一の一
第十章、 イブキドヌシ
一
景行四三年睦月、吉日の朝、纏向の玉座の間には、都に住む皇族達や有力者達が一堂に会していた。煌々と灯火が点けられ、いつになく部屋が明るい。皆が左右に分かれて立ち、東征部隊を拍手で迎える。中央を大伴建日連を先頭に十一名が整然と二列縦隊に並んで行進していく。玉座から五メートルほどの所でピタリと止まると、帝に向かって九拝した。
帝がねぎらいの言葉を掛ける。
「皆の者、長旅御苦労であった。よくぞわが命を全うし、東国を鎮めて参った。これで倭も末長く安泰となろう。汝達は功臣として未来永劫に記憶されることであろうぞ」
と言って両手を広げ、掌を上に向けて上下させると、片栗色の錦糸の狩衣の袖がパタパタと揺れた。一斉に拍手が巻き起こり、この勇敢な十一名を祝福している。しかし、帝は何故かヤマトタケルのことには言及しない。自分の息子の自慢話をすることを憚ったからかもしれない。
やがて帝の静謐の仕草ののち、正面左手側に大伴建日連が進み出て、竹簡を広げ、旅の報告を皆に向かって独唱し始めた。倭に下った国々とその様子、数々の苦難及びその犠牲者十二名(案内人二名含)を一人一人読み上げ、讃える言葉などを朗々と語った。
「んん、皆の者、かくの如しじゃ。失われた人命はわが国の礎を築く明日の一歩のための尊い犠牲であった。ここで良いかな・・犠牲者の生まれ変わりを願って、黙祷しよう・・黙祷!」
そう帝が号令をかけると、居並ぶ者達が一斉に目を瞑って、手を組んで祈りを捧げた。
しばしの静寂の中、十一名の功労者それぞれが死者を思って涙ぐむ。その一人弟彦は兄三太夫を思い、弟橘姫の笑顔、そして松の木になってしまった知乃の妖艶な素顔が目に浮かび、哀惜の想いに苦しんでいる。
やがて、帝がやめよと声を発して面を上げた。
「ささ、皆の者、ここからは祝いの饗膳じゃ、その場に並んで座ってたも」
そう言って背後に向かって手を叩いて合図した。左右の控えから水仕達がぞろぞろと入ってきて、お膳などを並べ始める。
上座左隅に久米八の息子の八甕が立ち、料理の説明を始めた。久米八から届いた報告書の知識をもとにして作られた料理を披露しているのである。現在のコース料理のように色々な料理が次々と運ばれてくる。那珂の橡の実汁、甲斐の粟餅の粽、信州の蕎麦ガキ、駿河のエイの塩辛、桑名の焼き蛤、そして各地の地酒など。口直しに倭の葛餅まである。
帝の心づくしの歓待であった。久米八の妻となった知立も、この日ばかりは眼を皿のように丸くして、出てくる料理を頬張っている。
一方、御馳走を前に、表情とは裏腹に帝の心は晴れやかではないようだ。何か気が急いて居たたまれない。賑やかな宴の最中、帝は秘かに抜け出し、自室の西の間に籠った。
円座に座り、腕組みをして考えていた帝は、やがて真新しい竹簡の束を出し、墨を摺り始めた。心を落ち着けるためか、墨を摺りながら一心に硯の中を覗き込み、頭の中を整理している。
やがて眉間の縦皺がピクリと動くと、帝は細い筆に墨を湿しつつ、ゆっくりと確かめるように竹簡に一字ずつ文字を書き始めた。・・・
書き終わり、筆を置くと手を叩いて長左を呼んだ。
同じ日の昼過ぎ、ヤマトタケルは狩衣に長褌姿に装束を改め、一人馬に乗り尾張国熱田に入った。梅の香に混じり、最前から懐かしい風の匂いを感じ、自然に口元が綻んでくる。
馬に跨りゆったりと沿道を進む。事前に一報を入れていたこともあり、街をあげての歓待であった。沿道では、民がもの珍しそうに仰ぎ見ては拍手をしたり万歳をしたりしてヤマトタケルを祝福している。
吉備臣達によって何度か東征の様子が都に報告された結果、ヤマトタケルは既にこの尾張国の英雄として讃えられていたのである。沿道の民の列は尾張国の造の屋敷まで続いている。手を上げて祝福に応えるタケルは、いつになく照れくさそうにしている。
やがて屋敷の前まで来ると、造の乎止与とその妻、娘の美夜受姫、そして屋敷中の者が正装し総出で門口に出迎えているのが見えた。互いの視線が交差する。タケルも美夜受姫も早くも目が潤んできた。愛しい人を見つめつつ馬足を緩めると、タケルは馬を下り、慇懃に片膝を突いて九拝した。
「父上、そして皆さま方、ただ今戻りました。長らくの無沙汰、お許し下さい」
「いやいや、よう御無事でお戻りなされた。大変な骨折りで御座いましたな。ささ、お手を上げて中に入られよ。そして美夜受を安心させて下され」
