四の三
七日後の昼頃、タケル達は出発した。既に井戸も枯渇し、湧水も枯れ始め、民草達の疲労の色が濃い。久米八と横立、知立の三人を留守居役とし、タケルと乳返稲置、丘前村の村おさの三人は下を通り、三太夫、弟彦、稲目に村人を含めて十人は、弓を持って櫓の対岸の山に向かった。
皆は背に矢筒を担ぎ、腰には刀か長山刀を付け、右手に弓の杖を握っている。
三太夫達の道のりは急な断崖の獣道。満月であろうと、灯しも無い夜の移動には向いていない。先日の道案内の者を前にし、三太夫がそれに続き用心深く登って行く。
夕暮れ前に櫓の対岸に着いた。木々には三太夫が付けた印が刻んである。打ち合わせ通りに皆木に登り始めた、一本に二人ずつ登って行く。夜のうちはずっと下の方の枝に跨り、体を木に縛るように取り付いて仮眠に入った。地上は狼などの獣が危険で眠れないからである。
一方タケル達三人はまだ日のあるうちに例の岩場にやって来た。こちらも手頃な大木を見つけて二の枝や三の枝に登って早々と仮眠に入った。
こうして戦いは夜明けとともに開始された。
アルテミスがあくびをしながら起きて来た。
「おはようハデス、何か進展あった」
「御座いましたよ、アルテミス様」
「ええ、なに、なに、どうしたの」
「もうだいぶ進んでしまいましたから録画で見た方がよいでしょう」
「ええ、そうなの、やられた、惜しいことしちゃったわ。変な時間に何かするのやめてよね、全く・・」
アルテミスはいつものように飴をしゃぶりながら椅子に座った。
「ねぇハデス、ついでだから気になるところを見てから進もうよ。ずっと気になっていたんだけどね、どうして山の名前が猿投山なのかしら、変な名前よね」
アルテミスは独り言のように呟いている。
「なるほど、そこから行きますか・・では、始まりますよ、ごゆっくり」
やがてホログラムが目の前に流れだした。
七年ほど前に遡る、ちょうどタケルが出雲タケルと死闘を繰り広げていた頃である。
――景行三〇年(西暦一四五年)、田植えも終わった五月晴れの吉日、琵琶の湖に舟が三艘北東に向かっていた。馬も分乗して五頭ほどいる。皆旅姿で、総勢五十人ぐらいであろうか、女性も二十人ほど乗っている。
帝と倭姫の一行であった。神宮への引っ越しの道行である。あらかたの荷物などは先に運んでいたので、この舟では残りの物と人が移動することになる。帝や宮中の親族も落成式のために一緒に来ていた。
「ああ、よい日和で何よりじゃった」
帝は舟の中腹で、片膝立てて茣蓙に座って寛いでいる。
供の者も一様に座ってうたた寝をしている。琵琶湖の景色を見ながらのんびりしている帝であったが、ふと何かに気付いて周りにキョロキョロ視線を飛ばす。
「陛下、如何なされました」
と、側に座った八尺の大叔父が気を回した。
「ああ、そのな、吾の可愛い猿公殿が、どこに参ったかと思ってな」
と言いながら、指で鼻毛を抓んで、ピッと抜いては、口でふっと吹き飛ばしている。あまり見られた図ではない。
「さぁて、陛下のお飼いになっておられるお猿様で御座いますか、一向に見当たりませんが・・・」
八尺の大叔父も周りに視線を走らせると、
「おや、陛下、あれを御覧下さい」
と、指を差した。
思わず帝もその方向を見ると、日巫女の倭姫が何か具合悪そうな顔をして座っている。
帝が鼻毛をまた抜いて、ふっと吹き飛ばし、
「どうしたのじゃ、日巫女。何か具合が悪そうだが、舟に酔うたのかな」
と声を張り上げた。
倭姫が気付いて帝の方を向くと、やや顔を赤らめて、今度は倭姫の方が左手側を指差している。指差す方も見ずに、困った顔をして、両手の人差し指を突つくように動かしている。それに釣られて帝も八尺の大叔父も、そして周り中の者も、その方向に目を向けた。
