表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
103/103

【潮目編】102:xx19年8月1日

二人が目を覚まし、ベッドから起きたのは6:30という早い時間だった。


まだ指定された朝食の時刻よりも幾分も早く、

昨晩は風呂に入らずに眠ってしまったため、煉矢は乃亜に、部屋にある温泉に行くように勧めた。

乃亜は少し遠慮する様子をみせたがややあって頷き、

着替えをもって浴室へと消えていった。

時刻は6:40頃。朝食は8:00なのでまだ余裕はある。


その後乃亜と入れ替わりで煉矢もまた入浴の時間をとった。

ゆっくり、とはいかないが、それでも十分に堪能した。

風呂上り、着替えてリビングに戻ると、

乃亜はバルコニーのガーデンチェアでくつろいでいた。

先日買い物に行き購入したリネンのワンピースは淑やかな彼女に良く似合う。

ただわずかに見える肩口の赤い印を果たして指摘するべきか。


やがて朝食の時間が迫り、部屋を出るにあたって

彼女はカーディガンを上に着こみ始めた。言わずおいて正解だった。


食事処と指定された場所へ向かう。

黒い大理石の床が敷かれた半個室の一角に通され、和朝食がテーブルの上に並んでいた。


分厚い焼き鮭の切り身や小松菜のお浸し、

酢の物に香の物、だし巻き卵、煮物、味噌汁には特産らしい舞茸が揺れ、

土鍋で炊かれた白米が湯気を立てる。

水菓子に葡萄とメロンが置かれ、朝から豪勢な品揃えである。


美味しく頂いたあと部屋に戻った。

着崩れた浴衣を適当にたたんで寝室に片した後、

リビングで部屋に常備されたコーヒーを飲みながら、

今日行く予定の西の河原のパンフレットを眺める。


 「あの、今日行く場所なんですが、ここにも行ってみませんか?」


部屋に置かれていた近郊ガイドを見ていた乃亜が声をかけてきた。

彼女が示したのは、西の河原からさほど遠くない神社だった。

美しく空へと伸びた杉の木の合間から陽光が差し込む姿は美しい。


 「構わないが、神社仏閣に興味があったのか?」

 「興味というか……こういった場所は、なんというか、気持ちがいいんです。

  感覚が広がると言うのか、うまく説明できないんですけど」


言わんとしていることは分からないでもない。

スピリチュアルな話には興味はないが、澄んだ空気感は分からなくもない。

そもそも乃亜が行きたいと感じる場所であれば、否はないのだ。


 「分かった。そうだな……、なら先にここに行こう。

  裏から西の河原へ抜けれるようだ」

 「ありがとうございます。嬉しいです」

 「礼などいらない。二人で決める、そういう話だっだろう?」

 「……はい」


昨日乃亜に言われたことを実践しているだけだ。

確かに、二人で場所からあれこれ考えるのも、悪くない。





コーヒーをゆっくり楽しみ、バルコニーでくつろぎながら時間を過ごす。

バルコニーから見える庭はどこか素朴ながらも綺麗に整えられたもので、

芝生に黒い飛び石が点々と道のように模様を作り、

白と黒のまだら模様の石が加工された灯篭がたたずむ。

その近くには紫陽花が薄青と深い青の花を咲かせて庭に品の良い色どりを添えている。

また、中庭はぐるりと竹が囲んでおり、まるで竹林の中にいるかのように錯覚させる。

今日は昨日と違い曇天。

快晴でないのは少し残念ではあるが、それでも真夏の季節であるから

直射日光がないというのは逆に良かったかもしれない。


 「そろそろ出かけるか。のんびりしているとあっという間だな」

 「ああ、本当に……つい、ゆったりとしてしまって」


テーブルに置いたままのスマートフォンを見ると10:00になっていた。


 「西の河原って、温泉の川が流れている、んですか?」

 「らしいな。……まぁ、首をかしげるのも分かる」

 「ええ、ちよっと想像が出来なくて……。パンフレットの写真は見ましたけど」

 「まぁ、行ってみてのお楽しみだな。

  支度をして、出かけよう」

 「はい」


