一の二
しばらくして尾張国の造、乎止与の屋敷に帝の使いで舎人の長左がやって来た。タケルは帝の使いと聞いて纏向の様子を聞こうと思い、乎止与の屋敷に赴く。着慣れぬ草色の狩衣に長褌という出で立ち、衣擦れの音を立てて廊下をせかせかと歩いて行く。そして乎止与と長左が面談している部屋の前に来ると、引き戸を開けて、
「失礼致します、父上」
と、ずかずかと上がり込んで挨拶した。
部屋では上座に乎止与が座り、下座に長左が対坐している。腕組みし、緊張して眉間にしわを寄せている乎止与だったが、タケルを目にするとすぐにほぐれて笑顔に変わった。ともに黒っぽい水干を着ているせいか部屋がやや暗く感じる。
「やあ、これは御子様、ささ、どうぞこちらへ。今から御子様のもとに伺おうと思っておりましたゆえ、都合よぉ御座った」
タケルの突然の出現にも嫌な顔ひとつせず、上座の乎止与が席を空けて、二人は左右に開いて座り直した。
「ただ今纏向から長左殿が参っているところでしてな、都では御子様のことが大層な評判だと聞きましたぞ」
「そうでしたか・・・」
タケルは上座に向かって板敷の中央をつつつっと歩きながら、何やらいつもと違う空気を感じた。
「不躾にやって来てすみません。長左殿、懐かしいですな、元気でしたか」
と言って振り返り、板敷に着座した。
「これは御子様、お懐かしゅう御座います、すっかり逞しゅうなられましたな。わたくしもお陰さまで丈夫で御座います。此度の御子様の御活躍に、陛下は大層なお悦びで御座います。戻った方々を盛大に持て成されまして、大層御機嫌が麗しゅう御座いました」
髪に白いものが混じってきた長左がにこやかに答えた。
「それは嬉しい。ついては近々陛下に帰国の報告に伺おうと思いますが、陛下の御都合はいかがでしょうか」
「そのことですが、陛下が申されるには、御子様は旅の疲れもあろうし、美夜受姫様との婚儀を挙げたばかりゆえ、新婚生活をたっぷり楽しむがよいとの仰せで御座います。就きましては今冬の新嘗の儀に合わせて地方の者も呼び、盛大に祝賀会を執り行うとの仰せで御座います」
「そうですか、ははは、それはまた有り難いお言葉です」
タケルは思わず腰を浮かせて歩み寄り、長左の手を取って喜んだ。
「陛下のお慶びの顔を早く見たかったが、お言葉に甘えて静養する事に致します」
タケルは再び上座に着座した。
「ところで、陛下からの直々の使いとは余程のことですね。どのような用事なのか差し支えなければ吾にも聞かせてはくれませぬか」
「いえ、さしたる大事では御座いませぬよ」
乎止与がはぐらかすが、タケルの様子を見てごまかしきれなくなったのか、ポロポロと軽口を利いた。
「お祝いの歌を頂いたので御座る、言うなれば御子様のお手柄によるものですな」
「へぇー、歌ですか・・・」
「左様で・・ちと披露いたしましょうかな」
おほん、とひとつ咳払いをして、乎止与は歌を詠み始めた。
ちはやぶる 大国主の 手弱女が
倭の御魂に せぅえにし桃花
「こういうめでたい歌で御座る」
出雲族の神の娘が、倭の纏まりの祝いとして花を贈ってくれたという歌である。
「いかがで御座る、御子様」
「ははぁ、確かにめでたそうな祝い歌です。誇らしゅう御座います」
上手くもなんともない詰まらぬ歌だと小碓は感じた。
「(陛下はこれほど歌が下手であったかな)・・・他には何かないのですか」
「ええと・・」
と、乎止与が言いかけた時、
「いえ、この一首だけで御座います」
すかさず長左が割り込んだ。乎止与は怪訝な顔をして長左を見つめるが、長左は構わず続ける。
