二の二
やがて夕暮れとなり、屋敷に戻った美夜受姫が父親の部屋にやってきた。格子状の窓から明かりが漏れている。
「父上、美夜受で御座います」
廊下の板敷に座って手をついてお辞儀し、様子を覗う。
「美夜受か、入りなさい」
すすっと引き戸を開けて中に入り、戸を閉めて立礼し、中央に進んで板の間に座った。
柱に据えられた灯しが揺らぐ中、乎止与は立ったまま振り返った。
「美夜受よ、汝は男と会っているそうだな。汝には既に決まったお方が居るというのに、何とも破廉恥なことをしてくれたな」
「も、申しわけ御座いません。ですが美夜受は、あのお方がいとしゅう御座います、どうか分かって下さいませ」
「何だと、では汝は伊福連の吾子と添いたくないと申すのか。左様な事が許される訳がなかろう。親戚とはいえ、伊福様は主筋といってよいお方じゃ。ああ、困ったぞ」
また頭を抱えている。そして、そろそろと頽れて円座に座り込む。
「で、その、何だ、汝とヤマトタケルの命とはどこまでいっておる、まさか肌を許してはおるまいな」
と、核心に迫った。
美夜受姫は黙ったまま下を向いて赤くなっている。
「何で黙っておる、汝はまさか」
乎止与は思わず立ち上がった。
「大それたことを・・ああ、困ったことをしてくれたわ」
「父上、お言葉ですが、わたくしが占ってみたところ、ヤマトタケルの命に嫁ぐ事は吉と出まして御座います・・」
「何をいい加減なことを、左様な事が信じられるか。今の汝の占いなどあてにならんわ。それに占いとは自分のことは当たらんという、そうであろう。出まかせを言うでない」
立ってあっちこっち歩き回る乎止与は、困り果てて腰に左手を当て、下唇を指で抓んで下ばかり見ている。
そして急に向き直ると、
「ともかくだ、汝は明日からしばらく謹慎を申しつける、家から一歩も出てはならん、よいな。これ以上不謹慎なまねは許さんぞ。吾は明日三野に参る、吾が三野から戻るまで、汝はじっとしておれ、よいな」
と、きつく命じた。こうして美夜受姫は奥座敷に軟禁され、豪の者二人に見張られて外出することが出来なくなった。
翌朝、乎止与は数人の従者を連れて三野に旅立った。あらん限りの土産物を持参している。表情は暗く沈み、何かを思いつめているようだ。
一方、熱田の男山にやってきたヤマトタケルは、約束の日に美夜受姫が中々来なくて心配になってきた。すると女丁のお秀がやってきて、事情を洗いざらい話した。
切株に座り、タケルは遥か前方の空を見上げて考え込んでいる。
「よし、相分かった、そう言うことか。しかし、吾は美夜受姫を忘れられん。乎止与命が帰ったら、いずれ改めて訪ねて行くと申してくれ。お使い御苦労であった」
そう言うとタケルは寂しげに去っていった。
そろそろ桜も見ごろである。梅が散り桜の蕾が色づく季節は急に辺りが暖かくなってきて、人の気持ちもウキウキしてくるものである。
従者が曳く馬に揺られ、欠伸のひとつも出ようかという表情の乎止与が、
「そう言えば、男山の桜は咲いたかのぉ」
何気なく独り言を言った。花の命を散らせるのも後十日ほどであろうか。花が散るとすぐに若葉が茂りだし、日光を燦々と取り込み、樹木にとって一番嬉しい季節がやってくる。出掛けた時とは打って変わり、のんびりムードの主従であった。
西三野の垂井から戻った後、旅装を着替えながら家来から様々な報告を受け、聞き流す乎止与は、余事を後回しにして真っ先に美夜受姫の部屋へ向かった。
