一の三
熱田の自邸で美夜受姫と暮らすヤマトタケルは、乎止与に狩りに誘われたり、政事の相談を受けたり、美夜受姫と山菜を採りに行ったりと、いつになく平穏な日々が続いていた。丹後に真奈という妃が居るというのに、タケルはすっかり真奈や吾子の事を忘れ去っていたのである。
無理もないかもしれない。東の旅では立て続けの水難、火難、女難、おまけに刺客に絶えず狙われる始末。想像を絶するほどの苦難を、奇跡としか言いようのないほどの幸運で潜り抜けてきた。お陰で腹心の部下三太夫を始め十二人の犠牲者を出した。実に半数の者が黄泉の国へと旅立ってしまったのである。心が解放され、達成感に酔いしれていた。
そんなある時、乎止与が妙な噂を聞いたと言って、タケル達の新居にやってきた。タケルは南の一室で美夜受姫の膝を借りて、簾越しの風を受けながら横になって涼んでいた。
「御子様・・・御子様、大変で御座いますぞ・・」
遠くから声が近づいてくる。乎止与が紐で結わえた丸髷に黒っぽい水干を着て、長褌の裾を波打たせてパタパタ、ドタドタと廊下をけたたましい音を立てて歩いてくる様子。相手の顔を見るはるか前から大声を上げている。
タケルが慌てて起き上ったところへ、血相を変えた乎止与が部屋に飛び込んできた。
「父上、いかがなされたので御座います、そんなに慌てて」
「ああ、美夜受か。それがな、たった今近江から戻った使いの者が泡を食うて言うのじゃ、大変な事が起こったとな」
「一体何が起こったと言うのですか、父上」
タケルも不安になった。
「それがで御座る、御子様。三野の伊吹山の主、イブキドヌシが丹波の穂井村の家に白羽の矢を射て、贄を要求したと言うのです。なんでもその家とは真奈様の家だとか、吾子様を贄に出せとのことですぞ」
タケルは愕然として立ち上がった。
「な、なんと? 神が生贄を要求したというのですか。しかもわが子を・・・何かの間違いでは御座いませんか」
「いいや、事実のようですぞ。三野や近江中がその噂で持ちきりとの事ですからな」
「父上も、御子様も、まあお座り下さい。立ち話では落ち着きませぬ」
二人は美夜受姫の言に従い、板敷きに腰を下ろした。
そして乎止与は噂の詳しい内容をタケルと美夜受姫に話して聞かせた。聞きながらタケルは拳を握り、わなわなと体を震わせている。
「そんな馬鹿な事が・・・そんな神は邪神に違いない、吾がきっと退治してやる」
タケルは立ち上がり、怒りを露わにして罵った。そしてただちに伊吹山に行こうと考えた。わが子をもらいにくると聞いては黙っていられない。期日は既に七日後と迫っていたのである。
一瞬不吉な予感を感じたことは否めない。常陸の地で人に災いをなす神と恐れられた蛇達を悉く切り捨てた事を思い出したからである。しかし、此度の事はそれとは比べようもないほどの災いである。断じて黙ってはいられなかった。
心配げに見つめている美夜受姫の視線がタケルの視界を捉えた。タケルはふっと表情を和らげ、しゃがんで美夜受姫の肩にそっと触れた。
「美夜受、真奈達を助けに行くこと、許してくれぬか」
美夜受姫は暗い表情を改め、頷いた。
「致し方御座いませぬ。御子様の大事なお方のことです」
美夜受姫は止めても無駄だろうと思い、受け入れることにした。
「万一神に祟られるようなことがあってはならぬゆえ、美夜受には天叢雲剱を守り刀として置いて行こう」
「でも、それでは武器が御座いません」
ふと思い当った乎止与が、
「美夜受、あれを用意しなさい」
と、横を向いて指差した。美夜受姫も気が付いた。
「はい、父上」
