかに顔をのぞかせた。




乃亜の大学、暁天総合大学は煉矢にとっても母校である。

しかし在学中、そういったイベントがあることは知ってはいたものの、

数学科に在籍していた自分にとっては関係のないイベントであったし、

特に自分から見に行こうという気持ちにもならなかった。


乃亜と付き合うようになりクラシックに触れる機会が増えたということもあるだろう。

大学のそこかしこから様々な音色が聞こえてくるというイベントは

中々に心地よいものだった。


時間つぶしに屋外の円形ステージで演奏されている

フルートなどの管楽器の演奏を眺めたりとしながら、

乃亜の演奏時間が近づき、音楽学科棟へと足を向けた。


正面のガラスの外壁に囲まれた押し扉を開いて中へ入ると

別の演奏者がヴァイオリンを奏でていた。

乃亜の出番はまだのようで、ステージ前の群衆から少し離れていようかと思ったところで、

遠目から眺めている親友の姿に気がついた。


 「静」

 「ん、ああ、煉矢。来たのか」


濃紺の開襟シャツ姿で壁に寄り掛かった静の隣に

自分もまた背を預けた。


 「仕事は大丈夫だったのか」

 「ああ。今日は休みだ」

 「お前のところは休みが流動的なようだが、ちゃんと休んでいるのか」

 「休み云々をお前に言われてもな」


煉矢は腕を組みながらため息交じりに言った。

確かに自分の勤めている会社は、名目上は土日が休日であるが

取引先の都合上、なかなかその通りに行くことはないのは確かだ。

静こそいったいいつ休んでいるのかと学生時代から常々思っている。


 「お前こそ、今日も研究棟か?」

 「ああ。今は休憩中だ。乃亜の演奏を見たら戻る」

 「……そういえば、ましろはどうした?」


普段であれば、乃亜の発表の場に彼女がいないというのは珍しい。

静は軽く肩をすくめた。


 「あいつは今日、剣道の大会なんだ」

 「ああ、成程。よかったのか、行かなくて」

 「ぎりぎりまで悩んだが、当のましろから、

  俺の応援がないと戦えないほど自分は脆くない、

  自分の分まで乃亜の演奏を見てきてくれ。

  それでも決めきれないなら次日程が被ったら自分を優先してくれ。

  と、笑って言われてしまった」

 「ふ、彼女らしいな。お前も複雑だっただろうに」

 「全くだ」


静は溜息を深く吐きだした。

ましろという女性はつくづく強い。


静としては傍にいて応援したい気持ちもあるのだろうが、

ましろは静が、どれだけ妹を愛し大切にしているかを心底理解している。

だからこそ、初めての演奏会という場で緊張しているだろう乃亜の傍にいてやれと

背中を押したのだろう。

そして静もまた、そんなましろの心意気に応えている。

互いを尊重し合う二人の様子は見ていて気持ちがいい。


そろそろ演奏も佳境のようだ。

静と煉矢はステージの周囲を囲う人々の後ろに立った。

少し離れてはいるが、それでも身長のある二人にとってはあまり影響はない。

ステージに立つ演奏者の顔も見えるこの位置ならば問題ない。


間もなくだろうか、というところで、ふと隣に立つ静が動いた。


 「創……」

 「ああ、静」


ぴくり、とその名前に反応したのは仕方がない。

出来ることなら会いたくなかった人物の筆頭だ。


煉矢は静の体越しに鋭く視線を向ける。

深緑の少し癖のある髪を首の後ろで結う。

眼鏡の向こうで灰色の瞳が正面のステージを眺めている。

進藤創という男を初めてこの目にした。


 「来るかと思っていたが、やはり来たのか……」

 「当然だ。愛しいアリアの演奏を聴けるこの日を、一日千秋の思いで待っていたとも」

 「俺の妹をよくわからん呼び名で呼ぶな」

 「よくわからない?これ以上ないほどふさわしい。

  俺の求めている音楽のそのものだからな」

 「そういうことを言っているんじゃない……」


静は頭を抱えてため息を吐き出した

演奏の邪魔をしない程度の声で話していても、

これだけ近ければ否応なく聞こえる。


話には聞いていたが本当に理解ができない。