「おお、美夜受、ただ今戻った。おとなしくしているようじゃな。狭い所にじっとしていて大変であったろう。勘弁しておくれ」
乎止与は不思議な事に晴れ晴れとした顔をしている。
いつになく優しい父に、美夜受姫は面食らって言葉が出ない。
その頃、今を盛りと咲く桜を見ながら、タケルはやきもきしながら日を送っていた。早く熱田に行き美夜受姫との婚儀の約束を取り決めたいのである。
そんなある日の朝、タケルは縁側に立って、外の二人を腕組みしながら見ている。側に七掬脛がにこにこしながら座っている。
「これ横立、まだか。はよぉ致さぬか」
タケルがせき立てる。
「へぇ、もうしばらくお待ちを」
横立は懐から石の入った袋を取り出した。
庭の真ん中付近に背中向きに立って、ちらちら後ろを向いては位置を決めている。
「ほれ、婆さんや、用意はいいか」
後ろを向いて知立を促した。
「いつでもええだよ」
知立は横立の二歩後ろに立ちタケル達の方を向いている。縁側から知立の足下まで線が引かれている。その中間に横線があり、全部で四つの領域が描かれている。そのどこに石が落ちるかで吉凶を占うのである。縁側の方角を北と看做し、知立の方から見て右手側が東、左手側が西となる。熱田はここからだと真東に当たる。
「では三回目行くぞ・・・ほれ、どうだ・・」
横立が石を後ろ側に大きく放った。三個の石が萱葺の屋根に当たって転がり落ちてくる。
「あいて・・あれま、あんた、石がおりの頭に落ちたが、いいのかいな」
「ああ、構わねぇだ、それも運気を決める元種だ。どこに落ちたかが分かればいい」
河原に落ちている丸い石で転がりやすい。なのにこれまで何度となく屋根に引っ掛かって落ちてこない時があった。そんな日は凶とされた。三個の石はそれぞれ色が違っていて、黒は凶相、褐色は吉相、白はその相を助長すると決められている。つまり黒の側に白の石が落ちると大凶となる。これが横立と知立の占い方であった。
こんな程度の占いで果たして当てになるのかどうかは分からない。占い方は人によって全く異なり、一子相伝となっている秘密事項である。人に知られない方法で占うのが常だが、この二人は至って無頓着だった。
今知立の頭に当たって落ちたのは白石で右の領域に落ちた、どちらかというと南東側である。そして褐色の石が東の線上にやや中心近くに落ちた。黒石は北の線上、やや東側に落ちている。
「どうだ、どうなのだ」
タケルが急かした。
横立が近づいて地面の石の配置を見ている。
「若、どうやら吉相で御座います、三回やって二回吉相が出ました。今日この日なら良き結果となりましょう」
「おお、そうか、やっと出たか、横立に知立、御苦労であった。よし、ではこれから行って参るぞ、七掬小父、一緒に参れ」
「へい、畏まって」
二人はあたふたと用意をし始めた。かれこれ五、六日ほど吉凶を占って、やっと出かけられる運びとなった。
こうしてタケルは正式に尾張国の造の屋敷を訪ねて行った。土産物をふんだんに持ち込み、腰を低くして頼み込んだところ、乎止与はにこにこしながら、二つ返事で了解した。なにやら拍子抜けの感があったが、タケルも美夜受姫も大いに喜んだ。
四、五日前のことである。美夜受姫の部屋で父の乎止与が、
――伊福様がの、お許し下されたのじゃ。汝は晴れてヤマトタケルの命の妻になれるぞ
――本当ですか父上!