美夜受姫は立ち上がり、横に走る梁(長押)に掛けてある家重代の宝である青銅の鉾を取り出し、タケルに渡した。
「これか?・・」
タケルは苦笑した。古くなった鏡餅のように青錆がいやに気になる鉾であった。タケルの背丈よりも長い唐渡りの薙刀で、剣先が広幅で扱いが難しい。
(まあ、無いよりはましだろう)
タケルは礼を言って鉾を受け取った。
「御子様、わたくしに出来る事があればなんなりと言うて下され、何でも致しますぞ」
そう言って乎止与は部屋を辞した。
タケルは弓と漆塗りの矢を用意して旅支度にかかる。美夜受姫も寡黙に手伝っている。
タケルは健気に傅く美夜受姫を見つめた。
「此度はすぐ近くだ、心配せずに待っておれ」
とは言うものの、美夜受姫の心は穏やかではない。神を相手の戦いなど、聞いたことがない。この日から、日に何度も伊吹山のある北を向いてはタケルの無事を神にお願いするようになるのである。
こうしてタケルは東征の旅に同行した腹心の弟彦と二人でイブキドヌシ退治に向かうことにしたのである。美夜受姫とはまたしても半年ほどの暮らしで旅に出ることになってしまった。
翌日払暁、タケルは日笠を被り、食料と衣類、弓、矢筒などを積んだ背負子を背負い、鉾を杖代わりにして、弟彦と共に熱田の港に向かった。塩買いの舟が三野に向かうと聞いて、昨日のうちに乗せてもらう手配をしていたのである。三野の池田まで行く舟で、荷物のほかに数十人は乗れそうな荷舟である。徒歩で行くより楽で、しかも早い。揖斐川上流部の池田村まで歩けば優に二日かかるところを、一日で行けるのである。
ここで懐かしい男と出会った。
「そこにおるのはもしや・・」
タケルは舟の艫でゆったりと腰を下ろしている大男に気が付いた。大猿であった。
「やや、これはヤマトタケルの命・・お懐かしゅう御座る・・」
この塩買い舟の護衛をしているというのだ。大猿とは三野垂井に支配地を持つ伊福連の家臣で、二卵性双生児の兄大碓の死以来小碓ことヤマトタケルに逆恨みをしていたのだが、その誤解が解けて友となった者である。
舟は川に入るとすぐに艪から竿に変わった。濃尾平野の川は所々深い場所もあったが、大概は水深が浅い。弟彦を大猿に紹介し、三太夫の死んだことなど、積もる話をしながら揖斐川を遡る。此度の旅の理由を聞いて、何か腑に落ちない大猿は、一緒に付いて行きたいという。地理に疎いという事もあり、タケルは喜んで大猿を仲間にした。
途中の大垣の地で大半の者が降り、塩俵を運んで行く。ここには揖斐川の決壊を防ぐために古くから川の西岸に土手が築かれている。大きな堤(垣)があるというところから大垣と呼ばれ、堤の管理は伊福連が行なっている。
水面の反射光を顔に受け、タケルは荷降ろしを眩しげにじっと眺めている。こめかみから首筋に汗が流れ下る。西日が照り付け、今が最も暑い時刻。時折涼しげな河鹿蛙の鳴き声も聞こえてくるが、それを掻き消す如くじりじりとうるさく蝉が鳴く。
タケル達はさらに北の池田まで行く。池田には大猿の知る辺で、いい鍛冶が居るという。そこで少し草臥れている鉾を研いでもらうことにしたのである。ついでに池田で馬を調達し、干し肉などの食料も手に入れることにした。
夕刻、池田に到着した。鍛冶に訊くと鉾の直しは三日掛かるという。そこを急いで二日で仕上げてくれと頼み込み、宿も請うた。
タケルと弟彦を前に、蚊燻しの煙い中で大猿が話しだす。
「タケル様、龍神イブキドヌシの話はこの辺の者なら誰でも知っています。蹈鞴場の者は玉鋼を作るのに風を起こしてくれるのが龍神様だと思っとります」
