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黎明のまほら~アルテミスの祈り  作者: 葵しん
第九章、 走 水
91/109

     二の一

     二


  武蔵(むさし)と総(ふさ)の北に毛野(けぬ)と常陸(ひたち)在り。

  共に毛人(えみし)と呼ばれる民の住む土地なり。

  常陸より北は、知る者とてない迷いの海と聞く。


 毛人とはのちに蝦夷(えみし)と記(しる)されたが、もともとは毛人であった。髭がエビのように長く、毛深いことから付いた呼び名とされる。現在の宮城県北部付近までがタケルの頃の常陸国である。その広大な土地を佐竹毛人という者が治めていた。

 常陸国に居る毛人の事を特に国栖(くず)と言った。国栖の一派に佐伯部(さえきべ)という集団が居る。佐竹毛人は佐竹郷に住みついた佐伯部の有力者である。

 初代神武大王(じんむおおきみ)率いる倭族が近畿の地より出雲族を追った。日の本の全土に渡って存在した出雲族。西に逃れた者達は山に囲まれた出雲国に隠れ、東に逃れた者達は科野や駿河を経由して毛野の地で国を造った。結果、その土地に住んでいた出雲族の毛人達を東に押し出す形となった。

 もともと居た毛人達は縄文系の民であって、ここで初めて深く弥生系の民と交わった。こうして出来たのが常陸国である。坂東(ばんどう)の南側では海外からの移民の流入が多く、既に農耕が進んでいたが、北側の那須火山帯や阿武隈山地などの山岳地帯には、この時初めて農耕の文化がもたらされたと思われる。

 毛野国はのちに上野(こうずけ)(群馬県)と下野(しもつけ)(栃木県)に分けられ、常陸国は陸奥(むつ)と常陸(茨城県)に分けられる。

 毛野国の一部に那須国がある。百年ほど前の事、四道将軍の一人、建沼河別命(たけぬなかわわけのみこと)が東海を辿り、その父、大彦(おおびこ)命が北陸を辿り、東海道と北陸道を征したのちに二人が無事に落ち合う事が出来た。そのめでたい出来事を記念して、その土地を相津(あいづ)(会津)と名付けた。そののち皇族の阿倍氏族の祖とされる建沼河別命は那須国の造に封じられた。

 この時をもって毛野国も倭に加わった。

 その子孫の那須直(なすのあたい)から景行大王に佐竹毛人の実情が報じられた。那須直が、佐竹毛人に倭に加わってはどうかと使者を遣わすが、返事もなく使者も戻ってこない。ここ十数年の間に大勢力となった常陸国に、南への道を閉ざされて困っていると報じてきたのである。


 景行四〇年(西暦一五五年)、桜花(はな)の色づく頃、タケル達は香取海の東の外れにやって来た。この地を治めるのは行方(なめかた)の長者といわれる者だった。山の多い総(ふさ)の地と違い、この辺りは入り組んだ入り江である。

 霞ヶ浦と北浦が海と化した利根川に繋がる場所、その南の岸辺にタケル達は宮を築いた。香取海の名前のもととなった香取という地域である。香取からは対岸が三ヶ所あり、東の対岸が鹿島で、北の対岸が行方、西の対岸が河内(かわち)である。

 この海辺一帯に漁民の家がちらほらあるだけで、河内を除く漁民全体のまとめ役が行方の長者であった。鹿島という地域に海の守り神を祭っている小さな社がある。実はこの鹿島の社こそがずっとのちになって鹿島神宮と名付けられ、武の神を祭る事になるのである。そしてタケル達の造った粗末な宮こそ、のちに香取神宮となる。この二つの武を祭る神宮は、一説に神武大王の創建と伝わるが、何かの間違いであろう。

 ここに武を祭る社が必要となるのは、常陸国の北部が陸奥国(むつのくに)(奥州)として分離され、かつ八世紀に奥州で金が見付かってからのことである。金を巡る覇権争いが起こるのはずっとのちの世の事。したがってそのような社の存在意義は乏しいと言わざるを得ない。