乎止与が手を広げてタケルを屋敷内へと促した。
タケルは、「ははっ」と言って立ち上がり、美夜受姫に近づき、
「永らく待たせたの」
と、誰はばかることもなく抱擁を交わした。久しぶりの伴侶の匂いに、懐かしさが込み上げる。タケルは既に三十となった。八年もの歳月を待ち続けた美夜受姫は感極まって涙ぐんでいる。
二人はそのまま睦まじく抱き合いながら屋敷の門を潜った。脇から進み出た小者が一人、タケルの馬の轡をとって付いて行く。母屋の入口まで来ると、美夜受姫は嬉しそうにタケルの手を引いて土間に入った。
板敷きに座って旅装を解き始めると、美夜受姫は自ら水桶を持ってきてタケルの手足の汚れを落とし始めた。涙顔で笑みを浮かべ、唖になったかのようにいじらしく傅いている。声を発すると震えて上手く話せないと思い、我慢しているのだ。
八年という歳月が、跳ねっ返りで気丈な姫だった面影を消し去り、傍目にも落ち着いた女の色香の匂う女性に変えていた。
板敷きに上がり込むと、そこには既に簡易な膳が並べられ、乎止与が脇に鎮座している。
「ささ、御子様、ここで軽く腹ごしらえでもして下され」
部屋にも上がらずここで湯漬けでも食えというので、タケルは些か面食らったが、気にもせずに水仕が差しだす椀を受け取り、箸で汁を掻き込み始めた。
「御子様のご活躍は聞きましたぞ。駿河や相模では大層危険な目に遭われたそうですが、御無事で何より。些少ですが御子様の御無事の帰還を祈願して、屋敷を新調致しました。美夜受と共に住んで頂く建物で御座る」
タケルは思わず繰り出す箸を止めた。
「なんと、新居を造って頂いたのですか、これは有り難う御座います、父上」
「なんの、なんの、ほんのささやかな引き出物で御座る。さらに広げるでも池を配したいなど御座れば、なんなりと申し出て下され。これからはこの尾張こそが御子様の郷で御座いますからな」
乎止与は誇らしげに笑った。
「有り難いお言葉です、感謝致します」
タケルは長旅の疲れも忘れるほど嬉しかった。家族ともいえる多くの友を旅で失い、どうにか戻ってきて本当の家族に暖かい祝福を受けたのである。思わず目頭が熱くなり、それを隠すように椀をすすった。側には美夜受姫がにっこりして座っている。
汁を三椀も掻きこんだ後、美夜受姫に手を引かれ、乎止与と共に新居に向かう。すぐ南隣の敷地であった。板塀で囲まれた五十メートル四方ほどの敷地内に、厩や倉庫などを含めて四、五棟の建物が並んでいる。母屋は高床の白木造りの大きな建物だった。
「ささ、御子様、中へどうぞ。既に祝儀の用意をさせておりますので、後は二人だけでお寛ぎ下され」
というと、乎止与が一礼してさっさと戻っていった。
階を登って入口を潜ると、白木の香る板敷きに、ちょこんと座ってお辞儀をしている水仕が居た。
「汝は・・」
タケルは誰だか思い出せない。
「お秀で御座います。御子様、盃ごとの用意が出来ております、どうぞお上がり下さい」
と言うのを聞いて、タケルもやっと思いだした。美夜受姫付の水仕である。
「これはどうも、お秀さん、これから厄介になります、宜しくお願い致します」
互いに一礼を交し、二人は靴を脱いで板敷に上がった。お秀に従って廊下を奥に進むと、南に面した明るい一室に辿り着いた。広い窓には薄い麻布が張ってあり、実に明るい。
部屋はすっかり支度が整っていた。上座に二つ丸い茣蓙が敷いてあり、この時代ではまだ珍しい須恵器の壺や肴の盛ってある膳がたくさん並んでいる。脇には木製の手炙り(火鉢)も置いてあって、熾き火には酒器がかけてある。
「ごゆっくりお寛ぎ下さい」
と言って、お秀も下がっていった。
おもむろに着座すると、二人だけで向かい合って契りの杯を交わし、九拝した。この時から二人は夫婦となった。特に決められた作法なども無く、実に簡単な婚儀であった。
「美夜受、何を黙っているのだ」
「い、いいえ、ただ嬉しくて、言葉を発するのが怖いのです・・」
未だに声に震えが混じっている。
「ははは、変な事を言う・・」
タケルは美夜受姫の心に変わりの無い事を悟り、安堵した。
美夜受姫の頬に赤みが差し、ようやく打ち解けてきた頃、二人は側に寄り添って酒を交し始めた。
何度かやり取りした後、美夜受姫が悪戯っぽく視線を泳がし始めた。
「どうしたのだ、美夜受、もう酔ったのか」
「酔ってなどおりません」
