四の四
朝日が山の背を登り、屋根から地へ向かって櫓が少しずつ明るく輝き始めた。山鳥が目を覚ましたのかあちこちからピーピーと囀り合う声が聞こえてくる。じきに蝉も鳴きだすだろう。
櫓の上では蓆にくるまった男が眩い光に起こされて蓆を撥ね退けて、
「うう、あーあ」と、ひとつ大きく伸びをした。
立ち上がると、傍らで丸くなっているもう一人の男を見て、足で背をバシッと蹴飛ばす。
「ほれ、相棒、起きろ。今日あたりは危ねぇかもしれんぞ・・これ、起きんか」
「うう、もう少し寝かせてくれや、どうせ今日も何もねぇさ、のぉ・・」
と、またすぐ横を向いて寝息をかき始める。
「ちっ、しょうのねぇ奴だ、ほれ起きろ」
今度は足で頭を踏ん付けた。寝ている男は弾みで寝がえりをうったために、相手の足の裏を嗅いでしまう羽目となる。
「うう、くせぇ」
途端に男は跳ね起きた。
「ははは、やっと起きたな」
「もう、よせやい、変な起こし方しねぇで下せぇな」
「さっさと起きんからだ。さあ顔でも洗って備えるぞ、今日あたりは丘前の奴らも渇ききっとるから相当危ねぇ。うかと気を緩めて命を落とすようなことになるなよ」
小猿である。既にさつきの知らせで小碓ことヤマトタケルが自分の存在に気付いたことは知っていた。とすれば水の無い今、なんとしてもこの櫓を落として堰を壊しに来るに違いない。その時こそにっくきヤマトタケルを討つ絶好の機会だ、そう小猿は思っていた。大碓との死別以来、目を鍛え、五感を研ぎ澄ませて弓の技を磨いてきたのである。
これほどにヤマトタケルを憎む小猿には訳があった。未来を約束された大碓の一の家来として可愛がられた小猿は、大碓と大妃に他に例えようもないほどの恩義を感じていた。この二人のためなら死をも厭わんとさえ思って忠義を尽くしてきたのである。二人に命を救われたことは前にも述べたが、そればかりではなかった。
大碓は日頃から小猿にこう言っていた。
――小猿よ、汝は吾の片腕だ。吾が帝となった暁には汝を大伴連に任命したい。そしてこの日の本を汝と吾の力で一つにするのじゃ
大伴氏は当時の杖刀人の頭に当たる一族である。すなわち軍隊の長官に相当する。遥か昔は大久米の者達であった。神武大王の頃の海族、大久米(日本最初の近衛兵)と、景行大王の頃の大伴氏がどういう繋がりかは分からないが、共に同じ立場の人達である。
小猿は胸が躍った。
――一介の下僕にすぎぬ己が、日の本の礎を築く存在として後世に名が残るかもしれぬ。大碓命は誠実な人じゃ、虚言を吐くようなこともないし、決して人を裏切らぬ
そう思ったらどうしようもなくわくわくして血が騒ぐのだった。
ところが、そんな折に降って湧いたように大碓命の死の知らせを聞いた。この時ほど落胆したことはない。巷で噂されているような事実―大碓が帝の想い姫を寝取ったこと―はきっと何かの間違いに違いない、そう固く信じていた。肉親の死以上に失望したのではなかろうか。
あれほどに信頼が厚かった大妃に詰め寄られ、胸倉を掴まれて責められた。大妃は怒りのはけ口が無かったのだ。ただただ小猿の胸に縋り、泣きじゃくっていた。その時小猿は大妃に誓った、必ずや小碓命を討ち取ると。それ以外に己の生きる術はなくなったのだ。
小猿は相棒と共に梯子を下りて顔を洗いに行った。下はすぐ堰止めた川だ、水は満々と満ちている。
「ああー、いい気持ちだ」
顔を洗って、しばしじっとして深呼吸をしながら朝日を体中に注ぎ込む、丸で日の光を充填しているかのような仕草。
やがて竹筒に水を汲んでまた梯子を登って行く。櫓の丸太の隙間から所々朝日が射し込んで小猿の体に奇妙な格子縞模様が浮かぶ。
楼に上がり干し芋と干し肉を頬張りながら、辺り一面を見渡す小猿だが、異常はない。
「今日も来んのか・・」
その時ふと東の山並から何かがキラッと光ったように感じた。すかさず目を向けるが朝日が眩しくて何も見えない。
「おい、相棒、今何か光らなかったか、東の山だ」
「なんのこってす・・うう、眩しい、確かに光ったでやんす、旦那」
(阿呆めが)
と、言いそうになって思い留めた。実のところ自分でもはっきりしない。朝日が照り付けて眩しく光っている。対岸は光の帯に覆われて丸で見えない。何かすっきりしない気持ちのまま持ち場に付いた。