 また鹿島は坂東では珍しく五世紀頃から鉄の生産地となるが、鉄の利権を理由とするにも時代が大きく異なる。

 漁民達は男も女も皆、髪を背に垂らし、首の後ろで結わえている。髪を切る習慣が無いのか、髪も髭も伸ばし放題。いつの季節でも貫頭衣(かんとうい)を上着として着ている。横から風が素通しで涼しいだろうが、冬場になると中に獣の毛皮を着たりする。この貫頭衣は水を弾き、西の地方に比べてやや厚手の物のようだ。巫女や村おさほどになると、少しだけ身なりもよくなり、色を染めた麻の単衣などを着ている。

 既に行方(なめかた)の長者は風の噂でヤマトタケルの東征を知り、倭に降(くだ)る事を決めていた。タケル達の宮に行方の長者の出迎えの使者が来た。これまでに調べた限りでは反抗的なそぶりも感じなかったので、タケル達は素直に招きに応じ、揃って出掛けて行った。

 小さな港の村でどこにも属さず、したたかに暮らしている行方の長者。タケルは人の内面を見透かすような切れ長で細い目が印象に残った。白髪混じりの髪と髭を垂らした痩せた猫背の老人。その行方の長者の心を尽くした持て成しを受けた。酒宴となり、タケル達は久々にまともな物を口にして、大層上機嫌だった。

 宴もたけなわの頃、行方の長者が唐突に妙な事を語り出す。

「わしらは漁(すなどり)の者で御座る、香取海でワカサギや白魚を獲り、塩を作って暮らしておりますだ。ところが毎年新芽の出る季節になると、きまって羽黒山の神様方が村を荒らしに来ますのじゃ。困ったものじゃて・・」

 ほろ酔いも手伝ってか、声が一段と大きくなった。

 長者の屋敷は、この羽黒山という丘の麓にある。この山は鎌倉時代になって子孫の行方家幹という者が城を築いて以来(麻生城)、江戸の幕末まで城地となった山である。現在は羽黒山公園という美しい庭園に変わっている。

 神と聞いて茫然と見つめ返すタケル達に向かって、

「恐ろしげな神様でな、でっけぇ蛇神様なのじゃ。神様方はわしらが丹精込めて作った塩をぺろぺろ舐めて、挙句に干している魚を食らっていきますだ。これにはほとほと困っております。この神様方の悪さを止める算段はねぇものでしょうかな」

 行方の長者が哀願するように語った。

 奇妙な話はどこにでも一つや二つはあるものだ。日の本中を歩いて様々な話を聞いてきたタケルや三太夫が、この手の話を真に受けるはずはなかったが、

「宜しい、あす、われらがその迷惑な蛇神を懲らしめて差し上げよう」

 三太夫が袖を引いて止めるにもかかわらず、タケルはつい引き受けてしまった。罠ならばそれを見定めねばならん、そう思ったのである。

 翌日、皆が気乗りせずに待ち構えていると、本当に一間からある白蛇が数匹、羽黒山という小高い山の杣道を、スルスルと下ってきたではないか。三太夫も弟彦も祟りが怖くて怖じ気付くところを、タケルは背中の天叢雲剱を引き抜いて、近づく蛇を悉く切り殺した。

 皆が気味悪がって死骸に近寄らない中、嫌がる弟彦に手伝えと命じ、弟彦と共に蛇の死骸を蓆にくるんで山に運び、塚を造って丁重に葬ると、柵を回して境界とした。

 そしてタケルは皆を集めて、柵越しに山に向かって叫ぶ。

「よいか山の神、汝の住む所はこの山だ、われらの土地を侵すではない。この柵を越えてやってくれば神とは看做さず、獣として扱い、斬り殺すからそう思え。その代わりわれらもこの山には立ち入らんことにしよう。そして毎年この時期に塩と魚の貢物をし、敬い祭ろう。だからどうか祟ってくれるなよ」