「ああ、これは偉いことを・・」
八尺の大叔父が大声を上げた。
「何じゃ、大叔父、どうしたのじゃ・・・おお、吾の猿公殿ではないか、あんな所に・・」
あでやかな朱色の袖なし羽織(ちゃんちゃんこ)を着て、これも朱色の布の帽子を被った猿であった。帝の衣類とお揃いである。その猿が綺麗な紫紺の錦糸の布にくるまれた葛籠の上に片膝立ててしゃがんで、鼻毛をピッと抜いてはふっと吹き飛ばしている。
「ほっほ、猿公殿にも困ったものじゃ、吾の真似ばかりしておる、ははは」
「陛下、違いまする、よく御覧を」
「んん、何じゃ?」
帝は言われるまま何気なく猿の姿を上から下まで目で追った。
「ああ、な、何と言う事を!」
驚いて立ち上がった。
すると、傍らに座る大后が、
「あははははは、これはおかしいわさ、あははははは・・」
けらけらと甲高く大笑いした。皆も釣られて笑いさざめく。
真っ赤になって怒った帝が、
「ああ、これはいけない。大叔父、誰か、早くあの猿めを捕まえよ、何と言う事をしてくれたのだ」
と、大慌ての帝。
舟は大騒ぎとなった。猿は何が起こったのか分からない。人間が自分を捕まえようとするので舟の上を逃げ惑って、ちょろちょろ、ちょろちょろ。皆がはあはあ言って追いかけるが捕まらない。
猿はとうとう皆を恐れて主の帝の手に縋りついてきた。すかさず帝は腕を引っ掴んで、
「此奴め、やっと捕まえたぞ、この猿めが」
腕をきつく握ったまま、頭を拳でごつんと殴った。
猿は痛がって「キーキー」泣いて暴れ、挙句に帝の手や顔を爪で引っ掻いた。
「あいててて、この猿め、痛いではないか。おのれどうしてくれようか」
帝は猿をきつく捕まえたまま艫に向かって歩いていく。周りの者が下肥え担ぎでも通りかかった如く、ささっと散った。
「これ、猿公よ、汝れはど偉いことを仕出かしたのじゃ、許せんぞ。さあどこへでも行ってしまえ」
猿を湖の中にポーンと放り投げてしまった。
「キーキーキー・・・」
猿の鳴き声が尾を引いて響いてくる。
「まったく、何という縁起の悪いことをしてくれたのじゃ。これ、女ども、早くその汚いものを取り捨てよ、そして綺麗に拭いておくのじゃぞ」
猿は鼻毛を抜きながら何をしていたのか、どうやら大便の真っ最中だったらしい。しかも場所もあろうに三種の神器を納めた葛籠の上で、であった。
やがて米原の宿で上陸した一行は街道を東に向かい、大垣を目指した。そこから揖斐川を舟で下るのである。中央付近に馬に乗った大后や倭姫らと荷馬が歩き、最後尾付近を帝と八尺の大叔父が歩いている。
大叔父はちょくちょく後ろを向いては帝を見た。
「何じゃ、まだ付いてきているのか」
帝は不機嫌そうに言う。
「はい、考えてみるといじらしい奴で御座いますな。必死に泳いで主を追ってきたので御座いますぞ。どうか穏便に・・」
「黙れ、大叔父、そうはいくか。これから神宮に奉納するこの国の宝物の上に糞をたれたのだぞ、許せる訳がなかろう。だいいち御先祖様に申し訳がないわい。ええい、面白くもない。よいか、この事他に漏れぬように致せ、吾の恥になるでな」
帝は道端にしゃがみ込んで石を拾うと、後ろを向いて力いっぱい猿に放り投げた。石が猿のお腹の辺りをかすったのか、猿はまた、
「キーキー」
と、鳴いて逃げて行った。
そして二度と猿は姿を見せなくなった。――
「なーるほど、このお猿さんから取った名前か。でも変ねぇ、お猿さんは琵琶湖に捨てられたのに、何でここの山に・・・ああ、続きだわ」
アルテミスは、いつの間にかジュースを用意して、ストローをくわえている。