だがそんなこと以上に、じわりと心に苦いもが広がるのを感じる。

いまだに自分ではどうにもならない黒い感情だ。

自分のものに勝手に触れられたような腹立たしさだ。

それに耐えるように、手を強く握りしめる。


ヴァイオリン演奏が終わり、拍手の中で演奏者が礼をする。

ステージ脇の衝立の向こうへと姿を消し、ややあって、進行役の学生がステージに立った。


 「続きまして、音楽学科1年、斉王乃亜さん」


衝立から現れた姿に、握りしめた手から力が抜ける。

白のブラウスに黒いスカートというシンプルながらも品のある装い。

長くなった髪を緩く三つ編みにして背中に垂らしている。


乃亜の演奏する曲目が発表されると観衆がざわついた。

それは静のとなりにいる創も同様だった。


 「ほう、随分な難曲だ」

 「そうなのか」

 「ああ。ヴァイオリン独奏の中でも珠玉の一曲だ」


進行役の学生が乃亜に演奏を促し、ステージから降りていく。

自然と学生ホールは静かになり、やがて乃亜がちいさく息を吸い込み、

一気に弓が引かれた。


その姿に煉矢はただ度肝を抜かれた。

以前の演奏とはけた違いに響く音色が異なっていたからだ。

自分はただの音楽の素人だ。

しかしそんな自分でもそう思うのだから、音楽に関わるものは押して知るべし。

周囲にいるらしい音楽関係者などが息を飲んだのが分かった。


まるでなにかに藻掻いているような、必死に手を伸ばしているような。

傷だらけの足で、砂利道をあるくような、常に痛みを伴う道程。

足を止めれば少しは楽になるだろうに、

それでも足を止めず、なにかを求め、手を伸ばし、必死にすがっている。


技巧的なものは煉矢にはわからない。

ただ感じるのはそういった、絶望の中であがく姿だ。

雨の降りしきる、昏い昏い、砂利道を、傷だらけの手足で、さ迷う。


それはまるで、かつての彼女のようだった。

思い出されるのは、数年前の夏の出来事。

まだ乃亜と恋人になる前、自分はまだ大学に通っていた。

その中で乃亜は、いわゆるスランプに陥った。

それでもヴァイオリンを手放せず、異常を訴える身体に鞭を打ち、

練習を続けて、ついには壊れてしまった。

それは身体だけでなく、心も追い込まれ、絶望し、家出までする事態となった。


だが乃亜はそこから立ち上がった。

本人曰く、ひとえに周囲の支え合ってこそだというが、

煉矢からすれば、それはただのきっかけだ。

それでもヴァイオリンを諦めることなく、

前を向き、歩いて、ついにそこに戻って来たのは、乃亜自身の強さだ。


シャコンヌの演奏はその頃の乃亜そのもののように聞こえた。

異変と絶望、挫折、そして再生へと繋がり、未来へと向かうような。


ヴァイオリンを奏でる乃亜の姿はただ、美しい。

普段、自分の隣にいる彼女とは違う。

小柄なはずの彼女の身体が大きく見え、まるで包み込まれているかのような錯覚を得る。

学生ホールの入り口側のガラスの壁。

服抜けとなっている高い天井のほうから差し込んでくる日の光が

彼女の姿を照らし、まるで神の使いのようだ。


やがて終わりが近づき、乃亜の細い指が細かく動き、

余韻を残すように、ゆっくりと、弓が引かれていく。

静寂が学生ホールを包み込み、やがて今までと比べ物にならないほどの拍手が響き渡った。

その拍手の大きさに乃亜は少しびくりとした様子を見せた。

演奏しているときの堂々とした姿とは違う、少し気の弱い雰囲気に

煉矢は何故か少しホッとした。


乃亜は深く礼をして、衝立の向こうに消える。

進行役は、午前の部はこれで終わりで、午後の開始時間を告げた。

集まっていた観客たちが乃亜の演奏について興奮したように話しているのが聞こえる。


 「いや、素晴らしい!なんですか先ほどのシャコンヌは!」

 「本当に!あれで一年生?!信じられない!」

 「そういえば葉山教授のお気に入りの学生がいると聞きましたが、彼女では?」

 「成程、たしかに葉山教授の教え子ならば納得もしますな」

 「いやいや、それでも大変な才能の持ち主ですよ!

