三の二
こんな楽しい日々も何度か過ぎたころ、吉備臣達の船出の朝となった。珍しく朝靄の立ち込める涼しい朝だ。
都へは遠津淡海の村人からもらった鰻の干物、三保の松原の茸の漬物や松茸などに、久米八の書いた調理法を記した竹簡を添える。また倭への批准の証となったものを添えて、乳返稲置の報告書を帝に届けるのである。
皆が吉備臣達の船出を見送るために、宿舎の前庭に集まっていた。吉備臣達も支度万端整い、縁に座って旅姿のまま控えている。その前で二頭の馬に、弟彦と稲目がせっせと荷を積み込んでいる。
そこへ久米八が大股で歩いてきて、
「ああ、弟はんや、これも頼むで、大事な物やから奥にしまってや」
「久米八どんの虎の巻だね、確かに。ここにこうして入れとけば・・」
弟彦は馬の背に付けた熊の毛皮の袋に竹簡の束をギュッと押しこんだ。
「これで安心だ、ははは」
「よっしゃあ、いい按排だ。その調子で船まで持ってってぇな、頼むで」
「分かってますって」
弟彦が応じた。
タケルは弟彦達の姿をじっと腕組みして見つめながら、その向こう側に控える吉備臣や大伴連達との別れに、思いを馳せている。眼が知らずに赤く充血してくるのであった。この次はいつ会えるのか、どうか無事でいて欲しいと互いに意識し合っているのである。
この時代は愚か、これより千年も時代が進んでも、海での移動には危険が伴った。三度に一度は遭難を覚悟しなければならないほどである。それゆえに船乗りにはそれだけの勇気がなければならず、自ずと尊敬が集まるものであった。水を怖がる今のタケルには到底敵わないことであろう。
「兄上、どうか御無事で。大伴連殿、兄上を頼みますぞ」
タケルは近寄って二人の手を取って別れを惜しんだ。
第二部隊には都に戻った後、次の寄港予定地の御浦まで行って、相模国や武蔵国を調べていてくれと命じている。御浦とは現在の川崎市付近から三浦半島一帯を指す。
浦とは一般に入り江の事をいう。実は御浦とは当時まだその地名がなかったのだが、下調べをした際に入り江のたくさんある地域の話が出たため、調べた者がヤマトタケルの一行はいずれこの入り江から船出をせねばならんと悟り、尊き方の立ち寄る予定地の意味で御浦と名付けたもので、地図にもそう記されている。
乳返稲置が横立と知立夫婦を見て、
「この先の道の険しさが予想出来る。この際船旅に切り替えてはどうかね」
と話した。皆も相槌を打つが、
「おりは嫌だね、船は嫌だ。船なんか乗ってたら、ゲロばかり吐くでな、死んだ方がましだわい」
知立は陸を行くと言って聞かない。知立は幼い頃に舟で遭難した思い出があった。
横立は船にしたかったので、またいつもの夫婦喧嘩が始まった。
「この婆ぁ、おめぇは何でわしに付いてこねぇと言うだ。さては、おめぇ、あの泥鰌掬い野郎に惚れてるだな」
「何を言うだ、あんだ、情けねぇこと言うでねぇだ」
「まあまあ、二人とも落ち着いて、朝っぱらからそう興奮せんと、な・・」
七掬脛の久米八が宥めに入るが、
「なにお、この泥鰌掬い野郎が」
と、横立が久米八をぽかっと殴った。殴られて怒った久米八が、
「痛いわい、爺様。いったいわしがなにを・・」
と掴みかかり、取っ組み合いになってきた。三つ巴の喧嘩を、どうにか乳返稲置が間に入って宥めすかした。
横立は知立がよく久米八と親しそうに話をしていることで、焼き餅を焼いているのである。それでいて横立も久米八に嫌な感じはしておらず、仲は悪くはなかったから不思議なものだ。久米八の明るい性格が人を惹き付けるのかもしれない。知立にとっては船が怖いのと、美味しい物を食いたいがために、久米八と一緒に居たいだけなのだ。
とりあえず各部隊の人員はこのまま変えずに、二手に分かれた。弟彦と稲目が港までの荷運びを手伝って、船は西へと出航した。
はたしてタケル達が御浦の地まで辿り着くのはいつごろになるのであろうか。タケル達は皆、この先の険しさを全く知らないでいた。
夏も終わり秋も深まってきた。吉備臣達も去り、この地に残るタケルの一行は十人のみとなった。そろそろ東に向かってくれるだろうと思っていた安倍首は、タケル達が一向に腰を上げずに領内を手分けして調べていることに不安を感じた。
屋敷の奥まった自室で、安倍首は渋面を作って板敷を行ったり来たり歩き回り、ええい、と一つ咳払いをして円座にぶっつわった。