干し肉を齧り、酒をあおる大猿は、いかにも納得がいかない顔をしている。
「白羽の矢だなんてねぇ、何かの間違いじゃねぇですか。伊吹弥三郎という大男が山から下りてきて、女子供をさらって食っちまう、てな話は聞いたことがありますがね」
「伊吹弥三郎? そんな奴もおったのか」
タケルは驚いた。
「なぁに、こっちはどうも疑わしいですがね。雲衝くような大男が、ちょうど今頃の時期になると、夜な夜な地響きをあげて山を歩き廻るてんで。あっしはそんなもん一度も見たことがねぇでね、ははは」
「大多良坊っちという奴だな、どこにでも似たような話があるものだ」
「主、そういえば常陸でもそんな話を聞きましたね」
と、弟彦が相槌を打つ。
「何でも那珂邑の海辺でごっそり貝殻が見つかったてんで、ありゃ筑波山の大多良坊っちが食った跡だとか言って」
「ふふふ、そうだったな」
タケルはこの手の話には、何かを隠そうとし、民を謀るために噂を流す傾向がたまにあることを知っている。イブキドヌシなどという神が本当に存在するのかどうかは誰も知らない。しかし、なにぶんわが身内の事である、焦りや怒りは抑えよう、間違いの元になると、気を引き締めるのであった。
そして酔えぬ酒を過ごしながら、夜遅くまで雑談に花を咲かせ、大猿との再会を祝った。
丹波を発って五日目、安八達は真奈とその幼子を連れて垂井の伊富岐神社に到着した。不思議なことに伊吹山をとうに通り過ぎているが、地理に疎い真奈には分からない。同行者の安八をすっかり信用し、安心しきっていたのである。
ところが優しかった安八は豹変した。真奈と吾子を社の裏にある小さな祠に、麻縄で縛って閉じ込めたのである。思っても見ない安八の行動に、真奈は涙を流し食い下がる。
「お願いで御座います、わたし達はとても大事な用があって、伊吹の山に行かねばなりません、どうか、どうか、お許し下さい」
「おい、何か言っとるぞ、早く猿轡を咬ませろ」
と、安八が手下を急かした。すぐに真奈はもごもごと足掻くばかりで、何を言っているのか分からなくなった。
安八はその様子を顎を擦りながら見つめ、気味の悪い含み笑いを漏らした。
「おい、お前達、しっかり見張っとけよ」
「へい」
安八は見張り二人を残し、残りの一人と共に消えた。
二人は祠の入口に閂をして、傍らの石に腰かけて見張りを始めた。
この様子を草色の水干に褌姿の壮年の男と、肩衣に短褌姿の四十過ぎの男がじっと見ていた。社にたまたまやって来ていた伊福建彦とその家来権ぞであった。伊福建彦とは、かつて若狭の浜辺で船が難破し、太郎という漁民に助けられた百済人である。今は叔父である伊福連の養子となり、垂井に住んでいる。
安八達のことは建彦も知っている。砂鉄の仕入れなどをしているものと思っていた。ところが今見れば、旅の者を縛って小屋に閉じ込めるというのは穏やかではない、気になって仕方がなかった。
近づいて見張りの者に問い質すと、見張りの者は場所を変えて小声で事情を話し始めた。話を聞いて建彦は動顚した。祠の方に戻りながら、急に嫌な気分になる建彦であった。
そして格子越しに中を覗き込むと、
「おい、若い女ではなく老婆ではないか」
建彦が訊ねると、
「ああ、それは道中危ねぇんで変装しているだけで御ぜぇやす。その真奈って女はまだ二十そこそことかで、大層な別嬪ですがな」
「何、真奈だと? 真奈と申すのか・・・」
建彦は尚も格子の中に目を凝らす。
(妹と同じ名前だ。しかし二十では歳が若すぎるが・・)
じろじろ見つめていると、老婆が何か感じたのか、懸命にもごもご言っている。