 何とも罰当たりな事を言ってのけたタケルであるが、果たしてその後白蛇達がどうなったことであろうか。

 嘘偽りが無かった事で、タケルは長者に直(あたい)の姓(かばね)を与えて行方国の造(みやっこ)に任じた。以後行方直は年に一度、桜咲く頃に山へ塩と魚を奉納すると誓ったのである。

 当時の信仰では、蛇や狼、鹿などは神そのものの化身した姿であると信じられていた。それゆえにタケルの行為は信仰上極めて危険で微妙な行為であった。

 いずれにしてもタケルは走水での災難から、すっかり立ち直っていたかに見える。

 …『常陸国風土記・夜刀の神』を参考。…


 そろそろ田植えという時期、タケル達五人は数日北に歩き久自川(久慈川)を越え、森で覆われた小高い山に宮を構えた。土地の者が朝日三角山と呼ぶ小高い丘に造った宮で、佐竹毛人(えみし)の情報を探る拠点とした。

 …三角山の宮の場所には、タケル達が去った後、社が建てられた。創建された吉田神社がヤマトタケルの足跡を今に伝えている。…

 ここはすでに佐竹毛人の本拠(常陸太田市南部)に程近く、細い川を引きこんだ田畑が一面に見える。久自川(久慈川)が北の山並を南に下り、久自邑を囲むように東に回り込み海に注いでいる。その南に現在とは全く様相が異なる小さな那珂(なか)川が流れている。さらに南に涸沼(ひぬま)という湖(入り江)が在り、湖に注ぐ涸沼川が在る。

 比較的小高い土地ではあるが、三本の川がこの常陸の地を潤し、縄文の頃から人は数多く住んでいた。南の武蔵とは異なり、川が比較的穏やかであるために定住に向いていた土地といえる。

「よいか皆の衆、今から話す事は、那須直から帝に報告された当時(六年ほど前)の常陸国の状況だ。随分前のことゆえすっかり変わっているかもしれないが、予備知識として頭に入れておいてもらいたい」

 タケルは持ってきた地図を床に広げて説明を始めた。地図にはあちこちに八尺の大叔父が書いたメモ書きが記してあった。


 ――国栖(くず)達の住む常陸国には七つの邑(むら)がある。北から大崎(現在の宮城県大崎市)、相津(あいづ)(会津若松市)、菊多(福島県いわき市の南部)、多珂(たが)(多賀、茨城県日立市北部)、久自(久慈、茨城県常陸太田市)、那珂(なか)(茨城県水戸市)、白壁(のちの真壁、桜川市真壁町)の七つの邑だ。いずれも佐伯と呼ばれる国栖達だ。

 この七つの邑は交易で古くから繋がっていて、通婚関係も繰り返されている親族達だ。

 …いずれの村も農耕を早くから取り入れ、定住してきた者達である。

 定住していない縄文系の国栖があちこちに住んでいたことも確かで、この者達は手間のかかる農耕を馬鹿にして、古くからの風習である狩猟採集生活を営んでいた。この中には倭政権に追われ、北に去ってゆくことになるアイヌと呼ばれる者達もいる。…

 この常陸の七邑(しちゆう)は、ここ十年ほどの間に急速にまとまり始め、その中心となった村がここ久自邑であり、その村おさこそが佐竹毛人(えみし)という者だ。

 久自邑の村おさ、佐竹毛人は小太りの四十半ばの小男だ。丸顔で垂れ目がちの、人の良さそうな好々爺。一見して、この好々爺が常陸国の頭領だとは、とても思えないそうだ。

 このほかに北浦と霞ケ浦の間の漁村、行方村、そして南西に在る筑波邑とその影響下の河内村が在るが、この三つは独立している。行方村は漁業だけではなく交易にも長けていて、塩や麻をもたらしてくれる者達だ。

