三の二
とうとう明日が満月という日になった。昼頃、スサノオは主だった者達を罠を据えた橋の上に集めた。
スサノオは残った九個目の酒樽を建物の前に置かせた。
「皆の衆、いよいよ待ちわびた日が来たぞ。勝負の時じゃ」
と、高らかに声を張り上げ、十拳剱を天に向かって差し上げた。すかさず十拳剱で酒樽の蓋を叩き割ってこじ開けた。そして榊の枝を酒樽にたっぷりと浸し、出来あがった建物の部屋一つ一つに榊の雫を降りかけ始めた。頻りに何か呪文を唱えている。村人達もその都度拝みながら、柏手を打つ。
やがて全部の部屋のお祓いが終わると、
「ささ、皆の衆、清めの酒じゃ、一口だけ呑むがよいぞ」
と言って、大きな柄杓に汲んだ酒を足名椎に渡した。一口ずつ口に含んでは皆に回していく。あまりの強さに皆が顔をしかめるが、清めと聞いては呑まない訳にはいかず、むせ返る者もいた。皆が紅潮し、戦い前日というのに悲観はない。
余った酒は建物の八つの部屋に水撒きするように柄杓でまんべんなくばら撒いて、酒の匂いを充満させた。
そしてスサノオは、皆にいつもの年と変わりなく家に籠って過ごすように、と言って解散させた。村の衆はこの後村の周りを片付けて被害が少なくなるように気を配り、早めに寝藁に潜る。そして夜明けとともに家に籠り、奥の暗い地べたに座り、目を閉じてひたすら祈り続けるのである。
その頃、稲田姫はスサノオにあらかじめ言われた事を実行しようとしていた。洞窟の入口に来て、あとの二人を奥に下がらせた。そして胸元から肌身離さず持っていた布を取り出し、スサノオの髪の毛を一本抓んで、呪文を唱え、地面に落した。すると地鳴りがして地面から、
ゴゴゴ・・
と、櫛状の骨が盛り上がってきた。数歩奥に下がって見ていると、檻のように入り口が塞がってしまった。
さらにもう一本、スサノオに言われたとおりに唱えながら格子の所に落とした。何事も起こらないかに見えた。最後の一本を少し内側に行って、また何か唱えて落とした。これも何事も起こらない。
スサノオが万一を考えて用意したものであった。骨の格子は魔除けの為に、二本目は光の屈折を変えて中の様子を外から見えないように、三本目は魔物の嫌いな菖蒲の葉の臭いを出す。こうすれば娘達の臭いに気付かないと考えたものである。
スサノオは村の入り口にも菖蒲の葉の臭いを出るようにしておいた。
やがて谷にはスサノオ一人だけが残った。まだ充分日は高いが、これからスサノオにはやることがたくさん残っている。おもむろに空き地となった広場の方に移動して、
「よし、始めるか」
と言って、空を見上げて爪を噛んだ。
一年ぶりで生え揃った爪を使うのである。わずかに取れた左手の親指の爪を自分の頭の上に持ってゆき、呪文を唱えながら抓んだ指に力を込めてすり潰す。するとどうであろう、指の間から雫が何滴か頭に滴り、見る見るスサノオの体が膨らんで大きくなっていく。やがて大木ほどの大きさになって止まった。
不満げに舌打ちしたスサノオは、
「やはりそうか。生えたばかりの爪ではこんなものだ。已むを得ん」
と呟いた。本来は天にも届きそうなほどに成れたはずだが、ざっと十倍ほど大きくなっただけであった。それでも身の丈六丈、十八メートルの巨漢に変貌した。
そして建物の川下、北側に回り込んで、川に入り周りを見渡す。小さな空き地が四つ見える。背中の剱をスパッと抜くと、建物を傷つけないようにそのすぐ右脇に寝かせるように刃を宛がうと、サクッと剱を横に滑らせた。建物の右側一帯に生えていた樹木が一度に薙ぎ払われた。それを繰り返して、目印の空き地まで薙いでいった。
