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番外編 拓兄の憂鬱(一)

『拓人、一つだけ言っておくよ……』


 あの日、慌てて蓮見家に駆けつけようとしていた月人は、家を出る間際、俺を真っ直ぐ見つめてこう言った。


『僕はね、沙羅が人間の誰を好きになろうと構わないんだ。拓人だろうと、蓮見徹だろうと、その他の誰だろうとちっとも構わない。僕と沙羅を引き離さない、沙羅と僕の契約を阻まない、それさえ守ってくれる相手なら誰でも構わない。だから、僕さえ蓮見徹の元に行けば沙羅を失わずに済むと、もし拓人が考えているなら、それは大きな間違いだから』


 失わずに済むって……ってか、月人と沙羅の契約ってなんだよ。そう問う俺に月人は一枚の紙を懐から大事そうに取り出して見せてくれた。


『私こと夏原沙羅は、死後、月人にその死骸を与えます。二○一二年八月三十一日』

 ご丁寧に署名捺印までしてある。


 ――沙羅のやつ、なんちゅー契約を交わしてるんだ。

 俺は唖然とする。手にとってよくよく見てみようと手を伸ばすと、月人はささっと引っこめて再び懐にしまった。

「あいつの死骸をどうするつもりなんだよ」

 伸ばした手がむなしく宙を掻く。

『僕のものにするよ?』

 何故そんな当たり前の事を訊くのかとでも言いたげな月人に、俺は頭を抱え込みたくなった。


 正直なところ、月人には感謝していた。月人が居なければあの魔緑事件のさなか、沙羅は生き延びられなかったかもしれない。思いっきり頼り癖のついた子なのだ、沙羅は。

 原因は……俺かもしれない。


 一人っ子だったせいか俺は兄弟という存在に憧れていた。恐らく沙羅も同じだったんだと思う。だから沙羅の前で俺は兄貴ぶったし、沙羅は妹の役を演じているようなところがあった。だから沙羅に頼り癖を付けたやつがいたと言われれば、俺は間違いなくその一人だった。


 魔緑暴走の日、都内の交通が麻痺した時間帯から考えて、共働きの沙羅の両親が都内で立ち往生していることは容易く推測できた。そうであるなら、夏休みのこの時期、沙羅は一人でこの事態に対峙しているはずだ。そのことが真っ先に脳裏を掠めた。慌てて自宅に連絡したのは、もちろん自分の両親への心配からだったが、同時に沙羅を心配した為でもあった。うちは沙羅の家の筋向いだ。安否確認をしてもらうつもりだった。しかし連絡することはできなかった。繋がらなかったのだ。それどころか、自分自身、魔緑に絡みつかれた五階建てのビルの最上階にあるオフィスから身動きが取れなくなった。


 ビルが陸の孤島と化したのは早朝だった。出勤してきた人のほとんどはビルに入ることなく立ち往生していたから、内部に取り残されたのは、早朝出勤した人と、俺たちのように泊まり込みで作業をしていた一部のクレイジーなワーカホリックだけだった。しかし時間が経つにつれ、ビルに閉じ込められていた方が数倍ラッキーだったのだということを思い知らされる事態となる。魔緑に絡みつかれ、呑み込まれていく人たち。ビルに入ることも、家に帰ることもできずに外で立ち往生していた人たちはパニック状態だった。助けに行くことも助けを呼ぶこともできず、ただ、呆然と見守るしかないビルの中の俺達。

 ――どうなってる? 何が起こってるんだ?

 誰もが異口同音に叫ぶ。


 当初の楽観的予測に反して、刻々と深刻度合いが増していく報道。救急車、消防車はもちろん、警察車両さえ身動きが取れなくなっていき、救援に飛びたったヘリさえ蔓に絡みつかれ墜落した時点で、政府はようやく非常事態宣言を発令した。


 まだ魔緑に覆われていない地域は魔緑の侵入を防ぐべく前線に人を動員して駆除に当たり、一定の成果を収めていたが、それでもジリジリと後退を余儀なくされていた。既に魔緑に覆われてしまった地域についてはお手上げで、有効な手段を見いだせないままだという。