 久自邑の佐竹毛人と筑波邑の小田の長者はそり(・・)が合わず、昔から敵対している。那珂邑の者が香取海に漁に出ると、筑波邑や河内村から邪魔をしにくるという事がしばしば起きた。筑波の山を真北に見、香取海の北西に筑波邑が在る。河内の村はその南で、香取海にぐるっと囲まれた形の小さな漁村だ。

 那須直は小田の長者に目を付けて共に佐竹毛人を攻略しようとしたが、そりが合わない同士にも拘らず、倭に対峙すると同族意識が出るのか、一致団結して反抗してきたという。どうも厄介な連中らしいな。以上だ。――


 こうしてタケル達は狩人や漁師に身をやつし、手分けして情報を集め始めた。それとは別に那須直の所に弟彦と乳返稲置を派遣して、現状の把握に努めた。


 アルテミスは佐竹毛人(さたけえみし)という人物に疑問を感じた。風采の上がらない小太りの男が、どう見てもこれだけの大国を束ねる人物とはとても思えなかったのである。

「どうも変よね。よし、常陸国の歴史をもっと掘り下げようじゃないの・・・頼むわよ、ハデス」

「畏まりました・・六年ほど遡ります」


 ――倭に対し、共に協力して退けた今こそ、筑波邑との関係を修復する時だと佐竹毛人は考えた。漁場争いに閉口した佐竹毛人は、小田の長者のもとに使者を送った。

 小田の長者は佐竹毛人と同年輩で、仲間の多い佐竹毛人に妬心を抱いていた。邑の規模も百五十世帯ほどで、約半分であった。農業よりも幾分漁業の比重の高い邑である。魚介を食べる習慣のせいか、村人は痩せ型が多い。

 御多分に漏れず、小田の長者も痩せ型の骨太い骨柄である。やや吊り上った細い目とへの字の口が、幾分欲深さと野心の強さを感じさせる。既に孫まで居る四十過ぎの中年で、息子に後を託してもよいという年齢ながら、未だに村全体に睨みを利かしている。

 大層な土産と共に、小田の長者の屋敷に使者がやって来た。

「初めてお目にかかります、わたくしは佐竹毛人の娘、琴と申します」

 朱と浅葱色に染められた二枚の単衣を重ね着し、ふっくらとした袴を穿き、貝殻の耳飾りを付けた乙女が、板敷に座って深深と首(こうべ)を垂れている。ふっくらと扇のように広げて結われた髪が背中で束ねられ、足下まで垂れている。おもむろに頭を上げる乙女の大きなぱっちりしたやや吊り目がちの目が、小田の長者に微笑みかけた。

「これは御丁寧に・・(あの佐竹毛人に、このような見目良き娘がおったとは知らなんだ。おお、えも言われぬよい香りがするのぉ)」

 小田の長者は上から下まで琴姫を眺め廻し、はしたなくも鼻孔を開いてめいっぱいその場の空気を吸って息を継いだ。

「佐竹殿の娘御と申されるか。先程は大層な毛皮や馬を頂いて、有り難く存ずる。して琴姫殿とやら、此度(こたび)はいかようなお話で御座る」

「はい、わが父が申さるるには、小田様とはとかく争い事が絶えない。なんとか共に仲良く過ごせる道はないかと思い悩んでおりまする。そこでこの際無益な仲違いなどやめにして、小田様と良き縁を結びたいとの仰せでおわします」