と言う割には美夜受姫の耳たぶは紅潮している。
「ではどうしたのだ」
タケルはむずかる新妻に問いかけた。
「どうも致しません・・・」
「なんだ、どうしたというのだ? まさか好きな男でも出来たのではあるまいな?」
ほろ酔いも手伝ってか、タケルはふと思いもせぬ事を口にした。
美夜受姫がキッとタケルを睨み、
「殿御など居りませぬ、御子様こそ・・」
積年の怨みでも晴らすかのようにタケルの太腿付近をギュッと抓った。
「いててて、こら止さぬか、美夜受・・・なんだ、そうか、碓水のことか」
タケルは素直に弟橘姫のことを話した。
「うすい?」
美夜受姫は怪訝な貌をした。
「違うのか・・・では琴姫のことか」
「こ、琴姫・・・もう、いったい何人と言い交わしたので御座います。美夜受の気にしているお方は真奈と申す女子で御座います」
「なんと、真奈だと・・・真奈がどうかしたと言うのか」
「ほぉら、おとぼけになって、もう七つになる男の子が居るというではありませんか・・それなのに、それなのに美夜受は・・・美夜受は、早二十四で御座います、わたくしの貴重な時を返して下さりませ」
鬱積したものが一度に弾けてしまったようだ。
「こ、これ美夜受、そう攻めるでない。真奈は汝と知り合う前に添うた女子だ、左様に昔のことを責めるものではない。それより、何ゆえに真奈や吾子のことを知ったのだ」
「それは・・・あれ、何故でしたでしょうか・・・以前父から聞いたような気がしたのですが・・・覚えておりませぬ」
「ははは、まあ良いわ、さりとて左様に吾の知りおうた女子のことばかり気にするな、これも天照大御神のなされたことだ。吾は天照大御神の導くままに動いておるにすぎぬ、全ては大御神の思し召しだ」
「巳の行ないを神のなさることにしてお仕舞いになる、恐れ多いことで御座いますよ。何様のつもりで御座います」
「これ、これ、美夜受、酒に酔うのはちと早すぎる、長らくの無沙汰は吾が悪かった。これからはずっと一緒だ、どうか機嫌を直しておくれ」
こうタケルが優しく微笑むと、美夜受姫もやっと恋しい夫が帰ってきたという想いが込み上げ、
「お許し下さいませ、美夜受は悪い女で御座います」
慣れぬ酒の余勢も駆ってか、わぁっと泣き崩れてタケルに抱きついた。
「斯様に嬉しい日に、御子様に愚痴などこぼし・・・ほんとに情けのぉ御座います、どうかお許し下さい。美夜受を、美夜受を許して下さりませ」
「よいのだ、吾も汝と最早会えぬかもしれぬと思ったほどだが、こうして無事に再会出来た。嬉しいぞ、吾も寂しかった・・・」
長の暇を取り戻さんとするかのように、タケルは美夜受姫をしっかりと抱き寄せた。
日もすっかり暮れて、開け放たれた縁越しに、春の月を見ながら酒を酌み交わし、二人は睦み合った。やがてタケルが美夜受姫の膝を借りて横になろうとしたが、美夜受姫の絹の単衣の裾に赤いものが付いていることに気が付いた。
そして思わず口ずさむ。
ひさかたの 天の香具山
とかまに さ渡る鵠ひは 細たわや
腕を枕かむと 吾れはすれども
さ寝むとは 吾は思へど 汝が著せる
襲の襴に 月立ちにけり
天の香具山を甲高い声で泣きながら渡って行く鵠(白鳥)、そのようにひ弱くしなやかな汝の腕を枕にしようと吾はするけれど、汝と共寝をしようと思ったけれど、汝が着ている襲の裾に月が現れてしまった。
何と無粋な歌であろう。美夜受姫の着物の裾に生理の血糊が付いていて横になれないぞ、夜空と同じにここにも月が出ていると、詠んだ歌である。しかし、美夜受姫は有るがままを素直に反応したタケルに悪い気はしなかった。変に隠して見なかったことになどすれば、逆に他人のように距離を感じてしまうであろう。
美夜受姫は笑いながら、これに歌でもって逆襲した。
高光る 日の御子 やすみしし わが大君
あらたまの 年が来経れば あらたまの
月は来経ゆく うべな うべな うべな
君待ちがたに わが著せる
襲の襴に 月立たなむよ
空高く光る日の神の御子、隅々まで治めたまうわが大君よ、新しい年が来て去ってゆけば、新しい月も来ては去ってゆきます。あなた様を待ちきれないで、わたしの着ている襲の裾に月が現れてしまったのは、当たり前のことですよ。
青春の貴重な時を、恋焦がれて、ひたすら待ち続けていた乙女の歌である。
こうして夜遅くまで二人は再会の喜びを分かち合うのであった。