想定よりもいくらも気温は低かったが、カーディガンを購入して正解だった。

少しオーバーサイズのカーディガンを着込み、

二人並んで旅館を出る。


昨日出た時も思ったが、湯畑周辺にはいくつもの店が立ち並び、

ひとつ路地を入ってもそれは変わらない。

土産物店や、温泉饅頭の店、地域の特産品など。

それだけではなく、湯畑の周りは広く道が設けられており、

歩くことに不便さは感じない。

少し傾斜はあるがその程度だ。

既に多くの観光客が歩いてそれぞれに楽しんでいる様子が見られる。

湯畑のすぐ隣に設けられた足湯につかる人や、買い食いを楽しむ人、

土産物を眺め、購入する人、写真を撮る人など、楽しみ方はそれぞれだ。

観光地の雰囲気とでもいうのか、街中のそれとは違う空気に、乃亜は自然と笑みがこぼれていた。


二人は先に、事前に相談していた神社へと向かうことにしていた。

湯畑を左手に眺めながら、湯滝を回って、二人は湯滝通りとつけられた裏路地に向かう。

裏路地とは言ってもいくつもの飲食店や店が並ぶのは変わらない。


その道の途中、右手にその神社への階段が姿を見せた。

中々の段数の階段であるが、ゆっくりながらも登り切る。


やがて上り切ったところで、ふう、と息を吐き出した。

案内板に従い神社への道を進んでいくと、手水舎らしきものがあったが

色とりどりの花が浮かべられ、なんとも華やかな手水舎だった。

それに二人で驚きを感じながらも手口を清める。

神社内は静かであまり人もいない。


木々が参道の周辺をトンネルのように包み、

曇り空の中でサワサワと風に揺られて音をたてている。

階段を上って少し火照った身体を、風がほどよく涼ませてくれた。

白い鳥居へ続く参道は、どこか外界と切り離されたような静寂がある。

心地のよさに静かに笑みがこぼれた。


その後参拝を済ませて神社を出る。

地図アプリを頼りに裏道を通って西の河原へと向かった。

幸いさほど複雑な道でもなく、分かりやすい道だったため迷うこともなかった。


西の河原は全国でも珍しい温泉が流れる川のある公園だ。

流れる川だけでなく、遊歩道脇の砂利や石がごろごろと転がっているあたりには

薄く水らしきものが流れており、

それが色々なところにため池のようなものを作っている。

それもすべて温泉だというのだから不思議な光景だ。


二人はゆっくりと談笑しながら奥の足湯を目指して歩く。

奥の方には日帰り温泉もあるようだが今回はそれは無しとした。

陽射しがないためいくらも歩きやすかい。

水の音や風が木々を揺らす音を聞きながら、

二人はしっかりと手をつなぎながら歩いていく。

子供たちが温泉の川をばしゃばしゃと音をたてて遊んでいる。


やがて足湯にたどり着き何人かの観光客がいる中であいているスペースに二人で座り、

足をつけるとここまで歩いてきた疲れがじんわりとほどけていく心地がした。

日をさえぎるものがないので本来であれば暑いだろうが

曇天が幸いし、陽射しの暑さはさえぎられ、心地よく足湯を楽しむことができた。


しばらくそこで休憩したあと、来た道をもどり、西の河原通りに出た。

昼食にほどよい時間になっていたこともあり、適当な店に入って昼食をいただく。

このあたりはやはり蕎麦屋が多いらしく、昨日の夜と重なるところはあったが

二人とも別段そこに否やはない。

あまり待つことなく店に入れ、食事を終えて外に出ると、さきほどまでは曇天だったが

雲間が広がり始め、青い空と太陽の光が注ぎ始めていた。


それから西の河原通りを通り、湯畑方面へと戻ることにした。

西の河原通りには様々な店が立ちならんでいる。


ガラス工房の店では様々なガラス細工が展示、販売されていた。

小さな置物や箸置きのような手軽に購入できそうなものから、

高価なガラスの花瓶まで多種多様だ。

購入することまではしなかったが、細かな細工や色使いにはただため息が漏れた。

いくつもある温泉饅頭の店の前を通りかかると、

店員が試食だといって蒸し立ての饅頭を半ば押しつけるように渡してきた。

