三の一
三
一行は浮橋山を下り、浜辺に添って山の周りを南から東、そして北へと回っていった。すぐ側に清水の港があり、大小たくさんの船が横付けされている。三保の松原という天然の防波堤を備えた幅数百メートル、奥行き数キロメートルに及ぶ港である。山上から見た時、見覚えのある船が停泊している事をタケルは気付いていた。
港を北に進むと、急に西に向かう大きな道に出た。一行はその直道に添って浮橋山の北麓に向かった。直道は山の入口に通じ、入口には大きな山型の鳥居があり、それを潜ると参道沿いに広い敷地を持った屋敷が建ち並んでいる。
(見事なものだ、纏向にも匹敵するほどの屋敷街だ。高床の家ばかりで、伏屋根で掘り穴の家など一つもない)
タケルは頻りに感心している。
奥まったひと際大きな屋敷の前にやってきた。都ばりの四脚門があり、門番が二人、道を睨みつけている。
皆が立ち止まり、取り次ぐために三太夫がつかつかと近寄ると、
「通れ」
と、首を横に振って宣わる。あっちへ通り過ぎろと言っているのである。薄汚れた旅人達が宿でも求めに来た、とでも思ったのであろうか。
些かむっとした三太夫は、
「われらは倭の帝の使者なるぞ」
と、横柄に応えた。
門番は吃驚して口が利けないでいる。
「ヤマトタケルの命にあらせられる」
畳み掛けるように三太夫が後ろに立つタケルを紹介した。
「はっ、ははぁー、これは失礼を致しました」
と、一歩下がって謝りながらお辞儀をし、
「よくぞお越しになりました。わが主も歓迎致しております。ただ今取次ますのでしばしお待ち下さい」
そう言って門番の一人が慌てて中に走って行く。
皆がしばし門を潜って佇んでいる。屋敷内をキョロキョロ眺めているタケルは、
(この敷地の広さ、建物の豪華さはどうだ、なんとも豊かな国と見えるな)
と目を見張った。振り返ると皆も同じ表情をしている。物成りの良さそうな温暖な土地のお陰であり、皆が豊かなのであろう。
タケルはふと西国の阿蘇の地を思ってしまった。
(皆が飢えて苦しんでいたあの土地に比べ、この土地の豊かさはどうだ、格段の隔たりがある。何ゆえに天地の動きはこうも人を苦しめるものなのか、天の行ないは人智を見定めて行なっているのだろうか)
と、疑ってしまった。そうあって欲しいとは思ったのだが。
この時代、神の心は良き人心に靡くと考えられていた。ゆえに、良き実りのある土地は神に祝福された土地ということになる。タケルはこの地の豊かさを見て、安倍の長者の仁徳の高さを思った。少なくともこれほどの豊かな国を創るにはそれだけの政治力や軍事力がなければならない。
(余程民草から信頼されている長者なのであろう。娘の話した悪行は何かの間違いではなかろうか)
そう思えた。
やがて懐かしい友の姿。隣家から吉備臣建彦が走ってきたのである。柄にもなくはしたない姿、あとから大伴連達もにこやかな顔をして近づいてくる。皆が穏やかな顔を揃えている。タケルはほっとして義兄と手を取り合った。
「御子殿、お久しゅう御座る」
「兄上こそ、お元気そうで」
「ははは、御無事で何より、皆も無事で何よりじゃ、ささ、奥へ参りましょう」
すると、前方に、また人垣が現れて、皆が首を垂れて九拝している。
「兄上、あれは」
「ああ、安倍の長者達で御座る」
と言って、歩み寄り、
「皆の衆、御紹介致します、これなるは安倍首、西駿河国の造に任命した方です。そして、その執事、朝夷の翁殿で御座います」
タケルの見込み通り、吉備臣は安倍の長者を西駿河国の造に任命し、首の姓を与えていた。
恐縮してタケル達は整列し、
「ヤマトタケルで御座います。右に控えるはわが家臣達。お会い出来て光栄で御座います」
と言って、打ち揃って九拝した。