この時食い入るように見つめる建彦の五体に電撃が走った。髷に挿した山吹色の笄に見覚えがあった。亡き父母の形見とよく似ているのだ。建彦は老婆の形をしている者が妹の真奈だと確信した。
「滅多に居ねぇ上玉ですからな、今度の仕事では目一杯褒美をはずんでくれなくちゃね、ねえ旦那」
と、見張りが何か言っている。早鐘の如く建彦の心臓が脈打つ。
「そ、そうさな・・」
じっと堪えてうろたえた様子を隠すように、わざと相槌を打った。
(ど、どうするかな・・・そうだ)
と、何か閃いた。
「お前達、早く義父に報告して参るがよい、きっとたんまり褒美をもらえるぞ。見張りは権ぞに任せるから心配するな。なあ権ぞ、いいな」
「へい、畏まりました」権ぞが応じた。
「そうですかい、そりゃ有り難い、へへへ」
と笑い、見張りの二人は喜んで飛んでいった。
建彦はこの信頼のおける家来権ぞに何かを言い含め、権ぞを縛って祠の中に転がした。
ただちに建彦は真奈と幼子を連れて一路西に向かう。
「この辺は危険だから出来るだけ話などせず、急いで歩け」
と、建彦が急かす。人に見られぬようにわざと丈の長い草の生えた荒れ野に分け入ったのである。既に夕暮れ時、建彦は岩倉山という小高い山に登って行く。いつ頃に付いた名前か分からないが、古くから洞窟のある山という事でよく知られている。
二人を促すように洞窟に入って行くと、中はひんやりとして涼しい鍾乳洞(関ヶ原鍾乳洞)であった。建彦は拾った薪を抱え、松明で二人の足場を照らしながら奥に入っていく。そして手頃な岩に腰を下ろし、薪に火を付け、口を開いた。
「今日はここに泊まろう、この中なら蚊の心配もない。ひと安心だ」
「あ、あの、あなた様は・・・」
と、建彦を食い入るように見つめる真奈は、
「どこかであなた様を見たような気がしてなりませんが・・・」
真奈はつい先ほど格子を覗き込む建彦を見て、フッと何かを思い出し、ここに来るまでひたすら思い出そうとしていたのである。
「真奈や、吾は建彦じゃ、汝はわが妹じゃ、覚えていないのか。みんな死んでしまったと思っていた。生きていたのだな、嬉しいぞ」
「ええ、それでは、やっぱり、ああ・・・」
思わず真奈は建彦に縋りつく。実に十五年ぶりの再会であった。
「あなたを見た時、何か胸の内が騒ぎました。わたしは天橋立というところに打ち上げられたのです・・・」
真奈は涙で濡れた顔を手拭いで拭いながら、今までのいきさつを余さず建彦に話して聞かせた。
建彦は妹真奈の過酷でつらい道のりを聞いて涙が止まらない。
話をしながら真奈も泣いている。兄や両親の記憶が徐々にではあるが蘇ってきた。そして嵐で遭難した事もすっかり思い出した。
「真奈や、よくぞ無事でいてくれた、よくぞ・・・」
建彦は慰めるように妹を抱き寄せた、怪訝な顔の幼子も抱き寄せる。そしてこれ以上真奈には不運が起こって欲しくないと、強く願うのであった。
しかし、真奈は大事なことを思い出した。
「お兄様、真奈はこの子と共にこれから伊吹山に行かねばなりません。せっかくお兄様に逢えたのは嬉しいけれど、お別れしなければなりません」
と言って、真奈は再び泣き出した。
「大丈夫だよ、伊吹山には行かなくてもよい、この兄に任せておきなさい」
「でも・・」
真奈はそれでも食い下がるが、建彦が何とか説得して、そのことはもう忘れよと言う。
翌朝暗いうちに三人はさらに北西に向かった。伊香の小江の側に建彦の知り合いの家があった。若狭で恩を受けた(浦島)太郎の弟で、次郎の家である。ほとぼりのさめるまで真奈と幼子をここに匿ってもらうことにしたのである。