――ああ、本当だとも、吾がひたすら謝りぬいて、勘弁してもらったのじゃ。伊福様も汝のことが残念じゃと申されたが、潔いお方じゃ。汝を一度も見せていなかったことが助かったわい。もし汝を目にすれば、さぞかし怒った事だろう
実はそれだけではないらしい、既に二十となっている伊福連の次男が、他に気に入ったものが出来て子まで孕ませているという。そういう事情から伊福連も困っていたらしい。子を孕んだ娘とは西三野の本巣国の造、大根王が娘、弟姫であった。弟姫は既に二十一になっている、しかも大碓の子以外に既に三人の子供がいた。三人とも伊福連の次男との間に出来た子であったのである。
ヤマトタケルと美夜受姫は正式に婚約し、旅から戻ったらこの地に屋敷を作って共に暮らそうと誓い合った。なお乎止与には子供は美夜受姫しか居なかった。兄が居たのだが幼い頃に病で亡くなっていたのである。はたして乎止与は誰にこの国を受け継がせるつもりなのであろうか。
タケルと美夜受姫が男山のいつもの場所で桜を見ていた時の事。はらはらと散る桜を見ながら、何故か美夜受姫は不安な心を隠せない。
「どうしたのだ、美夜受。吾はきっと無事に戻って参る、心配せんでよい」
「ですが、タケル様、何か嫌な予感がしてなりません、どうか呉呉もお気を付けになって下さいまし」
「ははは、少し気が早過ぎるぞ、旅立ちはまだだいぶ先だ。それにな」
と言って、タケルは背中を見せた。
「この天叢雲剱がある限り、吾は無事だ。日巫女様から授かったものだ、吾の守り刀だ」
「天叢雲剱・・・日巫女様とはどなたで御座います」
「ああ、言ってなかったかな、吾の叔母で倭姫命、伊勢の神宮の斎宮様だ」
「あれ、神宮の斎宮様、かねがね尊敬しているお方で御座います。そうでしたね、タケル様は皇室のお方で御座いました。わたくしともあろう者が、大変失礼を致しました」
「これ、左様な謙った言い方をせずともよい、片苦しくていかん。汝は素直にいつものように話せばよいのだ」
「あはは、御免なさい、でもこのような幸せが、いつまで続くかと・・・」
急に、口元に手をあてて暗い表情を作る美夜受姫は、愛しい人との逢瀬もあと僅かと思った途端、涙がこぼれ、止まらなくなった。
「これ、何を泣くか、吾はまだ死んでおらんぞ。吾は不死身だ、きっと戻って来るゆえ心配致すな。おお、泣き虫だな、美夜受は、ははは」
タケルは安心させるためにそう言って美夜受姫を慰めた。その代わり、一旦旅立ってからは、仕事が片付くまでは、決して美夜受姫と逢うまいと心に誓った。気力がくじけてしまうのを恐れたのである。
初めて美夜受姫にあった頃は、事に依ると倭姫の占いに出た女難の相とは美夜受姫のことではないかとさえ思ったタケルだが、
――そんな事はあるものか
と、今では信じて疑わない。
果たして戻って来られるものか、タケルの旅立ちはあと数月後と迫っている。運命とは一体誰が決めるものなのか、その歯車は着々と動き続けているのである。
梅雨の晴れ間のある日、タケルは熱田に向かう途中、いつもとは違い少し道を変えて北に向かった。七掬脛を連れている。清州という所の近くに、何か旨いものを食わせる村があると聞いたのである。清州は戦国時代の覇者織田信長の居城があった所である。
のんびり歩いているとやがて鬱蒼とした萱の茂る所に出っ食わした。尾張の夏はジメジメして堪らない暑さである。西に鈴鹿の山並、北に伊吹の山並、東は日本アルプスという三方を高い山で囲まれ、一ヶ所だけ開いた南の海側から湿った暖かい空気が濃尾の平野一帯に充満し、閉じ込められてしまうのである。
「おお、暑いのぉ、七掬小父、本当にこの辺りなのか」
「へぇ、確かにこの辺りの村だと聞いたんですが・・・若は少しここで休んでいなはれ、ちょっとその辺を見て参りますから」
「ああ、分かった、こう蒸し暑くては動くのもおっくうだ、頼むぞ」
七掬脛は萱原を大股で進んでいく。猫背なのであまり背が高く見えないが、足が長いので歩幅は広かった。
タケルは太刀を抜いてまだ青く繁った萱を薙ぎ始めた。そして薙いだ萱を積み上げて茣蓙代わりにしてどっかと腰を下ろし、手拭いで汗を拭いている。まだ日が高くなっていないので、萱に日差しが遮られて幾分涼しい。
しばらくして七掬脛が二人の村人を連れてやってきた。三十代と五十代の農婦である。ともに短袖の単衣に膝丈袴、現在のエプロンのような長い前掛けを付け、手拭いで頬被りをしている。