「ようこそお出で下された。あの熊曾を退治なされたヤマトタケルの命をお迎え出来てこちらこそ光栄の至りで御座る。今宵はこの駿河の旨い物をたんと召し上がり下されや。ささ、まずはお部屋を用意致しましたのでゆるりとお寛ぎ下され」
こうして一行は吉備臣達と同じ客人用の屋敷の別棟に逗留することになった。弟橘姫はまだ話がどうなるかも分からぬため、途中で立ち寄った吉備臣隊の船に匿ってもらっている。船には常時三人の見張りが待機している。
西日の頃となり、大広間に篝火を煌々と灯し、安倍首の持て成しを受けた。吉備臣達八人も同席している。上座には高所に榊を添えた祭壇が祭られていて、上座から見て右側にタケル、吉備臣、大伴連などが並び、左側には安倍首、その妃、朝夷の翁などが並ぶ。
妃が一人列席しているが、奥方や子息の姿は見当たらない。
駿河の海の魚介を使って、色々な料理を久米八が水仕を使って作り、披露する。ついでに水仕達がこの土地独特の料理である、魚の佃煮や焼き魚の酢橘添えなどを披露した。橘という柑橘類は太古の昔からあるこの地方の特産物だったが、あまりに酸味が強くて食用には向かない。ただ塩の代わりの味付けにはよく使われた。
タケルは酔ってしまう前に大事な用件にけりを付けようと、思い切って話を切り出した。
「長者殿、実はあなたの妃、弟橘姫は、今日の昼頃賊どもにかどわかされていたところを、われらがお助け致した。姫はわが手の内に匿っておる」
「なんと、そ、それは驚きました。どこに行ったのかと心配し、探させておるところで御座いました、有り難う御座います」
「いや、礼を言われると話しづらいのだが・・実は弟橘姫は吾のもとに居たいと申しておる。いかがで御座ろう、弟橘姫を解放してはくれまいかな。是非に、お頼み申す」
「そ、それは・・」
寝耳に水の話に、安倍首は狼狽した。
「弟橘姫の気持ちを察して頂きたい。汝は弟橘姫の両親の仇だそうではないか、汝と共に暮らすことが辛くてならないと言うのだよ」
しばし沈黙する安倍首。タケルはじっと安倍首の目を見つめ、返答を待つ。周りの皆まで今の話を聞いて、盃の手が止まってしまった。顔を紅潮させ、目を腫らせて俯く安倍首だったが、この場の空気にはたと気づき、顔を上げた。
「畏まりました。ヤマトタケルの命のお気に召すままに致します。姫もさぞ光栄で御座いましょう」
「おお、御承知下さるか、さすがはわが兄の見初めたお方、お礼を申します」
タケルは居ずまいを正し、九拝した。
腹の内は煮えくり返る思いであろうが、丸顔で垂れ目、頬もでっぷりと太った顔立ちからは窺い知れない。酔ってしまった後であったれば危険だったかもしれない。そう思えるほどにこの時の安倍首には怒気がみなぎっていた。
畳み掛けるようにタケルが続ける。
「その度量の大きさこそ、人の上に立つお方で御座る。安倍首こそ西駿河国の造として、きっと民を良き方へ導いて下さることと存じます。ささ、酒を交わしましょうぞ」
タケルは盃を掲げ、皆と共に酒を飲み干した。タケルのあまりの褒め方に、憤っていた安倍首も思わずいい気分となり、つい盃を交わしてしまうのであった。
何ゆえに依姫という名である事をもって弟橘姫を説得しなかったのか不可解である。事に依ると安倍首はその事実をずっと忘れてしまっていたのかもしれない。あるいは真っ赤な嘘だったから、切り出せなかったのか。
宴は七掬脛こと久米八の泥鰌掬いの踊りも飛び出し、和やかに進んでお開きとなった。
晴れて自由の身となった弟橘姫は、翌日から早速屋敷に戻り、常にタケルの側に寄り添うように侍り、安倍首を避けるようにしていた。橘邑に居た時からのお付きの女丁お松も共にタケルの一行に加わることになった。