「南部戦線異状御座りませぬ」
と、唐突に相方がでかい声を上げた。
「この阿呆、おじゃらけてる場合じゃないわ、命を惜しめ」
ついにど突いてしまった。弓の腕はいいのだが、丸で酒でも食らっているような相棒であった。小猿は持ち場について南の川下に目をやった。小猿が干し肉を干芋にくるんで頬張っていると、川下ですっと何かが動いたように感じた。
「むむ・・」
しかし、見間違いだと茶化されるのが癪で思い留まっていると、また現れた。
「やや、何か居るぞ、間違いない。おい、相棒、備えよ」
「へ? へへぃ」
相棒は慌てて芋を口に積め込んで、弓を構えている。そして恐々と横目で、
「旦那、・・んが居たんで・・」
「おい、食いながらものを話すな。たった今岩陰に人の動くのを見た、きっと奴らじゃ、さっさと弓を構えろ」
「へへい」
そそくさと弓に矢を番えている。
先日ゴンが命を失った場所の岩場で、派手な朱色の布地が翻るのが小猿に見えたのだった。じっと目を凝らしていると、その布地を着た奴は水の枯れた川に跳ねるように入って行く。そして川の中央に立ち、僅かに残る水を浴びてる様子。
「居たぞ、撃て」
と、小猿が叫ぶ。二人は矢継ぎ早に打ち始めた。
ところがその者はすぐに立ち上がってささっと対岸に走りだした。ヒュ、ヒュッとその者の側を矢が通過していく。男なのか、女か、実に素早い。
「ああ、あいつは小碓じゃ、ヤマトタケルじゃ。奴を射殺せ、撃つのじゃ」
小猿は躍起になって矢を射続ける。タケルの側を二の矢、三の矢が追いかけてくる。しかし、タケルは対岸の茂みの中に消えてしまった。
「んんん、おのれ逃がしたか」
悔しがって地団太踏んだその時だった。対岸の森の中から矢が一斉に飛びかい、小猿達を襲う。
風を切る音を感じ、瞬間的に小猿は反応した。手で顔を覆いながら寝転がるほどに姿勢を低くし、一尺程しかない障壁の陰に滑り込んだ。
ヒュー、ヒューと矢が立て続けに飛んでくる。タタタッと欄干に当たった。
「あわわ、何だ」
相方は驚いて頭を抱えて梯子に向かうが、小猿の目の前でぐさっと喉に一矢が突き立ったかと思うと、タタタッと胸に矢が突き刺さった。そのまま仰向けになって、どさっと倒れこんた。小猿が相方を一瞥すると、目を剥いて死んでいるのが分かった。そして自分の足と肩に受けた矢を、歯を食いしばって無理やり引き抜いた。
「うぬ、どこだ」
小猿は寝転んだまま周りの気配を掴もうとする。矢はまだちらほら飛んでくる、動くのは危険だが見るなら今しかないと思い、さっと顔を上げて対岸に目をやりすぐに引っ込めた。
「この野郎め、丸で見えんではないか。このままでは殺られる、どうするかな」
考えていたその時であった。タタタ、タ、タッと、櫓の至る所に矢が中った。
「な、何だ、焦げ臭いぞ、奴ら火をつけやがったな」
小猿は万事休すと思い、思い切って立ちあがり、顔を覆って駆けだした。すかさず無数の矢が飛んでくる。背や脇腹に矢を受け、悲鳴を上げながら櫓から落ちていく。そして大きな水音をあげて小川に水没した。
櫓はピチピチと音を立てて燃え上がる。対岸の森で一斉に鬨の声が上がった。
その様子を川下の岩陰で見ていたタケルは、
「やったか、火の手が見えたぞ。おおい、もう渡っても良いぞ」
と大声で呼ばわった。乳返稲置と丘前の村おさが川を渡って来る。タケルは服を着替えて元に戻し、急ぎ猿投村に向かった。
小川の畔の傾斜地に僅かながら田畑が散らばる、その北側に森のような木々に囲まれた小さな村がある、これが猿投村であった。傾斜に沿って横に何列か家が並んでいる。側まで来ると鳥の鳴く声があちこちから朝を告げている。
三太夫の言った通り、三十戸ほどの伏屋根の家が並ぶ村だった。すると起き出してきた五十年配の村男が居た。乳返稲置が駈け寄って行くと、村男は驚いて家の中に逃げようとするところを、無理やり引き摺り出すようにしてものを尋ねる。
やがて乳返稲置が戻ってきて、
「御子様、一番上の奥が長老の家だそうです」と告げた。
「よし、急ごう」
タケルは皆を促し、急ぎ足で村の奥へと登って行く。道を訊かれた村男が不安そうに見つめて立っている。