今度は反対側にも同じことを繰り返し、薙いだ樹木を建物の近くに集めておく。袂から膠を取り出し建物に振り撒き、木を一本ずつ扱くようにして枝葉を建物の上に被せ、貼り付けていく。裸になった樹木の芯はポーンと遠くに捨てた。建物は木々の青で覆われて罠であることが分からなくなった。
薙いだ部分が扇型の平地になった。平地は内径が百五十メートル、外径が二百メートルほどの大きさで、川下からやって来る大蛇を丸く囲むように広がる。
スサノオは胸まで届くほどに伸びた髭を一本引き抜いて、呪文を唱えながら指の腹ですり潰す。粉になった髭を左の掌に移し、ふーっと吹き飛ばして建物全体に振り掛けた。
すると再び地鳴りが起こり、
ガサガサガサ・・・
と地面を擦って見る見る建物は巨大化してゆく。完全に建物が谷を囲むように平地を覆ってしまった。高さと奥行きが約五十メートル、内径百五十メートル、外径二百メートルほどの巨大な扇型の建造物で、スサノオと同様に十倍ほどに大きくなった。
生き物に対しては爪、それ以外には髭が化身の道具であった。
スサノオは一つ一つの部屋を覗き込む。酒の匂いが漂い、奥に酒樽が見える。例の強い酒である、酒樽ごと巨大化している。
「んん、良いようだな、よし」
十分と見てスサノオは中に置いてある酒樽の蓋を剱で叩いて開け始めた。酒の匂いが一層強くプーンと周りに溢れてくる。こうして大蛇の罠は整った。
やがてスサノオは両端を尖らせた丸太をひと抱えしては川までやって来て、投げ槍のように、ザクッ、ザクッと、適当な場所に突き刺して行く。川を遡って来る大蛇から丸太の先が見えないように広めに場所を調節し、罠のすぐ隣から海岸近くまで、川沿いに隙間が出ないように二列に互い違いに丸太を突き刺してゆく。
片側が刺し終わった頃には辺りが暗くなったが、月明かりを頼りにもう片側にも同じことをしていった。丸太の間隔は大蛇にはすり抜けられないが、小さいスサノオなら十分に通れる隙間とした。
こうして川筋に柵で囲まれた巨大な大蛇の通り道が用意された。汗だくになって丸太を打ち込み終わった時には、月が中天に輝いていた。月明かりの中をスサノオは滝の上によじ登って、見晴らしの良い断崖上に佇む。そして右手の親指の爪を少しかじり取り、頭の上で呪文を唱えながらすり潰すと、縮んでいって元の大きさに戻った。
「さすがに疲れたわい、しかし、戦いはこれからだ・・」
スサノオは遥か海の彼方を見つめ、明日の段取りを思い描いた。その場に座り込み、目を瞑って体をほぐしながら夜の明けるのを待った。五体は軽い眠りに入っているが、神経はピンと張り巡らされている。幸い風は海側から吹いている。
肥河は北西に見える広大な神門水海(神西湖)に注いでいる。
…古代の神門水海は出雲大社に迫るほどに大きな汽水湖だったことは既に述べた。もちろんスサノオの頃は出雲大社は存在しない。…
ふっと眼を醒まし、スサノオは滝の上から遥か北西の海を望んだ。夜も白み朝日を浴びて神門水海の中にポッカリと浮かぶ島が見えた。変わった木々が生えた、青々とした苔色の台地が朝露をすってキラキラ照り輝いている。
よく見ると島は動いているように思えた。やがて肥河の河口に塞がるように辿り着くと、島の木々をユラユラさせて川を遡り始めた。なんと、木々と見えたものは大蛇の鎌首だった。泳ぐ八岐大蛇の姿である。川沿い一面の森がざわざわと揺らめいて一斉に鳥達が飛び去り、逃げる獣で土埃が舞う。
川が浅くなり、四肢を使って這うように歩いてくる。七頭の首が一頭の首を囲むように胴体に付いている。首は四方八方を向き、後ろ側にも目がある。
