二の一
二
タケルは毎日熱田を訪れるようになった。時々は野兎や猪も捕まえて帰って来る。しかし、あの気の強い美夜受姫とはあれ以来会えずにいた。片道二刻ほどもある距離を、朝早く出て日が暮れる頃に戻るのである。かなりの足腰の鍛錬にはなる。
子まで生した真奈がいて、(定かではないが)ほかにも妃が何人かいるとされる。この辺の性格は家系の遺伝なのであろうか。気拙い出会いだったとはいえ、タケルはあの気の強い美夜受姫が忘れられないようだ。意図せずとも足は熱田に向かってしまう。
ひと月ほど経った頃、辺りは春めいて草木の苔色が次第に濃くなってきた。自然タケルの装いも、いつもの着込みの上に薄い単衣と褌を纏っただけと薄くなっている。
何気なくいつものように男山の麓を通り掛かると、突如女の金切り声が響き渡って来た。
タケルは、急ぎ山に分け入った。
声の主は美夜受姫の女丁お秀であった。傍らに美夜受姫が倒れていて、膝を掴んで苦しそうに喘いでいる。側には杖とお水取り用の瓢が数個散乱している。
「どうしたのだ」
タケルは慌てて駆けてくる。
「はい、お嬢様が蝮に咬まれて苦しんでおります、どうかお助けを」
「なに、それは大変だ」
タケルが急ぎ背負子をはずし、矢筒などを傍らに投げだし、歩み寄った。
お秀はただただおろおろしている。腕っ節が強そうなお秀なのだが、この手の所作には慣れていないようだ。
「どこだ、足か、よし、吾に任せよ」
しゃがんで美夜受姫の袴の裾を捲くってみると、右の足首が赤く腫れて血が出ていた。
「ちと痛いが我慢せい」
胸元から小刀を出すと、傷口を十字型に切り込んだ。
「あうっ」
と、呻いて美夜受姫はお秀に縋った。お秀の服を握り締め、奥歯を噛みしめて我慢している。額から大粒の汗が流れ出る。
タケルはすかさず屈みこんで、傷口を吸ってはペッと脇に吐き出し、回りかけた毒を吸いだし始めた。何回か吸いだした後、タケルは背負子から綱を取り出し、適度な長さに切って美夜受姫の膝下をぎゅっと縛った。そして傷口に、持っていた竹筒の酒をかけて消毒し、懐の手拭いを出して傷を縛った。
「これでひとまず大丈夫とは思うが。どれ、近くの民家に運んで行こう。汝、案内致せ」
タケルは美夜受姫を抱きかかえて歩きだした。
お秀はタケルの荷物と瓢などを全て拾い集めて持つと、
「有り難う御座います、どうぞこちらに。近くに知人の家がありますから、そこに世話になりましょう」
と言って先導する。タケルは歩きながら大汗を掻き始めていた。美夜受姫は気絶しているのかタケルの胸に頭をうずめている。
家は山を下りてすぐの所にあった。ぐるっと小高く盛土した土手に防風林が植えてあり、その内側に伏屋根の母屋をはじめ倉庫や厩が並ぶ百姓の家である。お秀に続いて母屋の入口を潜り、窓の側の蓆に美夜受姫を寝かせてやった。取り外し式の窓で日中は薄い布張りになっている。
家の者が水桶と濡れ手拭いを用意し、お秀が座って美夜受姫の顔の汗を拭っている。
すると途端に背後でドサッと音がした。
吃驚してお秀が振り返ると、タケルが大汗をかいて地面に倒れている。
「もし、お前様、どうなさったのです」
お秀が慌ててタケルを抱き起こした。
「ど、どうやら少し毒が回ったようだ・・・虫歯があってな・・・」
言う途端にタケルは項垂れて気絶してしまった。
やがてお秀は家の者と共にタケルを運び、蓆の上に寝かせた。持っていた剱や背負子などは外してそばに置いてある。干草を掛けてもらって、二人仲良く寝ている。美夜受姫の方は既に汗も引いていたが、タケルは震えながら大汗をかいている。