その勢いに二人で目を見合わせて笑ってしまったが

ふっくらとした生地の饅頭はとてもおいしかった。

かりんとうの店では、よくみかける黒糖のそれ以外にも

様々な種類のかりんとうが並ぶ。

パッケージもかわいらしかったため、少し考え、

夏季休暇中に出向く水野へのお土産にすることにした。

また、テレビなどでも紹介されていたらしい有名なプリンの店では

少し休憩として店内でそれを購入して食べたりもした。


互いに笑いあい、同じものを食べ、自然体で過ごすことができる。

指を絡めしっかりと繋ぐ手から感じる温度。

視線が合えば微笑みあい、ささやかな会話でさえ喜びを感じるこの時間はただ幸福だ。


その幸せを感じ、乃亜は隣を歩く煉矢を見上げる。

彼はこちらに気付いて目を合わせ笑みを深くする。

泣きたくなるほどに嬉しく、つなぐ指先に力を込めた。


ふと、かつての自分を思い出す。

数年前は隣に立つことさえ烏滸がましいとおもっていた。

けれどそれはほかでもない、煉矢からの想いが背を押し、

一歩を踏み出したいと思うようになって、コンクールの成果に手を伸ばすまでになった。

そしてそれは叶い、互いに思いを言葉でも通わせられた。

それだけでも、以前の自分から考えたら、あまりにも幸福に満ちている。


けれど今は、それ以上を求めている。


   ___この人と、これからも、こんな風に……。


そう願う気持ちを、おさえきれなかった。




西の河原周辺や近郊を歩き回り、二人は宿へと戻った。

それなりに長い時間歩いていたからか少し足がくたびれていた。

カフェで休憩してもよかったかもしれないが、

折角の良い部屋なのだから少し長く過ごしたい。


部屋は外出をしている間に綺麗に片づけられていた。

消費していたコーヒーや冷蔵庫の飲み物は補充され、

使ったカップなども新しいものに交換されていた。

また、昨日乃亜が着た濃紺の浴衣も、新しいものがソファに置かれていた。


荷物を少し整理し、ゆっくりと部屋で休み、

やがて夕食の時間が近づいてきた。

今日は昨日と違い、旅館の中での食事だ。

朝と同じ食事処に向かい、案内されたのは、中庭が見渡せる半個室だった。


朝方とはことなりすっかり晴れた空は、

薄青から紺碧へと美しい色合いに変わっていた。


黒く塗られたテーブルの上には、すでにいくつかの料理が並んでいた。

向かい合わせに席に着くと、飲み物のメニューを渡された。

煉矢は日本酒のスパークリング、乃亜は赤紫蘇の自家製シロップを使ったソーダを頼んだ。

飲み物がやがて届く。

赤紫蘇シロップのソーダ割りは薄いルビー色の美しいドリンクだった。

気泡の中にはラズベリーが沈み、見た目にも可愛らしいドリンクだ。

乾杯して口にすると、赤紫蘇の独特の風味や酸味、

そこに少しベリーの酸味も感じられ、身体の疲れがすっと軽くなった気がする。

思っていた以上の飲みやすさに驚いた。


テーブルの上に置かれた黒漆の箱を静かに開ける。

中には小さな器にそれぞれ美しく盛られた八つの肴が並んでいた。

八寸、と呼ばれる、海の幸と山の幸を季節になぞらえて調理された品々だ。

その美しさもさることながら一つ一つがとても品よく美味しい。


 「こういうお食事は初めてですが、とても美味しいですね」

 「口にあったなら何よりだ」

 「煉矢は、こういったお食事は……」

 「初めてとは言わないが、そこまで回数はないな。

  とはいえ、そのどれも仕事関係だ」

 「お仕事で、ですか?」

 「まぁ、いわゆる接待というやつだが、先輩社員に連れられてか、

  逆に向こうから招待されたりな」


乃亜にはあまり想像できない内容だ。

だがそう話す煉矢の様子はあまり楽しそうなものではない。


 「俺個人としてはあまり楽しいものじゃない。

  仕事と割り切って受けてはいるがな」


煉矢はどちらかと言えば仕事とプライベートは完全に区切るタイプだ。

彼の家に出入りするようになって乃亜はそれを知った。

二人で過ごしている時や、約束があるとき、