そこへ朝夷の翁がつかつかとやってきた。主の様子を見るなり、くくくと笑い、
「お呼びで御座いましょうか」
と告げた。
「遅いぞ、爺、これへ来て座れ」
「はは」と言って、朝夷の翁は摺り足で近寄り、円座に座った。
「どうしたものかな、ヤマトタケル達は全く出て行こうとせんではないか」
「左様ですな。ですが、何もないと分かれば立ち去りますわい、左様に心配なさりますな。例の物は見つかりっこありません」
「そうは思うのだがな、どうにも気が休まらんわ。あいつらを追い出すいい考えはないものか」
「そうですな・・」
と、朝夷の翁は腕組みして首をひねった。
「これだ、これは良い。これなれば一石二鳥となること請け合いで御座る」
「何だその考えとは、早く申せ」
「はは、お耳を拝借」
ズズッと朝夷の翁が摺り寄り、声をひそめた。
ある晩秋の夕暮れ時、珍しくタケルは安倍首に酒肴に誘われた。ほかの者を交えず、折り入って頼みがあるというのだ。安倍首の自室で、火桶を囲んで向かい合う。鉄製の五徳の上には酒が入った土瓶がかけてある。
「御子様、ささ、熱いのを一杯どうです」
と、安倍首は酌をしようと土瓶を持ち上げた。
「はい、では頂きます」
タケルは置いてある爵(三本足の酒器)を掴んだ。
「少し寒くなってきたので、熱いのでないとね」
安倍首はタケルに酌をし、そして自分にも注いで、互いに軽く爵を合わせて一口に飲んだ。
「実はですな、南西の危険な崖道、わしらは崩れ山(大崩海岸)と呼んでいますがな。その崩れ山を過ぎたところに芒ヶ原という広い荒れ野が御座いますが、ここに沼が御座ってな、凶暴な神が棲むと言います。人の姿をしてはいますが、野蛮な神でしてな、収穫祝いの頃になると、われらの村を襲いに来るので御座います」
安倍首は酒をまた注いで、ググッとあおった。神を獣であるかのような言い方をした事に、タケルは幾分抵抗があった。しかし、何かいつもの安倍首とは違う、目を腫らせ、俯き加減で淋しげな様子。鼻水をすすって、さらに続ける。
「十年ほど前ですか、幼いわが娘が連れ去られました、戻りませなんだ。毎年の事でしてな、これにはほとほと困っております。神様のことゆえ、剛の者を雇っても祟りを怖がって皆尻込みしますのじゃ。どうか御子様の御威光をもって、何とか退治して貰えないかと思いましてな。いかがで御座いましょう」
まさか神の仕業などとは信用出来ない話だが、あながち嘘の涙とも思えない。仮に演技だとしても、調べるべきであろうとタケルは思った。弟橘姫の事もあり、タケルは吉備臣が信用したほどには安倍首や朝夷の翁を信用してはいない。
タケルは三太夫と弟彦を連れ、早速行ってみる事にした。
秋も深まり木枯らしが舞い、肌寒い朝であった。支度を整えていると、弟橘姫が近寄ってきて側に座り、手を合わせて、
「御子様、お願いです、みんなも一緒に連れて行って下さい。ここに留まるのは不安でなりません」
と、哀願した。
「それはいかん、行く先に何が起こるか分からんのだ。おとなしくここで待っていなさい」
「でも・・」
「心配は要らん、ここには稲目や、乳返稲置、久米八と三人の強者がおるのだ、滅多な事はあるまい。頼みましたぞ、皆の衆」
「ははっ」と、威勢のよい返事が響く。
仕方なく塞ぎ込む弟橘姫は、恨めしそうにタケルを見つめている。
こうして、かつてやって来た道を半日分ほど戻る事になった。何かあるとすればあの険しい崖道、崩れ山か、あるいは本当に悪神ならぬ、土蜘蛛達が棲む沼があるのかもしれない、そうタケルは思った。
日差しがだいぶ高くなった頃、例の崩れ山の入口にやってきた。タケルは立ち止まって二人を見た。
「ここから先、何か起こるかもしれんぞ、二人とも十分用心せよ」
「ははっ」と、三太夫。
「心得ました」弟彦も気を引き締めた。
向きを変え、ふとタケルは脇に目が行った。
「おや、この間の祠がまだあるぞ。三太夫、弟彦、今一度祈ってから進むとしよう」
「そうですな、神は怖いですからな」
そういうと三人は地べたに座り込み、黙祷をして願いを込め、柏手を打った。
「よし、行くか。念のため、固まらずに二間ぐらい間を空けて進もう。先頭は三太夫だ」
「はは」と、三太夫が歩きだした。
そして、タケル、弟彦と続いた。三人は用心深く耳を澄ませながら進む。しかし、神に祈ったのが効いたのか、全く何も起こらない。とうとう渡り終えてしまった。




