三の三
「おかしいな、何も変なことはなかったぞ」
タケルは先に渡った三太夫を覗き込む。
「そうですな、大鷲が出るでもなし、崖が崩れる様子もありませんでしたな・・」
三太夫も仕掛けるなら絶好の場所と思っていたようだ。そして、弟彦も無事渡り終えた。
三人はしばし休んで行き先などを確認してから海沿いを南に進んだ。沼は入り江近くの湿地の中に散在すると安倍首は話していた。
小さな川(朝比奈川)の浅瀬を渡ってしばらく行くと、景色は枯れ草色に繁った芒や葦の原に変わってきた。肌寒い西北の風が吹きつけてきて、生き物の気配は何も感じない。本当に化け物でも出そうな妖気が漂ってきた。
後ろを来る弟彦が何故か遅れがちになる。
「弟彦、どうしたんだ、いやに遅れるな」
タケルが振り返った。
「主、な、何か寂しげなところですね、ここは・・」
「おい、震えてるのか、弟彦」
「い、いいえ、そんな事はありませんが、邪悪な神と聞いては・・」
「ははは、何も怖がる事はない、落ち着いて見極めることが大事だ。神が理由も無く災いを起こすことなどあり得ようか。もしそんな事をするものならそれは最早神ではない、必ず倒せる」
「ははぁ、なるほど、そう考えれば気が楽ですな、ははは・・」
声はまだ震えている。
やがて柳の木が数本立ち並ぶ隙間越しに、水辺が見えてきた。安倍首の話した通り、確かに沼であった。三人は沼に近づきしゃがんで柳の木陰から水中を窺った。じっと水面を見つめるが何の気配も感じられない。
「人の形をしていると言うが、まさか水中に住んでいる訳でもなかろうが・・」
タケルは小声で呟くと、小石を掴んで沼に放り込んでみた。石は水の上を滑るように跳ね飛び、やがてチャポンと沈んだ。
その時、皆がじっと目を凝らしていると、
ジャポン
と水が大きく跳ね上がった。
「うわぁ、出たぁ」
弟彦が仰天して尻餅をついた。
「阿呆めが、弟彦、大声など上げよって、みっともないぞ。良く見ろ、大きな魚が飛び跳ねただけだ」
と、三太夫が制止した。
「そ、そうなんですか」
弟彦はまだ震えている。
タケルは笑いながら、
「どうも沼は関係ないようだな、周りを探して見ようか」
と、立ち上がった。良く見ると沼の側に土を踏み固めたような跡がある、道であった。とすれば人がいるはずと思い、
「おい、あっちだ」
と言って、進んで行った。
すると一町も歩かぬうちに伏屋根の家が数十戸点在する村が見つかった。様子を覗えば、どう見てもごく普通の民草の住む村である。
「三太夫、弟彦、物見だ」とタケルが命じた。
「はは」と言って二人は散った。
タケルは芒の陰に隠れて道端に腰を下ろした。
(あるいはこの村が害をもたらす土蜘蛛の根城なのかな。それにしては防御も何も施されている様子がない。争いを好む村とは思えんがな・・)
芒の穂を抜き、根元を剥いて口に咥えて村の様子を見ているタケルは、無意識に奥歯の洞穴をいじっては顔をしかめた。
すると、
「むむ、何だ、この臭いは・・」
きな臭いにおいに気が付いて、思わず立ち上がったタケルは、後ろを振り返ってみて驚いた。北東から南西へと横一線に白い煙を上げながら赤い炎が立ち昇り、こちらに向かってもやもやと流れてくるではないか。芒ヶ原に火が付いたのだ。
思わず芒を吐き出して、
「これは大変だ」
タケルは慌てて村へと走り出し、
「火事だー、火事だぞー!」
と、触れ回った。
村人達も驚いて飛び出してくる。皆おろおろして怖がるばかりで、どうしてよいか分からない。
この村は海沿いにあるため、芒などで囲まれている。しかも風上から芒ヶ原を舐めるように火が近づいてくるのであった。逃げ道は海しかない。しかし舟は足りないし、飛び込むには水は最早冷たい。火の手を止めない限り村は丸焼けになること必定である。
出てきた村人の中にはタケルが見覚えのある者達も混じっていた。弟橘姫を拉致しようとしていた者達である。しかし今は構っていられない、ただちに背中の天叢雲剱を取り出し、片膝突いて剱を両手で掲げ、目を瞑って祈り始めた。
そしてふっと開眼したタケルは、
「皆の者、よいか逃げても無駄だ、この先は海だ、行き止まりだ。ここで火を食い止めるのだ。芒を、草を刈るのだ、燃える物が尽きるように空き地を作れ、急げ」
と、大声で皆に命じた。タケルは剱を大きく横に払いながら火に向かっていく。三太夫や弟彦も随う。慌てて皆も家に飛び込み得物を手にして取って返し、枯れ野に走り寄って草を刈り取り始めた。
忽ちのうちに五メートルほどの幅で刈り取った芒や草の山が風上側に集められて、ずらっと横一列に連なった。
タケルはよしと言ってパチンと剱を背の鞘に戻し、皆に向かって叫んだ。
「切った枯れ草に火をかけよ、燃やすのだ、急げ」