仕事関連の連絡があると大層不機嫌になる。

それを見たのは一度や二度ではない。


尤も、煉矢が不機嫌になったのは、

二人きりの時間を邪魔されているからだと、乃亜は気づいていない。


 「だからあまり味については気にしてなかった。

  が、今日こうしてお前と過ごして、改めて口にすると、確かに美味いな」


ふ、と日本酒を口にしつつ、笑みがこぼれる。

乃亜はその言葉の意味に少し頬を染めた。


続けて、椀物、お造りなどが運ばれてくる。

椀物は澄み切った出汁の中に鱧がふわりと花を咲かせ、

お造りは、見るも美しく涼やかだった。

氷が敷き詰められた皿の上のガラスの鉢には、

新鮮で美しい魚の切り身が飾られており、添えられた薬味もふくめ芸術作品のようだ。


そのほか、熱く熱された石のプレートで、美しいさしの入った肉や

新鮮な野菜を直接焼いていただく焼き物、

口直しとして赤紫蘇のグラニテ、煮物の丸茄子の煮びたしと続き、

食事として新ショウガの炊き込みご飯や赤だしの味噌汁など、

次々と趣向を凝らした料理が運ばれてくる。

こういった高級なもてなしをいただいたのは初めてのため

最初こそ少し緊張していたが、いずれもとても美味しかった。


水菓子として瑞々しいシャインマスカットと白桃が

青と白のグラデーションになっているガラスの器に盛られ運ばれてきた。

よく冷えたそれらは口に入れるだけで驚くほどに甘かった。


 「こんなに食べるのは初めてなんじゃないか」

 「正直、そうです……。でも、美味しくてつい……」

 「普段あまり食べないものな。

  まぁ、どれも重いものではないだろうが、無理はするなよ」


少し恥ずかしさもあるが、残すのはさすがにもったいない。

最後に甘味として、黒い小鉢に、きな粉と金粉が振るわれた葛切りが届いた。

かなり満腹だったが、それでも控えめな量のそれはつるりといただけた。

果物とは違うも、深みのある黒みつのそれは、添えられたお茶ともよく合った。


大変満足な食事をいただき終わり、二人は自室へと戻った。


本当に少し食べすぎたかもしれない。

だが苦しいような満腹感でないのは、

いずれも少しずつの提供で、ゆっくりいただけたからだろうか。

部屋に戻り一息ついていると、次第にそれは落ち着いていった。


 「コーヒー淹れるが、乃亜もいるか?」

 「あ、はい。お願いします。

  ……煉矢も、食後にコーヒーが飲みたい人ですよね、結構」

 「そうだな。絶対とは言わないが、あるなら欲しくなる。

  も、と言ったが、お前も割とそうなんじゃないか」


煉矢は棚に置かれたドリップコーヒーのパックを二つ手に取り、

それぞれカップにセットする。

乃亜はそれをみながらくすりと笑った。


 「そうですね。

  最初は兄さんの影響でしたけど、今は一人でも用意します。

  夕食や朝食は、特にですね」

 「分かる」


室内にいいコーヒーの香りが漂う。

やがて出来たコーヒーが運ばれてくると、ソーサーにミルクだけ置かれていた。

二人で幾度となく出かけてきた中で、

乃亜がミルクだけいれることはもう分かってくれているようだ。

煉矢はブラック派らしく、となりに置かれたカップにはなにもない。

礼を言ってミルクを入れ軽くかき混ぜる。

一口飲みほっと息を吐いた。


 「終わってみるとあっという間の旅行でしたね」

 「そうだな。実際、どうだった?」

 「とても楽しかったですよ。こんな風な、観光だけの旅行は、

  たぶん、いつかの夏の旅行以来でしたから。

  煉矢こそ、どうでしたか?」

 「思っていた以上に楽しめたな。

  俺も純粋な旅行はそれ以来だったし、なによりお前と二人きりだ」


まっすぐな言葉に胸が小さく鳴る。

だがそれは乃亜とて同じことだ。

照れる気持ちもあるが素直にそれを受け止め微笑んで返す。


 「たまにはと思って計画したが、来れて良かった」

 「嬉しかったです。とても。

  ただ……今度は、二人で計画したいです」

 「ああ、まぁ、善処する」

 「え、善処、なんですか?」