「御子様と一緒に苦労された方々を持て成す合間に、ふと考え付かれたもので御座いましょう。急ぎ発布されたもので御座います。お陰でわたくしはこうして忙しなくあちこちに飛び回っている次第でして、ははは」
「そうでしたか、それは有り難いことです。ではこれにて失礼を・・」
タケルは立ち上がり、一礼して退出した。初めは何となく乎止与の表情に違和感を感じたタケルであったが、纏向の様子、帝の上機嫌な様子などを聞いてすっかり気を良くした。
タケルはこののち熱田の新居で美夜受姫と四月ほど和やかに暮らし、長旅の疲れを癒したのである。
景行四三年の梅雨も明けた。ここは丹波国丹後の穂井村である。この村にはかつてヤマトタケルが賊から守ってやって、妃に迎えた真奈が住んでいる。タケルが去って早八年の月日が経っていた。タケルとの間に七つになる男の子息長がいる。
稗や粟の播種も終わり、ひと時の休息に入っている或る早朝の事。
ピー・・・・・
と、甲高い音を発しながら、ストンと真奈の家に白い矢羽の付いた鏑矢が突き立った。
「なんだ、なんだ?」
「おい、なんだ今の音は」
「何があった?」
わいわい、がやがや言いながら村人達が表に出てくる。
「おい、見ろや、真奈様の家に矢が突き刺さっているぞ」
「し、白羽の矢だ」
何事だろうと皆が驚き寄って来て、ざわざわ騒ぎ出す。
三太夫の妻牡丹も出てきた。
「これ、そこの若衆、登って取ってこいや」
と命じて、若者を両手で軽々と持ち上げ、ポーンと放り上げた。
「ひえ」と言って、若者が伏屋根の天辺に取り縋った。
手を伸ばして矢を抜くと、するすると下りてきて、ちょうどその場にやってきた村おさに矢を渡した。
「こ、これは矢文じゃな・・何か書いてあるが・・誰か読める者が居ないか」
村おさが周りに問いかけるが、字を読める者など居るはずもない。しかし、文字が読めなくても、白羽の矢が意味するところは誰でも分かっている。
表の騒ぎが気になって外に出てきた真奈は、怪訝な顔をして村おさを見つめている。村おさが真奈に気付いてつかつかと歩み寄り、矢文を差し出した。
タケルに教わっていたので、真奈だけは文字が読めた。そして声を出して読み始めた。
吾は伊吹の山に住まいなす龍神なり
汝の子を贄に差し出せ
さもなくば 永久に日の本のあらゆる土地を 凶作に貶めるべし
と、書いてある。真奈は読んでいて卒倒しそうになった。
「真奈、しっかりおし・・」
牡丹が真奈を抱き止めて支えたが、伝染した如く二人は体が震えている。周りの皆も抱き合う二人を見つめて青ざめた貌をしている。
「こ、これは誰かの悪戯じゃ、そうに違いないわい。しっかりしろ、真奈」
周りの者をも元気づけるべく、ことさらに大きな声を上げた牡丹ではあるが、震える体は止めようもない。
意識を取り戻した真奈は、矢文の続きを皆に話し始めた。
ひと月後の満月の登る日 中天に日が登るまでに
山の祭壇に子を差し出せ
努 疑うことなかれ
ひと月後というと夏の祭事の行なわれる頃合い。龍神イブキドヌシだというのである。
イブキドヌシとは日本神話に出てくる神様で、風と水を司る神である。近江と三野の境に跨る伊吹の山並に棲む巨大な龍とされていて、時おり大きな白猪に姿を変えて、あるいは白猪を神の使いとして人里に現れるという。
この世でただ一人愛したヤマトタケル、その夫との間に生まれた大事なわが子を、神に差し出せと言うのだ。
「とんでもねぇ事だ、神様がそったらこと言うだなんて・・」
牡丹は怒りだす。村の者達も困惑した、真奈は既にこの村にとって生き神様のような存在なのである。その真奈のひとつ種の子を神様は差し出せという。