  素晴らしいじゃないですか!」


それに優越感や誇らしさのようなものを感じるが

同時に、少し、苦いものも感じた。

自分勝手なそれに煉矢は眉をひそめた。


 「ふ、ふふ、さすがアリアだ。

  以前聞いたカノンも素晴らしかったが、あのシャコンヌこそ、彼女の本質だな」

 「本質?」

 「本当にアリアこそ俺の求めていた音楽そのもの。

  美しさ、荘厳さ、愛しさ、しかしその実、耐えようもないほどの苦しみ、絶望、悲哀、

  そういったものも内包している」


腹立たしいことにそれは間違いではなかいように思えた。

乃亜のこれまで歩んできた人生は、決して安穏としたものではなかったからだ。

静もそれを感じたのだろう、眉を寄せつつも反論はしない。

創はつづけた。


 「静、彼女の才能は本物だぞ。

  さっさと海外留学でもなんでもさせたらどうだ?」

 「は?何言ってる」

 「葉山教授のご指導も素晴らしいが、

  クラシック音楽を本格的に学ぶならやはり海外だ。

  ケチケチせずに渡航でも何でもさせてやれ。

  そしてさっさとプロデビューさせて、どんどん公演をやらせてくれ。

  このような大学の一イベントでしか聞けないなど勿体ないが過ぎる」

 「お前は単にもっと聴きたいという自分の欲求を遠回しに言ってるだけだろ黙れ」

 「何故だ?彼女の才能をもっと大きく広く羽ばたかせたいと思わないのか?」

 「それは乃亜が決めることだ。外野が勝手に騒ぐな」


ついに耐えきれず口をはさんだ。

創は今まで煉矢の存在に気づいていなかったのか、灰色の瞳を少し大きくした。

間の静が頭を抱えているが無視し、煉矢は鋭く創をにらんだ。


 「静、彼は?」

 「ああ……俺の親友で、幼馴染だ」

 「成程、そうなるとアリアとも幼馴染か」


そのアリアというのはやめろと口から出そうになったが、

この男に乃亜の名前を呼ばれるのも腹立たしい気がして口を噤んだ。


 「乃亜はまだここで学び始めたばかりだ。

  なにをそんなに急がせる必要がある。

  乃亜のヴァイオリンに心酔するのは勝手だが、

  それを自分の欲求のままにアイツの未来を決めつけるな」

 「おかしなことを言う。

  彼女こそ稀代のヴァイオリニストになるべき存在だ。

  君とて、彼女の演奏を聴いただろう。

  素晴らしいなどと言う言葉では言い表せない美しさだった。

  ただの美しさではない、内面にいくつもの傷があるからこそ、

  多くの人々を惹きつけてやまない魅力に満ちたものだ。

  ヴァイオリニストして世界を魅了する未来は、なんらおかしいものじゃない」

 「ヴァイオリニストになることも、世界に目を向けるのも、

  乃亜自身が決めることだと言っている。

  どれほど美辞麗句でほめたたえようとも、

  アンタのそれは勝手な理想を乃亜に押しつけているだけだ」

 「煉矢、そのくらいにしておけ」


静が二人の間に割って入り、煉矢は不機嫌さを隠すことなく顔を反らす。

創はさして気にしていないように肩をすくめ、踵を返した。


 「よくわからないが、君は彼女の才能を信じてないのか?

  まぁ、近すぎて分からないこともあるだろうが。

  ではな、静」

 「ああ……」


不機嫌な煉矢とはまったく逆、乃亜の演奏に満足した様子の創は

学生ホールを離れ音楽棟から出て行った。

まだ先ほどの演奏に興奮している様子の周囲の人々は

こちらのことを特に気にしていない。

煉矢はホールの奥に並んだベンチのひとつに、苛立たし気に腰を落とす。

静もどこか疲れたように、隣に座った。


 「おい、静……」

 「俺に文句を言うな。あいつは昔からああだ」


深々とため息を吐く様子から、静もまた、

創にはいろいろと頭の痛い思いをさせられていたのだろうと察した。

煉矢は両手を組み、苛立ちを抑え込むように息を吐く。

静の心配そうな視線に気づかないまま、煉矢は正面へと目を向ける。

先ほどの乃亜が立っていたステージが見えた。

輝くような姿で、堂々と演奏していた姿が思い起こされる。


   " 彼女こそ稀代のヴァイオリニストになるべき存在だ "


眉間にしわが寄るのを感じつつも、創の言葉が思い出される。

そんなことは、言われなくても分かっている。


   " She'll be somewhere you can't reach. "

   (彼女は君の手の届かない所に行ってしまうよ)


いつか、ニックに言われた言葉が思い返される。


彼女の才能など、誰よりもよく分かっている。

そして乃亜自身が、ヴァイオリンを、音楽を深く愛していることも。

唇の裏を強く噛み、湧き上がってくる気持ちを押し殺す。

自分でも辟易する、醜い感情だ。

それは今だに煉矢の心の深い部分から消えていない。


もう一度、今は誰もいないステージを見る。


   ___……それでも、俺は……。


醜い感情、独占欲は唇の裏を噛んでも消えず、

握りつぶす思いで、組んだ両手に強く力を込めた。




当時の記憶や思いを思い返していると、どうしても表情は曇る。

どれだけ彼女が受け入れていてくれても、自分のこの醜い感情は、どうしても忌避の対象だ。

いつかこの感情が、腕の中で安らかに眠る愛しい人を、

深く傷つけるのではと懸念しているからだ。


それでも。


その時、僅かに瞼が動いた。

伏せられた瞼が開かれ、青緑色の瞳が少しずつ姿を見せ始めた。

ゆうるりと、瞳はまどろみから解放され、視線が吸い寄せられるようにこちらに向けられる。

ふわりと微笑みを浮かべる表情に、小さく、胸が高鳴った。


 「……おはようございます、煉矢」

 「おはよう、乃亜」


愛しい笑みに心の陰りが消えていく。

煉矢は乃亜の微笑みに笑い返し、その額にキスを落とした。


   ___それでも、俺はお前を手放せない。


いつかその時が来ても、どうか彼女を傷つけることはないようにと、祈りながら。


皆様のおかげで100話を突破致しました。

引き続きウチの子たちをよろしくお願いいたします。


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★毎週木曜11:30・日曜19:00頃更新予定★

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★アルファポリスでも連載中★

https://www.alphapolis.co.jp/novel/598640359/12970664

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