と叫ぶが早いか、しゃがみ込んで懐から火打石を取り出し、火を付け始めた。
皆は仰天した。
「そんな事をしたら、益々火が速く廻るのではねぇか」
「なんてことするだ」
「やめてくれ」
などと、皆が口々に騒ぎ出したが、タケルを止める事は出来ない。不思議な事に枯れ草の僅かに残った水気を吸い取ったかのように背中の天叢雲剱がキラキラと輝いていた。村人はそれを見て竦んでいるのである。何の事はない、剱を包む錦糸の袋が、火明かりを反射して輝いているだけであった。
三太夫も、
「なるほど、分かり申した。弟、火を付けろ」
と、言って、火を付け始めた。そして何が何だか解らぬままに皆も従い、火を付け始めた。迎え火である。皆は後ろに退き、祈る思いで赤く燃える火を見つめ続ける。
やがて火はこの刈り取ったところで、見事に止まって、皆が救われた。火が下火になった頃、皆、歓呼してこの若者、ヤマトタケルを讃えた。
三太夫と弟彦は燃えかすの始末に奔走している。まだあちこちに燻ぶりが残り危険な状態であった。村人達も手伝っている。
この村のおさらしき老人がタケルに近寄って来た。五十半ばという年恰好の顔じゅう皺だらけで細く切れ長の目を持った初老の男である。額を木綿で縛った白髪混じりの髪、痩せた体に纏った枯れ草色の単衣の重ね着に長褌姿、貝殻を散りばめた首飾りをして、杖を突いて毛皮の靴を履いている。
「どなたか知りませぬが村を救って頂き、有り難う御座います」
「とんでもないことです。われらこそ助かりました。汝はこの村のおさですな」
「はい、庵原の長老と呼ばれております」
「おお、するとこの村が庵原村でしたか。なるほど葦の茂る村ですな」
庵原という地名は葦の生い茂る原野に由来する。
「吾はヤマトタケルと申します」
「何と、あなたがあの熊曾を退治したというヤマトタケルの命でおわしますか」
へへーっと、長老は後ずさって深深と九拝した。周りの者もそれを聞き付け、手を休めて九拝した。
「ああ、皆、頭を上げて下され、それほどの者では御座らん。ところで、この沼地付近に悪い神が棲むと聞いて参ったのですが、御存知でしょうか」
「何の事で御座いましょう、この辺にはわしらしか住んでおりませぬが」
「やはりそうでしたか。どうやら安倍首の謀略のようですな」
タケルはここに至ってどうも安倍首という男はひどく悪賢い奴と思えてきた。
「安倍の長者ですな。まあ立ち話も何ですから、どうぞこちらへおいで下さい」
長老はタケルを自分の家の前にある井戸端に連れて行き、側の丸太に座って話し出した。すると側にいた長老の妻らしき老婆が井戸の水を湿した手拭いを差し出し、
「どうぞお使い下さい」と、タケルに渡した。
「ああ、これは有り難い、使わせて頂きます」
長老も手拭いを受け取り、二人とも汚れを拭いながら話しだした。
「安倍の長者はここのところ何故か分からんのですが、わしらの土地を荒らしに来るので御座います。大井川に川舟を出して漁をしているところを弓で脅して追われた者もいますし、海辺でも舟に穴を空けられたりしたことが度々あって、ほとほと困っておるのですわ」
「そんな悪戯を」
「悪戯では済みません、わしら漁師ですからな、舟は命ですぞ、勘弁出来ませんわい。そこで先手を取って安倍の長者の大事なものを取り上げて、言う事を聞かせようとしたのですが、変な奴らに邪魔されましてな、失敗しましたのじゃ」
「大事な物とはなんです」
「娘っ子ですわ、弟橘姫とかいう妃がおりましてな・・」
「おっと、ではあの時、碓水・・」
タケルはいつの間にか弟橘姫の事を碓水と呼んでいた。
「いや弟橘姫を連れ去ろうとしていたのは、ここの者達でしたか」
「へえ? ではあの強い奴らとはあなた方でしたか、これは偉いことを・・」
「いやそういう事情とは知りませんでした。そういえばあの時の者達を先ほど見かけましたが、少々やり過ぎたようで申しわけありません。ですが、あの者達は弟橘姫を縛ったまま手込めに致さんとしていたため、捨てておけずに助けた次第で御座います」
「なんと左様な事を、知りませんでした。それでは指を落とされても仕方がありません、天罰が下ったのですわい、ははは」
「おっと、こうしてはおれぬ。安倍首の事だ、われらと共にこの村ごと焼こうと謀った以上、捨ておけぬ。仲間の事が案じられてならぬゆえ、吾は直ちに屋敷に戻ります」
タケルは立ち上がって、走りかけた。
「お待ち下され、わしらにも手伝わせて下され」
と、長老も立ち上がる。
事態は急を要する、人を集めて手早く作戦を纏めた。そしてタケル、三太夫、弟彦が先発して燃え残る野を疾風の如く走り抜けていった。村では再び芒や湿った草を刈り集めて、遠くから見えるように煙を上げさせた。まだ火攻めが続いていると見せかけるためである。