川を上流へとズルズル這い上がる、その長大な姿の全容を滝の断崖上から見てとったスサノオは、あまりの大きさに驚き、背筋に冷や汗が滴るのを感じた。
「何という巨大さだ、昨年間近で見た時は近すぎて逆によく見えなかったが、こうして遥か上から眺めると、支那国の大軍勢が八列縦隊で攻め登って来るようだわい。これ程の長陣なれば横腹を攻めれば壊滅するだろうが、あの鎌首の見張りが厄介じゃ、すぐ見つかってしまう。やはりここは計画通りといこう」
大蛇がとうとう曲がりくねった巨岩の谷(鬼の舌震)に差し掛かった。大岩を転がしながら、ゆっくりと進む。
…これよりずっと未来の言い伝え。海の彼方から鰐(鮫の古称)がやってきて美しい姫に求婚する。それを嫌がった姫が大岩を集めさせて川を塞いでしまった。鰐は舌を鳴らして悔しがった。やがて鰐の発音が鬼に変わってしまい、鬼の舌震という地名になったとされる。…
曲がりくねった谷を進むうち、突然司令頭らしき一頭が鎌首を持ち上げて、大蛇の四肢はピタッと動かなくなった。異様な目付きで前方を注視し、突如、むくむくっと後足で立ちあがりながら、
「ギャー・・・」
と、ひと声発した。
声は四囲にこだまし響き渡った。その叫びにも似た声たるや、静寂を切り裂き、大気を震わせこの世のものとも思われぬ。八岐大蛇の赤く爛れた胴体が、天に向かって聳える如くに立ちはだかった。ほかの鎌首達は怪訝に思い、空に向かって火を吹いたり白い息を吐いたりしている。
スサノオもこの巨体がよもや立ち上がれるとは思わなかった。静寂の中に不気味な姿をさらす八岐大蛇、スサノオは思わずぞぞっと総毛立った。
やがて大蛇は、
ドドーン!
と、地響きを立てて倒れ込んだ。地震の如くに大地が揺れた。
静寂が戻ると八頭の鎌首が皆前方を向き、鼻をひくひくさせる。互いに喚き、絡みあっていたが、やがて再び進み出した。
「危ないところだった・・さあ、美味しい酒が待っているぞ、どんどん進め、火なんぞ吐くでないぞ」
建物に火を吐かれたりすれば一巻の終わりである。その時は決死の覚悟で炎に紛れて斬りまくるしかないと、スサノオは決めていたのだが、どうにか酒に興味を示してくれたようだ。それに火を吐いたりすれば、山火事となって大蛇も自滅の恐れがある。千年も生きようという大蛇である、それぐらいの計算は出来るであろう。
巨岩の谷が途切れる辺りに建物が据えてある。大蛇はたった今、すぐその手前まで来て止まった。皆舌先をちょろちょろ出し、鼻をひくひくさせながら、鎌首を蠢かせている。はたして何の匂いなのか、何か様子がおかしいと勘付いたようだ。
前に塞がる建物の壁に通せんぼされて、何頭かが建物の周りを探り始めた。壁が半円形をしている為に大蛇がすっぽり囲まれる形となっている。穴の上に回ろうとして鎌首をもたげると、尖った槍先が刺さりそうになって慌てて首を引っ込める。
さてどうするのかとスサノオが注視した。
あるものは穴を覗き込み、舌を揺らし、鼻孔を開いて嗅いでいる。
鉛色の鎌首が口を開いて、
「シャーッ」
と声を荒げると、大蛇は右に向きを変えようとした。すると右端の鎌首が、
「ギャー」
と咆えて、首を引っ込めた。森の中で何かがちくっと顔に刺さったようだ。大蛇はまた静止して右側一帯を調べ出す。そっと首を出しては後ろにすっと引っ込める。尖った針(槍)が邪魔をして、どうにも進めそうもない。
右側を諦め左側に向かうが、結果は同じであった。森の木々に隠れて見えないが、針のような槍衾がズラッと海に至るまで川筋に並んでいるのである。
後ろ向きに方向変換することも出来なくなって、八頭はどうしようかとギャーギャー吠えて蠢いている。やがて中央の壁に向き直り、八つの首は用意された穴の中に首を入れ、中を疑り深く探りだした。