三人は家の入口に立ち塞がった。タケルは乳返稲置に目配せをした。
「はは」と言って、乳返稲置が入口の蓆をめくって、
「御免下され、御免下され、猿投村の長老は居りますかな。長老、御在宅か」
と、大きな声を張り上げた。
家の者は驚いて顔を出した。六十前後の年寄りのお婆と爺様の二人だった。
「何事ですじゃ、こんな朝早くから。あなた方は誰じゃな」
と、爺様が応じる。
「あなたが長老か」
タケルが睨んだ。
「如何にもわしですじゃ」
タケルはすかさず刀を抜いて、刃を長老の鼻先に突きつけた。
「ひっ・・」
と言って、二人は腰を抜かしてしまった。
「水を止めたのは汝の仕業だな。なにゆえに水を一人占めにするのか、神の恵みたる水は皆が公平に使う権利があるはず」
「そ、それは・・・あなた方は丘前村の方で」
震えながら長老があべこべに問うてきた。
「そうだ、吾は小碓、ヤマトタケルだ。吾に遺恨があってのことなのか」
「ちょ、ちょっと待って下されや・・」
長老は座ったまま両手を上げて制するような仕草、ひどく狼狽し、恐縮している。そして哀願する如く語り出した。
「どうか許して下され。わしらはただ平穏に波風立たぬように暮らして行きたいだけで御座る。もともと今度のことは小猿一人が小碓命を恨んで、村の若いものを煽り立てて画策したことで御座います。わしら大碓命ゆかりの者達は小碓命に、多少の妬ましい心は御座いました。しかるに今はもう過ぎ去ったこと。小碓命、ひいては帝に反抗する気など全くないので御座います。どうか、どうか、この村を滅ぼさないで頂きたい」
村の皆もこぞって集まってきて、この様子を固唾を呑んで見守っている。その中にさつきもいた。
切々と述べる長老の姿にタケルも嘘はないと感じ、刀を引き、鞘に納めた。そして、
「それはよかった、吾も手荒なことはしたくない。長老殿、もうよい、立って下され」
と、手を差し伸べた。
長老は立ち上がり、もう一度素直に謝り、
「ただ、小猿の奴は堰を開かせてくれません・・開けようとすれば逆上してわしらとて殺されるかもしれぬのです・・」
「それは心配しなくてよい。堰は既に吾の手の者らが開けていることだろう。櫓に居たものは残念だが死んでもらった。吾らはあの小猿達の手に掛かって何人も犠牲になっておる、やらねばこちらがやられていたのだ、分かって欲しい」
「小猿が・・死んだので御座いますか」
そう言って、長老は淋しそうにタケルの後方に視線を移す。そこにさつきが居た。
「それは・・致し方御座いませんな」
さつきはこれを聞いてはっとして口に手を添えた。そしてそっと後ずさりし、秘かにこの場から消えた。
実を言うとさつきは長老の孫娘であった。代々長老の家系の者は村の巫を輩出している。さつきもその巫女の修行中の娘であった。巫女と言っても神社に努める巫女ではなく、占いや暦、草術(医術)などを心得ている者ということである。このような能力を持つ者は自ずから地位が高くなるのが人類の理である。
さつきの姿を目で追った長老は切なそうに話す。
「小猿には何度も説得を試みましたのじゃ。こんなことは良くない、必ず争いごとになるからやめてくれと。ですが言う事を聞かなかった。仲間が死ぬるということは悲しいことで御座るな」
「すまなかった、丁重に葬ってやって欲しい」
こうしてタケル達は猿投村との和解を取りつけることに成功した。
一方、さつきは泣きじゃくりながら小川の畔を歩き、櫓に向かっていた。すると偶然にあちこちに矢が刺さったまま川を流れてくる小猿を見つけ、急いで助け上げた。至る所傷だらけだったが、一命を取り留めた。さつきが草術を心得ていたことが大きかった。実はさつきは小猿の女房なのである。
翌日、タケルは猿投村の長老と丘前村の村おさを連れて御岳山の中腹に登り、水神様に捧げ物をしてお祭りし、その場で猿投村も倭に加わることを誓わせた。そして、この国を御河と名付け、丘前の村おさを御河国の造に任命し、猿投村もこれに従うように命じた。
なお大碓命の子孫については帝の意向次第となる事なので、タケルとしては知らなかったものとし、帝にも何も言わないことを約束し、今まで通りそこに住むことを許した。