お秀が親身になって看病している。この家はお秀の親戚にあたる村おさの家だった。お秀は隣り村のおさの娘で、尾張国の造の元に乳母として遣わされた女丁であった。美夜受姫の乳母としての役目はとっくに終わっていたのだが、気立ての良さと腕っ節のいい事を買われてそのまま美夜受姫付となったのである。一緒に育った自分の子は既に実家に戻って一端に働いている。
美夜受姫の屋敷の方にも家の者が連絡し、事の顛末を伝え、心配ないと告げた。しかし、タケルのことはどこの誰かも分からず、連絡のしようもなかった。
翌朝になると目を覚ました美夜受姫の方はもうすっかり良くなっていたが、タケルの方は未だに大汗をかいて唸っている。
今度は治りかけた美夜受姫がタケルを看病し始めた。
「あれ、この人は、いつぞや山で見かけた人では・・ねえお秀、覚えていない?」
「ああ、そう言えば、そんな事がありましたが、あの時の人で御座いますか」
「そうよ、きっとそうだわ、確かあの時、何とかって名乗っていたけど・・覚えている?」
「さあて、わたしはあまり物覚え良くないですから」
「そぉお、わたしも覚えていない・・・ただ、あの時この人、山神様を弓で射ようとしていたんだっけ。それですごく怒った覚えがある・・・だめだわ、やっぱり思い出せない。あの時の人がわたしの命の恩人だなんて・・・いい人だったみたいね」
「左様で御座いますね、何とか無事に回復してくれればよいのですが」
するとうなされているタケルが、何かうわ言を発した。
「あれ、今確かタケルとか言わなかった」
美夜受姫にはそう聞こえた。
「そうだわ、思い出した、ヤマトタケルとか言っていたわ。でも嘘よねぇ、こんなひ弱そうな人がヤマトタケルの命だなんて」
すると家の者が煎じ薬を運びながら、
「あれま、そんだば本とかもしんねぇだよ」と言う。
「何でも桑名の殿様の所にヤマトタケルの命が来ていらっしゃるとかで、その方がしょっちゅうここら辺に狩りをしに来るという噂だ」
「本当、桑名に。じゃあこの人本当にヤマトタケルの命なのかしら」
驚いて美夜受姫は目をぱちくりさせている。
「ねぇ、お秀、念の為に桑名に使いしてくれない、ヤマトタケルの命が蝮の毒に中って倒れて寝ているって」
「はい、分かりましたお嬢様、これからすぐに参ります」
「ああ、お秀どん、馬に乗っていくといいだ、裏に厩がある。おめぇ馬に乗れるだべ」
「有り難う、使わせてもらうわ」
お秀が急いで出て行った。農耕用の馬で、太い四肢を持ち、図体もひと際大きい。
・・・
夕暮れになって馬を飛ばしてお秀が戻ってきた。背には七掬脛が必死になってしがみ付いている。
「さあ、着いたよ、お前さん、早く降りとくれ」
「ふう、やっと着いたのかね」
冷や汗をかきながら、お秀に手を借りてどうにか馬から降りると、
「おおお、けつが痛くて堪らんわ、馬という奴はどうも苦手や」
愚痴る七掬脛である。馬の背には鞍の代わりに麻蓆が一枚敷いてあるだけだった。
お秀もすとんと軽やかに馬から降りて手綱を引っ掛けると、家の中へと向かう。
「お嬢様、ただ今戻りました。御家来の七掬脛という方を連れて参りました」
「ああ、お秀、御苦労です。初めまして、わたしは尾張国の造の娘、美夜受と申します。ささ、こちらに来て看てやって下さい。この人はヤマトタケルの命ですか」
「ああ、これはどうも、七掬脛です・・・おやおや、若、何という情けないことに・・」
「では、やはりこの方はヤマトタケルの命なのですね」
美夜受姫は未だに信じられないという顔をしている。
「ええ、そうですよ、間違い御座いません。詳しい事はこのお秀さんから伺いました。どれどれ、どんな具合ですか」