 「そう、善処、だ」


どうやらこちらが驚く反応を見て楽しむことを、まだ少し続けたいらしい。

もう、と少し困ったように笑うと、煉矢はくつくつと笑う。

この旅行の中で、今まであまり見なかった彼の顔を見ている気がする。

煉矢の家に泊まりに行き、こうして共に過ごすようになったのは

今に始まったことではないのに不思議なものだ。

だがそれは決して悪いことではない。一層距離が近づいたように感じて嬉しかった。


 「ああ、そうだ。ひとつ報告があったのを忘れていた」

 「はい?」

 「以前から少し言っていたが、来年には独立できそうだ」

 「え……っ?!」


こともなげにコーヒーを啜って言う煉矢に、乃亜は大きく目を見開いた。

煉矢は今、大手のコンサルティング会社に勤めている。

しかし以前から、フリーランスになることを視野に入れていると話していた。

乃亜はその業界についてまったく詳しくはないため、

いずれはそういったこともあるのだろうな、程度に思っていたが、

驚いているのは、それにしてもはやすぎないか、ということだ。


 「早ければ来年の2月か3月には退職する。

  ありがたいことに、いくつか話を貰っていてな」

 「え、と……、それは、煉矢個人と契約したい、というような、こと、ですか?」

 「そんなところだ。まぁ、もちろん、それだけを当てにしているわけじゃないが、

  フリーになった後の目算は立ってる。なんとかなるだろう」


彼のなんとかなる、というのは、ほぼ確定と言っていいほどだというのは

今日にいたるまでの付き合いでよくわかっている。

彼は可能性が薄い、あるいは、五分程度では動かない。

成功に至るまでの徹底した準備をしたうえで実行するのが彼だ。

驚くべきは就職してからわずか数年程度でそれを成しているということである。


 「お、おめでとうございます……!」

 「ああ、ありがとう」


ひとつのキャリアプランとしての目標を達成したことになる。

それにはひたすら感嘆する思いであるし、祝福したい。


 「今の会社が悪いわけじゃないが、少し窮屈に感じることも多かったからな。

  仕事の割り振りについても思うことがないわけではなかったし、

  まぁもちろん、そういったデメリットと釣り合うだけのメリットもあったが」

 「以前から話していましたよね、いずれはと」

 「ああ」


就職したころからそういったことは口にしていた。

彼は仕事に関する愚痴のようなものはほとんど言わない。

しかし、ごくごく稀にではあるが、窮屈だということは言っていた。

元から誰かの指示で動くよりも、

自分の采配で物事をすすめることのほうが向いているからと。


本当に煉矢の優秀さにはただ舌を巻く。

もちろん優秀なだけでなく、これと決めた目標に対して

淡々と、しかし着実に歩を進めていけるのだから尊敬するほかない。


ふと、なにかまた、胸の奥が小さくうずいた。

昨日、静やましろたちと話していた時に感じたものと同じ、重いもの。


それをごまかすように、少し冷めてきたコーヒーを飲んだ。


 「とはいえ、はやければという話だ。

  抱えているプロジェクト次第で、また伸びるかもしれないしな」

 「あまり無理はしないでくださいね。

  煉矢に限ってとは思いますが……」

 「ああ、分かってる」


私生活においてかなりストイックな生活をしている彼のことだ。

仕事にかかりきりに名て身体を壊すようなことはしないと思う。

その微笑みを信じるほかない。


やがて二人のコーヒーが空になり、壁にかかった時計を確認すると

時刻は21時を回っていた。


外はもうすっかり暗い。

部屋の窓は薄いレースカーテンがかかり、

中庭の灯篭から薄い明かりが灯っているのだけが見える。


 「もういい時間だし、風呂に入るか」

 「ああ、そうですね……。お食事がゆっくりでしたから」


しっかりとした和風懐石のコース料理だった。

始まった時間は18時すぎ程度だったと思うが、話しながらの食事は

普段のそれよりもずっとゆっくりとした時間だったと思う。