――ここは垂井の街道沿い、旅人達が行き交う伊富岐神社近くの広場であった。昼時という事もあり、松の木陰で弁当を食べるものが大勢いる。神社の参道付近に市が出来て、大層な人出で賑わっている。特定の時間に食事をするという習慣があった訳ではなく、見物のついでに何か腹に詰めておこうという程度であろう。
その広場の中央付近で、あでやかな袖なし羽織を着て布の帽子を被った猿が、松の木に繋がれて宙返りなどをして愛嬌を振り撒いている。口に鮮やかな紅まで注して。
側で商人風の男が口上をやっている。笊にどっさり蛤の貝殻があって、水瓶のような入れ物が置いてある。
さあさ、見てらっしゃい、聞いてらっしゃい
ここに御座なす猿公様は、恐れ多くも今を時めく天朝様の飼い猿様でおはします。
このたび天朝様が、神宮行幸なされる道行、事もあろうかこの猿公様は、三種の神器、入りたる葛籠をば、厠と間違え糞をたれた。
いや、天朝様の怒ったのなんの、お前なんぞどこえでも行ってしまえと、湖にポチャン
水に嵌った猿様は、主恋しと必死で泳ぐ
猿なのに、犬掻きとはこれ如何に。
どうにか岸に這い上がり、臭いを便りに追いかけた。
いじらしいではないか、許してやればいいものを、近づく猿様に、天朝様の石つぶて
あいたたた、脇腹擦ってすたこらさっさ
その猿様を助けてやったがこのわたし。どうだ、この猿様、可愛いであろう
素性の証はこの着ている服だ、天朝様とお揃いの錦糸の衣だ
この口に注したる紅を御覧なれ。猿公様を可愛い、いじらしいと思われるのなら、この紅は要らんかね。あの神宮の斎宮様が使っているという秘伝の紅だ
ひと付付ければ一つ若返る、二付けなら二つだ
さあさ、どうだ、どなたか買わないか
するとこの話に興味を持ったのか、人を分けて前に出てきた者が居た、小猿である。
「おい親爺、今の話は本当なのか」
「へい、いらっしゃい。本当も本当、天朝様の同行者が話していたことだ。琵琶湖を舟で渡っているとき、米原の港近くでの出来事らしいですぜ」
「ふーん、そいつぁ猿も困っただろうなぁ。よし、吾がその猿を買ってやろう、この刀一振りではどうだ」
「へぇ? 紅を買うのではないので。猿公は売り物ではないんですがね・・・」
「なあ、いいだろう、吾は小猿ってんだ、仲間の誼って奴だ、売ってくれよ。この刀はそんじょそこらの刀ではないぞ、三野の関で作った刀だ。垂井で作った玉鋼を使っている」
「へぇ、そんじゃあ鋼の刀かね、へぇー、青銅ではねぇんだね・・・どれどれ、ああこいつぁ違ぇねぇ、綺麗な波紋だ。よし、いいだろう、猿公様はお前さんにやるよ」
「決まりだな、はは。これ猿殿、今助けてやるぞ・・」
小猿は木に結わいだ紐を解いてやった。猿ははしゃいで宙返りを繰り返す。
そのまま紐を持って、小猿は東に向かった。
小猿は時々垂井の兄、大猿の元に訪ねてくるのである。大猿から、小碓ことヤマトタケルの命を恨むのはよせと言い聞かされていたのだが、どうしても許せない小猿であった。
小猿は伊福連の家来ではあったが、大碓付きの小者として派遣されていた者で、大碓から大層目を掛けられ、可愛がられていた。たまたま都の屋敷にいたので、小碓達の凶行の日の事は知らなかったのである。――
「納得、それであの山が猿投山なんだわ。きっとこのお猿さんがあの山に住みついたのね。村にまで猿投村と付けることないのにねぇ」
「はい、そうですね、帝を恨めしく思ったのかも知れませんね。この猿も大碓命と似たような境遇なので、可哀そうになったのでしょう」
「そうね、でもさ、帝も帝よねぇ。自分で飼っている猿の躾ぐらい、ちゃんとしなきゃねえ・・・さてと、そろそろ現代に戻らないと・・・」