 ビルに閉じ込められて二日後、救援物資が投下された。空から救援物資を落下させるのが精一杯だったのだ。その物資さえ、下手な所に落とせばあっという間に魔緑に呑み込まれるという状況で、だから魔緑駆除の為の落下傘部隊が検討されているという報道があった時も、それが決して有効な手段ではないだろうということに、既に魔緑に閉じ込められていた我々は薄々感づいていた。


 あっという間に電話は使えなくなったので、ネットで情報を集めていた俺らは、都内とその周辺に魔緑が最も繁茂していることを知っていたし、俺の実家のある付近もひどいことになっていることを知っていた。


 ――沙羅!

 ビルの中でジリジリしながら、ついウトウト仮眠をとっていると嫌な夢を見た。


 沙羅が魔緑に覆い尽くされていく夢だ。拓兄ぃ、そう名を呼んで助けを求めた細い腕にまで魔緑は容赦なく絡みつき、その柔らかな白い肌に根を突き刺し、あまつさえ花を咲かせさえした。慌てて助けに行こうと手を伸ばしたところで目が覚める。沙羅の悲鳴が耳の奥に残っている気がした。

 傍にいてやれない自分に苛立ったし、自分でも信じられないくらい取り乱していた。


 ■□■


『じゃあ、僕は行くよ』

 そう言い残して、蓮見家へ向かった月人の背中を見送りながら俺は逡巡する。


 ――俺は結局どうしたいんだろうか。連れ戻しに行く? 兄として? それとも……。


『拓人? 行かないの?』

 逡巡する俺を奏樹が心配そうに見上げた。


 ■□■


 俺の緑人のパートナーである奏樹は俺のデスクの上にあったガジュマルの木だった。そのガジュマルの木は元々オカヤドカリを飼っていた中嶋の水槽の中に植えられていたもので、ヤドカリにいたく気に入られて葉っぱを食いつくされていて、ほとんど丸坊主になっていた。それが、ある日給湯室の片隅にある廃棄用分別箱に捨てられていた。


 ――散々食いつくされて捨てられたのか……。

 気づいたら俺はそのガジュマルの木を手にしていた。俺が立ち上げたばかりの小さな会社と、そのガジュマルを重ねてしまったのかもしれない。なんとかしてやりたい。そんな衝動に突き動かされていた。


「おい、中嶋。これもらってもいい?」

 コーヒーを淹れに行った俺が、枯れ木のようなガジュマルをカップに入れて帰って来たものだから中嶋は顎を落とした。

「おま……そのコーヒーカップ……」

「え? このコーヒーカップがどうかした?」

「ウェッジウッド……」

「え? なにそれ……なんかヤバかった?」

 この後、客用カップを植木鉢にしたと庶務兼秘書の女の子に散々叱られたのは言うまでもない。こうしてその枯れる寸前のガジュマルは、高級コーヒーカップに入れられた状態のまま俺の机の上で暮らすことになった。


 電気が途絶え、ガスが止まり、水が止まり、非常用の備蓄食料も使い尽くし、物資も届かず、案の定、いつまで待っても落下傘部隊は到着せず、俺達は徐々に追い詰められていった。


 魔緑が暴走した日、社内にあった植物と言う植物が廃棄された。誰が言いだしたのか今となってはもう分からないが、普通の植物が魔緑になったのだから観葉植物だって魔緑になりうると言うのだ。ヒステリックになったそいつらは、廃棄用の大きなビニール袋を持ってビル内を巡回し、次々に観葉植物を引っこ抜いていった。ようやく復活して小さな葉を茂らせ始めていたガジュマルを、俺はこっそり屋上に置いてきた。その時は、まだ屋上は魔緑に覆われていなかった。


 眼下には緑の絨毯。屋上から見た街並みは、不謹慎かもしれないが、素晴らしく美しかったのを覚えている。向かいにある高層ビルも四階部分くらいまで緑で覆われていたし、モノレールも途中で止またまま蔓に絡まれていたし、大通りは、埠頭がある方角も大きな寺に続く方角もびっしりと植物で埋め尽くされていた。


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