 「15分くらいしたら来るといい」

 「……え、はい?」


立ち上がった煉矢の背中ほを視線で追う。

ちょっとなにを言っているのか理解できないでいると、

彼はソファの端に、新しく用意されたのだろう浴衣を手にし、振り向いた。

その顔はどこか悪戯めいていて。


 「昨日言っただろう?」

 「……、……あっ!」

 「先に行ってる」


ごく当たり前のようにそういってにやりと笑い、

こちらが反論するより先に、煉矢は着替えなどをもってリビングから出ていった。


完全に忘れていた。

昨日、宿について室内を見ているときに言われた。確かに。

一人残された乃亜は頬に熱がこもることを止められない。

両手で頬を抑えると、案の定ひどく熱かった。


 「……っ、もう……!」


この場にすでにいない恋人に文句を言っても詮のない話。

ソファの背もたれに倒れるように横向きに寄り掛かり、深くため息を吐き出した。

どきどきと心音が鳴る中、うまく思考が働かない。

一緒に入浴など考えもしなかった。

だが同時に。


   ___……恥ずかしい……、でも、今更……といえば……。


乃亜は内心、そう考え、一層顔が熱くなる。

何を考えているのだと自分を叱咤するが、そうこうしているうちに刻一刻と時間は迫る。

またひとつ熱いため息を吐き出して、背もたれに項垂れる。


きっと煉矢のことだ。

どうしても恥ずかしくて無理だと言えば笑って承諾してくれる。

そうと感じられるくらいには、共に過ごしている。

けれど問題なのは、自分の気持ちだ。


 「……嫌、じゃない……と、思ってる自分がいるのよね……」


ぽつりとつぶやいた本音にまた溜息を吐いた。

ちらと時計をみると、煉矢が姿を消してはやくも10分は経過している。

乃亜は今日までの日々をふと思い返す。

自分のすべてを見せても、どんな姿であっても、

彼は全身をもって愛してくれている。

その深い愛情を、今更疑うことはない。

自分にそんな価値があるのかはいまだ分からない。

けれどそんな自分を深く愛してくれているのもまた事実だ。


 「……もう……」


悩ましいのは、時折強引で、こちらの反応を楽しむそぶりを見せるところだけれど。

何度目か分からない溜息を吐き出して、

乃亜はややあって立ち上がり、高鳴る鼓動を抱え、ソファに畳まれた浴衣を手にした。


脱衣所は内風呂の内装に合わせているのか、

温かみの感じられる木造だった。

艶やかに磨かれたそれの一角に三つほどの籠が棚に並んでいる。


持ってきた浴衣や替えの下着などを棚に置き、

ボタンを外す手が、緊張のせいか震えるのを感じながら

リネンのワンピースを脱いで籠にまとめる。

着替えの浴衣なども籠にまとめ、内風呂へと静かに足を踏み入れた。


総ヒノキらしき内風呂には誰もいない。

しかし濡れた浴室内が、たしかに直前の使用を感じさせ緊張する。

それをごまかすように身体や髪などを洗う。

急ぐ必要はないのに、緊張のせいかいつもよりなにか落ち着かない。


やがて洗い終えて、もってきていたヘアクリップで髪を後ろでまとめ上げる。

どきどきと心音が大きく鳴っていくのを感じながら、

内風呂から外の露天風呂への扉の取っ手を握った。

身体の前をタオルで隠しながら薄く扉をあける。


 「……れ、煉矢、あの……」

 「ああ、おいで」

 「は、はい……」


ぐっと力をこめて開ける。

石造りの露天風呂は、ほとんど明かりがついていなかった。

露天風呂の向こうにある中庭に生える竹の根本の光り、

そして壁際の間接照明のみで、全体的に薄暗い。

その薄暗さにすこしほっとする。

煉矢は風呂につかりつつ、こちらに背を向けている。


ゆっくりと足を向け、少し離れた位置を選んで、つま先からゆっくりと足を入れた。


 「少し遠い」

 「無理言わないでください……っ」


人ひとり分より空いた距離に文句が飛んできた。

勘弁してほしい。

というか見ないでほしいと思うが、おそらくそれは通じない。