豊作祈願の祭りの日がやってきた。朝早くから裏山の祭事場で安倍首が邑の主だった者を集めて神に祈りを捧げる。
安倍首の屋敷の裏門を抜けるとすぐにまた山門があり、その奥に山を背にして祭壇がある。こんもりとした小高い山の祭壇で、幅の広い石段が付いている。普段は高台の庭にすぎないが、雨乞いとか豊作祈願の時には高台上に大篝や榊の枝が据えられる。
祭壇上では朝夷の翁が巫を務め、その後ろで安倍首がじっと黙祷をしている。村人やタケル達も石段の下に横に広がって並び、祈っている。普段は誰も入れない祭事場であるが、この日ばかりは皆が集まって祈りを捧げるのである。
ほんの四半刻あまりで式も終わり、ここで分けてもらった榊の枝を持ち帰り、民はそれぞれの田畑に行って続きのお祭りを行なう仕来りである。
屋敷に戻ってきた後、タケルはふと皆に告げる。
「おおい、みんな、松原まで潮干狩りか茸狩りにでも行こうか。行きたい者は集まれ」
「この暑いのにですか、勘弁して下されや」
と、気のない返事をする三太夫。
「御子殿、われらは支度がありますのでこれにてお暇致します」
と、吉備臣達も断った。吉備臣達第二部隊の面々は船出の支度で忙しかった。ちょうどいい風の季節なので一度都に報告に戻り、ついでにこれまで見知った名産品などを届けることにしたのである。
結局行くのはタケル、弟橘姫にお松、久米八、横立、知立、そして護衛役の弟彦の七人だった。夏ということもあり、皆薄い上下一枚しか着ていない。その中でタケルと弟彦だけは武器を装備している。皆が竹籠と杖を携えていそいそと出かけた。
歩きながら、子供のようにはしゃぐ弟橘姫に、タケルは些か面食らった。本当は至極明るい娘なのであった。まだ十七ほどの娘だというのに安倍首は無理やり妃としていたとは嘆かわしい。何かの間違いかとも思ったが、吉備臣に聞くと、もともと安倍首の妃だったとかで、名も依姫だとか。襲われた時の記憶が鮮明であったために、安倍首を酷く嫌ってしまったのかもしれないと、タケルは思った。
しかし、当の弟橘姫は昔の記憶が飛んでいて、何も覚えていないという。仕方がないので聞きなれた弟橘姫という名前で皆が呼んでいるのであった。
三保の松原の浜辺に着くとタケル達はすかさず松の木陰に潜ってひと休みしている。
それを見た弟橘姫は、
「やあね、御子様ったら、そんなとこで休んでいると年寄り臭いわよ。さあ早く泳ぎましょうよ」
と言って、手を引っ張るが、
「いや、姫、吾は水は駄目だ、駄目なのだ。吾はこの松林で茸狩りを致す。姫は水遊びをたんとするがよい、んん。弟彦に久米八、姫達を頼むぞ」
「へい、畏まりました。はっはっは」
と、久米八が笑った。
「そんな、御子様ったら、水が怖いの、しょうがないお方。お松さん、泳ぐわよ」
弟橘姫はそのまま水辺に駈け出して行った。
タケルは弟橘姫の無邪気さに呆気に取られ、ただただ後姿を見つめているだけであった。陽光に照らされて光り輝く弟橘姫は、赤い衣をはためかせて飛び魚のように水に飛び込み、飛び跳ねながら泳いでいる。
タケルはいつの間にか弟橘姫の美しさと明るさに虜にされていた。それほどにこの娘には人を魅了する何かがあるのは確かである。今思うと初めて会った時のあの泣きじゃくっていた姿は一体何であったのか不思議でならない。
タケルや横立らは汗がひいたところでようやく茸を探し始めた。日陰を選び杖で落ち葉の陰などを物色し、時折海辺ではしゃぐ弟橘姫を振り返り見る。
そんな様子を目にして、知立が、
「若様、そんなに姫が気になるなら、海辺に遊びに行ったらよかんべがな、けけけ」
と、笑って冷やかす。
「ば、馬鹿な事を言う。吾には水難の相が付きまとうゆえ、水辺には近寄らん」
と言って、タケルは苦笑した。