(真奈のことだ、必ず自分を犠牲にしてでも吾子を助けようとするに違いない)
牡丹はそう思った。皆もそう思った。
「そんなもの嘘にきまっている、誰かの悪戯だ」
「ふてぇ事をする」
と、怒りを露わにし、
「真奈様、行かねぇで下され」
「わしらを見捨てねぇで下され」
などと言う者ばかりであった。牡丹も強く反対したが、真奈は首を横に振って牡丹を制した、既に心は決まっているようだ。
(従いたくはない。でも飢え苦しむ人がたくさん出ることを思うと断れないわ)
皆の案じた通り、事に依ると自分が身代わりとなって、わが子を助ける事が出来るかもしれないと真奈は思った。
製鉄では風が欠かせない、イブキドヌシを祭神とする神社が三野には数多ある。また畑作や稲作にも風が欠かせない、花粉を運んで実を結ばせるのである。なおイブキドヌシはその他にこの世の悪心や邪悪な心を黄泉の国に吹き飛ばす神ともいわれる。決して邪神ではないらしいのだが、それゆえに逆らえば祟りがあるとされている。
半月後、まだ三十に届かぬ若い真奈は、用心のため薄汚れたお婆に変装して、幼い息子息長を孫に仕立てて旅立った。牡丹も付いていくと言ってきかなかったが、家族に祟りがあってはいけないと、真奈は同行者を堅く断った。
約束の期日まであと十日である。
村を出て間もなく旅人に出会った。三頭の馬に大きな俵を二俵ずつ積んだ四人ずれの一行で、一見して遠出の人足風の出で立ちである。日笠を被り、単衣に褌姿で足駄を履き、皆背負子を付けて右手に杖を突いている。
四十ぐらいの先導役の男が話し掛けてきた。
「お婆さんや、旅かね」
「はい、はい、孫を連れて三野の伊吹山まで行こうと思いましてな」
真奈は声色を使って応じた。
「そうかい、誰か他に連れでもいるのか」
「いいえ、孫と二人だけで御座います」
「それは物騒だ、同じ方角だから一緒に行くかい。なに、わしらは三野の垂井まで行く人足じゃ。連れが居た方が安心じゃぞ」
「有り難う御座います。ではお言葉に甘えて御一緒させて頂きます」
「ああ、構わないさ、ははは。坊、宜しくな」
男は笑いながら息長の頭を撫でた。
旅の理由を知っている訳でもなし、伊吹山の近くまでの同行なら祟りの心配もないだろうと、真奈は素直に男の申し出を受けた。
この頭らしい男は安八と名乗った。後の三人はその手下で馬の手綱を曳いている。
老婆の姿をした真奈に安八達は親切だった、いたわりの心が有り難かった。取り分け安八は話し上手で子供好きのようで、芸をする面白い猿の話を聞かせてくれたりして、息長もすぐになついたようだ。
既に穂井村を出てから三日が過ぎた。ここ琵琶湖の北、伊香の小江(余呉の湖)の畔で、安八達四人と真奈親子が野営している。
真奈は湖の畔に息長を連れて体の汚れを落としてやっていた。二人とも裸で湖に入り、真奈が息長の体を麻布で擦り、洗っているのである。それが終わると息長に浅瀬で水浴びをさせて、自分はそのまま湖の深みまで優雅に泳いでいく。顔の汚れも落ち、長い黒髪が海草のように水に漂い、人魚と紛う姿となった。
何気なくふらっと水辺の木陰に来た安八は、こっそりその様子を見てしまった。天女のような姿に気もそぞろ。陸に上がってくると、西日に照らされた美女の裸体に目が眩んだ。
(こりゃまた恐れ入ったな、婆さんだと思ってたに、なんてぇ上玉だ・・・へへへ)
安八はここまで共に旅をしてきて、真奈の人柄の良さは感じていたが、こんなに若い女だとは夢にも思わなかった。安八の目からは真奈が二十そこそこに見えた。そして含み笑いをしながら、その場をそっと立ち去った。