なるべくそちらを見ないようにしながら、ゆっくりと肩までつかる。


緊張は変わらないが、少し熱めの温泉はそれでも心地よい。

ほうとひとつ息を吐き出しすとぱしゃりと水音がし、

はっとするより早く肩が引き寄せられた。


 「ちょ……っ?!」

 「これくらい許せ。……どうしてもいやなら離れる」


肩を抱かれ驚き視線を向ければ、煉矢は苦笑いを浮かべていた。

その様子は、自分でも少し強引だと理解しているように思える。

だから少しばつが悪いと考えているのだろうし、

本当に嫌だとこちらが言えばあっさりと解放してくれるだろう。


   ___……その顔は、ずるい……。


そんな顔をされて、否と言えるわけもない。

そもそも、自分とて、ただ、とてつもなく恥ずかしいというだけで、

心底嫌という話ではないのだ。

そして改めて煉矢を見て、意識してしまい、その姿に見惚れた。

温泉に浸かっていたことで上気した頬に濡れた髪、肌。

普段まっすぐ顔にかかっている前髪はかき上げられ、

その整った顔立ちがはっきりと見える。


見つめ合う眼差しがふっと微笑まれる。

それにぱっと視線を落とした。


 「……い、嫌じゃないです、ただ……恥ずかしい、だけで……」

 「それならいい。少し強引だとは自覚してる」

 「……煉矢の、そういうところは、少しは、慣れました」

 「なら、引き続き慣れていってもらわないとな」

 「なんでそうなるんですか……!」

 「ははっ」


なんだか緊張していたのがばからしく感じてきた。

溜息を吐き出すと、緊張がだいぶほぐれた気がする。

肩を抱く彼の手には、どうしても安堵を感じるからかもしれない。

背中に回る腕、触れている肌を感じるけれど、

緊張以上に、なにか心地よさを感じてしまう。


温泉の流れる湯の音と、どこからか聞こえる虫の声だけが

あたりに静かに響いている。

まださほど遅い時間ではないはずだが、

あたりに物音はなく、薄暗い中、ひどく静かだった。

ふと空を見上げるも星は見えない。

しかし、暗い空は、なにか穏やかさを感じさせる。

緊張はもうなく、ただ、心地よかった。


 「なぁ、乃亜」

 「……はい」

 「いずれまた、こうして二人で出掛けよう。

  フリーになれば、時間の融通も今よりはききやすくなるはずだ」


はっとして振り向くと、煉矢は穏やかに微笑んでいる。


 「お前と過ごす時間も取りやすくなる」

 「煉矢、それは……」

 「勿論それだけが理由じゃない。さっき言ったことも理由だ。

  だが俺にとっては同じくらい大事なことだ。

  少しでも長く、お前と過ごしたい」


その眼差しは幾度と見たものだ。

こちらに向けられる深い愛情をはらんだ赤い瞳。


乃亜には分からない。

こんなにも深く、愛してくれるその理由が。

自分にそこまでの価値があるのかどうかも。

けれどそれでも、溢れるほどに愛を注がれ、求めてくれることは

もう疑う余地がないほどに感じ取れている。


乃亜は泣きそうになりながらも、煉矢に微笑み、目を伏せ、その肩に寄り掛かる。

煉矢もまた、乃亜の頭に自身のそれをもたれさせた。


昼に感じたことがまた溢れてくる。

けれどそれよりも、ずっと、強いものだ。


   ___この人と、ずっと一緒に、過ごしていきたい……。


叶うことならば、というすがるような思いではなく、

それは確かな、願いの形を作った。



これを書いているとき、たまたま家族で旅行に行こうという話になり、どこがいい?と言われて「草津」と即答した私。色々参考になった。やっぱ現地にいかないと書けないものってありますよね。

-------------------

★毎週木曜11:30・日曜19:00頃更新予定★

-------------------

★アルファポリスでも連載中★

https://www.alphapolis.co.jp/novel/598640359/12970664

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