タケルの腕を取って脈を見、瞼をめくって眼を調べている。
「ああ、安心しましたわ、だいぶ良くなっているみたいですな。この分ならあと数日で毒も抜けるでしょう」
一同が皆安心した。
七掬脛は早速持ってきた草や薬味を土器の椀ですり潰し始め、お湯で溶いで特性の煎じ薬を作ってタケルに飲ませると、後は美夜受姫に任せて入り口脇に藁を敷いて寝てしまった。美夜受姫は責任を感じて付き添うと言う。女丁のお秀と交替で寝ずの看病をしている。
翌朝になって七掬脛がふらっと外へ出て行った。一刻ほどして戻って来ると、桶に水を張り、塩を振ってザザーッとシジミを入れた。河口までいって獲ってきたのである。
「ああ、お嬢さん、夕方になったら若にシジミの汁を飲ませてやって下さい、結構効くと思いますよ。たくさんとってきたのであなたがたもどうぞ。それではわしはこの辺で帰りますから、後は宜しくお願いします」
「ああ、あの、帰ってしまうのですか。治るまで居てくれないのですか」
「だいぶ貌色がええですからじきに治りますわ。もう夜の看病は要らんでしょう」
「ああ、そうなのですか、有り難う御座いました・・」
肩の荷が下りたのか、美夜受姫は出ていく七掬脛の背中を茫然と見つめている。
こうしてすっかり回復してきたタケルは、意識も戻り、美夜受姫に付き添われてシジミ汁をすすりながら、顔を赤くしている。
「どうなさったのです、熱があるのですか」
美夜受姫がタケルの額に手を当てた。
「い、いえ、そうではありません。助けたつもりが逆に助けられてしまって、恥ずかしくてなりません・・すっかりお世話になってしまって・・」
「あら、いいのですよ。でも、あなた様が本当にヤマトタケルの命だったとは驚きました」
ひと月前とはまるで違って、本当に優しい娘に変貌していた。
それからというものタケルは度々美夜受姫に会いに熱田に出向いた。家の者に内緒で互いに日取りを言い交して出会うのである。美夜受姫は女丁のお秀と共に時々神の山に来て泉の手入れをしたり、水をもらったりしに来る。本当は年に数回でよいところなのに勝手に自分で増やしてしまったのだ。
男山の中腹の空き地で美夜受姫のお努めの帰りを待つタケルは、頃合いと見て集めた小枝に火を付けた。そして松かさを焼べて平べったい石を焼いている。
二人が戻ってきたようだ。タケルは持ってきた蛤を石の上に並べ始めた。あらかじめ貝の蝶つがいを切って、焼くだけにしていたものである。
美夜受姫達が近づく。
「まあ、いい匂いだこと、何を焼いているの」
「お帰り、お務め御苦労さん。腹が減った頃だと思ってね、蛤を焼いているところだよ」
「蛤・・蛤って焼いて食べるの、お秀知っている?」
「いいえ、一向に存じません。貝なんて物は茹でて食べるものとばかり思っていました・・ああいい匂い、美味しそうですね」
「ははは、蛤は焼いて食べるのが一番だと七掬脛が言ってた。作り方を教わってな。ささ、もう焼けた頃だ、一緒に食べよう」
ほど良く塩水を含んだ貝は、靭帯を切っているため殻が焼いてる最中に開かないので、味が凝縮されて、しかも早く焼ける。箸を使って食べ方をタケルが教えて、三人はふうふう言いながら頬張り出した。
食べ終わった頃、お秀は先に帰った。お秀はお努めが終わってここまでお供をして来ると、一人先に家に帰るようになっていたのだ。こうして夕暮れ近くまで二人は逢瀬を楽しむ日々が続いた。タケルにとって生涯忘れ得ぬ日々となる。
ところがこの様子に前々から不審を抱いていた尾張国の造、乎止与の妻女が、早く帰ってくるお秀が一人なのをおかしいと思い、夫に告げ口をした。この日お秀は家に帰って来ると、すかさず門番の仕丁に主の部屋に行けと告げられる。