…ちなみに前掛けは古くからある女性の衣服であった。暑い時期の女性の袴は下着兼用―というより、平安の頃まで下着や外着という区分けが存在しない―であるから大事な部分を守るために前掛けが必要だった。それが次第に女性用の袴が消え失せ、前掛けが着物の形に変化した。『服装の歴史、一』理論社/村上信彦著を参考。…
「やあ、やあ、若、お待ちどう様で・・・ささ、あんさん達、用意してくれや」
「へい」と、威勢のいい返事。
農婦らは持ってきた土甕をタケルの前に置いた。
一方は水が入っていて、もう一方は地面に置いた途端に少し饐えたような臭いが漂った。
タケルは瞬間嫌な顔をして、鼻に手をあてた。中に丸い石が載っていて、その下に板が敷いてある。鼻を抓みながらタケルは何が始まるのか興味津津である。
石をどかして板を外すと中に萎びた野菜が沢山入っている。現在ならば言わずと知れた漬物である。年嵩の農婦が野菜を幾つか取り出し、さっと別の甕の水で洗っては若い方に渡す。若い農婦はまな板に載せて石刀でサクサクっと切り始めた。
「若、これは水神祭りで神様にお供えした物をお下げしてから頂くものだそうですよ。そうだったな」
「へぇ、左様で御座います、わしらの村では木曽川の川端で御神酒とこの塩漬けした物を供えておりますだ。前は作物をそのまま備えたそうですが、暑い時期だで腐りましてな。それ以来塩漬けにしたものを供えたといいます」
「なるほど塩漬けにすると腐らんのか、よい工夫だのぉ」
タケルも感心した。二人の仕草を見ているうちに何故か臭いが気にならなくなった。
「ささ、出来ました、どうぞ召し上がれ」
若い方がまな板ごとタケルの前に持ってきて差し出した。
タケルはきょとんとした貌をして七掬脛を見つめた。
「ささ、若、どうぞお味見を」
「そ、そうか・・・」
手を伸ばして瓜らしきものを一切れ抓んで口に入れた。
サクッ
と、心地よい音がした。
「んん、これは旨い。それにさっきの嫌な臭いもなく、甘くてよい香りだ。んん、旨い、もう一つ、今度はこっちのを・・・これは大根だな・・・おお、大根も旨いのぉ、菜がこんなに旨いとは知らなんだ」
「そうでしょう、わいもさっき味見しましたが、これは絶品で御座いますな」
「んん、そうだのぉ、こうして萱の藪にて神の物を頂くのもまたいいなぁ、ははは」
「藪に神の物ですか、これはいい、よく出来ました」
七掬脛が相槌を打った。
「のぉ、汝達、頼みがあるが、この神の物をもらっていく訳には参らんかの」
「へぇ、どうぞ、どうぞ、宜しゅう御座いますとも。初めからそのつもりで持って参りました、甕ごとお持ちください」
年嵩の農婦がにこにこ笑って答えた。
「そうか、いや、これは有り難い、これを美夜受にも食べさせてやりたいでな」
こうしてタケル達は礼を言って、早速熱田に向かった。
七掬脛が女丁お秀にも作り方を教え、その後この漬物という食材が方々に広まったという。また色々な食材を塩漬けにすると腐りにくいという事実もこの時から知られるようになったのである。
…「藪に神の物」から、漬物のことを「香の物」ともいうようになった。日本での漬物の元祖とされる話である。…
タケルは漬物のお礼に、その後榊の木を村に贈り、自ら植樹した。後世その木は連理の榊と言われ、稀にみる大樹となる。そしてそばに社が建てられた。萱津神社といい、漬物を祭るという世にも珍しい神社となるのである。
旅立ちを前に美夜受姫に別れを告げ、熱田から荷運びの舟に載せてもらって桑名に戻る時、タケルは港の見える丘に立って褶を振る美夜受姫を見かけた。タケルもじっと美夜受姫の姿を見つめ、手を上げてきっと戻ると心に誓った。
この時、ふと西国での夢の面影がタケルの脳裏に浮かんだ。そして美夜受姫の姿も見えなくなった頃、何か言いようのない不安が広がり、タケルは夢中で背中の剱を錦糸の袋ごと取り出し、抱きしめながら片膝突いて祈った。
この様子を既に調査から戻ってきて同行している三太夫が怪訝な顔をして見つめている。
夢では手を振って別れた後、嵐で船が遭難した。謎の乙女が現れて水中でもがくタケルの手を引いて水面へと泳ぎ、タケルを勢いよく上空へ放り上げた。やがてタケルは大空を舞う白鳥となった。
あの時手を振っていた娘は市乾鹿文であったが、今は現実となって美夜受姫が褶を振っている。