「ほほぉ、仲良くしたいと申される。してその縁とはどのような」

「さればでおわします・・・ほほほ」

 と笑って、琴姫は妖艶な笑みを浮かべ、用件を続けた。

「失礼致しました。自分で言うのも恥ずかしいことですが、このわたくしでおわします。わたくしを小田様の側において頂きたく存じます」

「な、なんと、琴殿が吾の妃になると申すのか? わが息子にではなく吾の側に・・それは願ってもない申し出・・(えへん)いや、まことに佐竹殿は左様な事を」

 小田の長者は改めて上から下まで舐めるように琴姫を見回し、だらしなく目尻が下がってくるのを止められない。

 こうして琴姫はそのまま大層な土産と共に、小田の長者の妃として筑波邑に住むことになった。景行三四年、琴姫二十五歳の頃の話である。

 小田の長者は既に四十を超えていたが、琴姫とても些か歳をとり過ぎている。しかしこれには訳があった。――


「何よこれ、歳が離れ過ぎてない。ひょっとして政略結婚というやつなの」

「意味は同じですがちょっと趣が違うようで御座います。この後はわたくしが絵解きを致しましょう」

 ハデスはさらに遡って映像を拾いながら内容を纏めて話し出した。


 ――常陸国でも評判の美貌の琴姫は、既に何度か嫁(とつ)いで子を生(な)していた。嫁いだ琴姫が子を生して一年もすると、子を連れてさっさと久自邑に戻って来る。

 十四の時から四度(よたび)同じ事をしていた。大崎、相津、菊多、那珂の四家である。これは離縁出戻りではない、琴姫がその村を掌握した結果であった。琴姫が生んだ四家の子は男児三人、女児一人で常陸国の跡取り候補である。皆久自邑の佐竹屋敷で育てられている。

 小田の長者はそのような事情を知る由もなく、また琴姫の若々しさに二十五とは思わなかったに相違ない。

 実はこの策は琴姫自身が気付き、実行し始めたことだった。幼い頃から母に巫女としての教育を受けていた琴姫は、十歳の時母を亡くし、祭事を彼女自ら行うことになった。民は可憐な少女琴姫の占いの舞に魅了された。まるで魔法を掛けられた如く陶酔し、皆地面に座って手を合わせて祈っている。

 琴姫は僅か十歳にしてこの土地の神との交信役として崇められる存在となった。七つの邑にはそれぞれに崇められる守り神が存在したが、琴姫はその七つの土地全ての巫女を打ち負かし、琴姫の信じる守り神を七邑全ての民が信仰することになったものである。

 言わば琴姫自身が神に近い存在として、生き神として崇められることになった。もちろんこれは守り神だけの話であって、豊漁豊作に繋がる水の神、風の神などそれぞれ違った神への信仰はその土地々々で存在する。

 常陸国を南北に流れる逢隈(あふくま)という大河(阿武隈川)がある。逢隈という名前は逢熊に由来する。上流に熊が多く住んでいたのであろう。熊は鮭を導く川の神として崇められ、常陸国の北部ではよく川の神が守り神として信仰を集めていた。

 そして筑波山付近では那須などの火山が近いせいもあり、火の神が祭られている。

 琴姫の奉じた守り神はそれらの神々を全て超越した神であった。すなわち、地震と雷を司る神なのである。太古の昔より常陸国は数々の地震に襲われてきた。いずれも民の行ないを懲らしめるために神がお怒りになった、そう考えられたのである。

 他の神に願っても、この神の怒りを鎮める事は出来ないのである。嘘か誠か定かでないが、琴姫にはこの神が怒りを現す予兆を知る術があった。

 …古代から日の本では様々な神の存在を信じ、崇めていたが、一旦祈りが通じなくなったりすると、民は平気でその神を罵倒し、捨て去った。役に立たなければ神ですら捨て去るのである。

 このように多神教の環境にあった日の本では、キリスト教などの一神教が普及しにくく、結局現在のような無神論者が多く住む国となったのであろう。…

 やがて琴姫は筑波邑で五人目の子を生み、久自邑に戻ってきた。

 琴姫は既に八つの部族の神として崇められ、父佐竹毛人もその信徒と化している。琴姫の巫女としての呪術の能力は群を抜いている。しかもいつまでも変わらぬ美貌と人々を虜にさせる不思議な能力が備わっていた。それは琴姫の発する声であったり、匂いであったり、妖艶な踊りであったりする。

 いつの間にか常陸の民草は佐竹毛人のことを佐竹翁と呼び、琴姫のことをこそ佐竹毛人と呼ぶようになっていた。――


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