不安な気持ちで廊下を行くお秀が、引き戸の前に座って、
「お秀で御座います、お呼びで御座いますか」
と、中に向かって告げた。
「んん、入りなさい」
淡々と主乎止与が応じた。
引き戸を開けて中に入り、また閉めて正面を向き、板敷きに座り、お辞儀をした。引き戸は当時としては極めて珍しく、交易で潤っている国ならではである。
乎止与は部屋の奥の格子の窓辺に立って、手を後ろ手に組んで外を見ている。四十一という壮年の働き盛りで、六尺近い体躯の細身の男。丸髷を冠のように紐で綺麗に縛り、黒っぽい水干に長褌を着て、裾や袖口をひらひらさせてすっと立っている姿は、実に美しい。お洒落という感覚の薄いこの時代にあって、渡来人であることが地生えの者とは違った感覚を持っているのであろうか。
…伊福多多美彦連と従兄弟の乎止与は日本神話上では共に天火明命という神の子孫とされているが、果たしてどうであろうか。…
一向に切り出さない乎止与に、お秀は恐る恐る話し出す。
「あの、旦那様、何の御用で・・」
すかさずぐるっと振り向き鋭い視線がお秀に飛んできた。力自慢のお秀ではあったが、どうもこの主乎止与が苦手で、睨まれると体が縮こまってしまう。乎止与が手招きしてお秀を呼ぶ。お秀は腰を低くしたまま部屋の中央付近まで進んで座り直した。
下を向いて頭を下げていると、立ったまま乎止与が野太い声で詰め寄る。
「お秀、汝は最近なにゆえに一人で帰って来るのだ。美夜受はどうしたのだ」
「あ、はい、その水害除けの儀式で川を回っております。お嬢様が先に帰ってよいと申されまして・・・」
乎止与は返答を聞きながら歩き出し、上座の円座にどかっと座った。
「阿呆、汝は美夜受の供回り役であろう。女だてらに腕っ節も強いゆえに汝を美夜受に付けたのじゃ。汝が側に居なくては美夜受が危ういではないか。んん、そうではないのか」
「はぁ、あの、それにつきましては姫様もお強くなられましたので、ご、御心配には及びませんです、はい」
「何を申すか、か弱き乙女であるぞ。しかもわが家の跡取りなのじゃ、万一の事があったらどうするつもりじゃ」
「・・・・」
「汝、何か隠しているのではないか。美夜受は一体何を致しておるのだ。まさか男と会っているのではなかろうな。どうなのだ、言え、言わぬか」
「お許し下さいまし、旦那様。姫様はあるお方とお会いで御座います。先日蝮に咬まれた時にお助け下さったお方で御座います」
「何と、やっぱりそうか、けしからん。してどこの誰なのだ、その男は」
「はい、ヤマトタケルの命で御座います」
「な、何じゃと、ヤマトタケル・・・まさか、そんな・・」
乎止与は思わず立ち上がり、頭を抱えてうろたえた。
「そうか、今桑名に来ていると聞いたことがある。本当にヤマトタケルの命なのか」
「はい、間違い御座いません」
「これは困ったぞ、どうしたものか・・・」
乎止与は苛々しながら歩き回る。褌の裾をすぼめていないのでパタパタして歩きにくそうだ。
「ええい、汝はもう下がってよい。美夜受が戻ったらすぐここに来るように言え、よいな、必ずここに来させよ」
美夜受姫には生まれた時から決まっている婿があった。親戚である西三野垂井の伊福多多美彦連の二男である。しかるに帝の息子のヤマトタケルであればのちの将来性も高く、むしろ喜ばしいことだ。だが噂に聞く大碓命の事件以来、ヤマトタケルこと小碓命に含みを持つ伊福連を裏切ることは出来ないし、万一の場合に謝って済むかどうか気が重くてならないのであった。