その中の一頭がひょいと樽に首を突っ込むと、釣られるように皆が樽に首を入れて酒を食らい始めた。酒はたっぷり入っている、いかに巨大な大蛇とはいえ、あの強い酒が池ほどもある樽八つ分も飲んでしまっては動けなくなる事だろう。
「しめた、やっと罠に食い付いたぞ。よし、ではそろそろ行くかな」
スサノオは滝の前面にあらかじめ用意していた蔓に掴まり、器用にスルスルスルと下まで降りて行った。そしてその場に屈みこんで爪を噛んで擦り始めると、むくむくっと巨大化した。いかんせん、巨大化しても大蛇の鎌首一頭の三分の一ほどで、例えていうと人間と子猫ぐらいの差がある。
大蛇に気付かれないように、屈みながらそっと建物に近づいて行った。組み上げた丸太の隙間から中の様子がうっすらと見える。
(どうやら酒が回ってきているな。よし、では一頭ずつ仕留めるか)
そっと槍衾の間をすり抜け、大蛇の右脇に回り込んで、まず右から二番目の灰色の首の根元に狙いを付けた。鎌首はスサノオの胴体と同じほどの太さである。
十拳剱の柄を両手で握り、刃先を下向きに高々と差し上げた。目をひん剥いて物凄い形相のスサノオは、無言のまま勢いよく、
ぐさっ
と突き下ろした。灰色の首が胴から切り離され、どさっと落ちて河中に沈み込む。切り離した付け根からは真っ赤な血が勢いよく噴き出したが、やがて少し緩くなりドクドクとした流れに変わった。
(こいつだけは先にやらないと始末が悪い、ひと睨みされただけで負けじゃからな)
そして、後は右から順に無言のまま次々に剱を突き下ろしていった。
溢れ出す血で川は真っ赤に染まり、半分沈みこんでいる大蛇の体がよく見えなくなってきた。
極めて厄介な戦いであった。自分の胴体と同じほどの太い首を、音も立てずに速やかに立て続けに切り落としてゆくのである。酒で麻痺させているとはいえ、気付かれでもすれば大変なことになる。たとえ一頭だけであっても、それぞれが手に負えないほどの能力を持っているのである。
(あと二頭かな、もう一息だ・・)
ふぅっと息継ぎするスサノオが、返り血にまみれ、次の首に狙いをつけた時、突如、
「ギャー!」
という叫びと共に、バリバリバリと建物を突き破って、狙った一頭が鎌首を持ち上げた。
スサノオは首が持ち上がる弾みで勢いよく飛ばされ、鮮血の川に尻餅をついた。真っ黒な鋼頭の首であった。
落とした剱を慌てて探し当て、ふっと視線を上に向けた時、不気味に睨むホオズキ色の目と視線が合った。背筋が凍りつくような焦りを感じた。
「ギャー!」
と、大口を開けて吠える鎌首が、頭を分銅のように振りまわしてスサノオを襲ってきた。スサノオは慌てて起きあがると、空高く跳び上がりながら剱で分銅を躱した。
キーン!
と、甲高い音を残して逸れていく鎌首は、勢い余って建物の天井を真横からズタズタに引き裂き、起き上ってまた身構えた。
スサノオはストンと大蛇の巨大な体の上に乗っている。天井の無くなった建物の中には、大樽に頭を浸し、ぐったりとねじ曲がった多数の鎌首が露わとなった。
見るともう一頭黄色い首が騒いでいる。酔いが回っているせいか目をピカッとさせては光線を発し、至る所を爆発させている。
ふらつく頭をむくむくっと持ち上げて、ピカッとスサノオに視線が合った。瞬時に躱すスサノオだったが、
「あうっ」
と呻いた。髭を少し焼き焦がされ、ほほ肉を削り取られた。見るとその光線の続きが遥か遠くの巨岩を跡形もなく吹き飛ばした。
(この光線を食らったら、掠っただけでも腕が吹き飛ぶ。これは手強い)
そう思ったスサノオは素早く身を翻し、黄色の首の腹部に回り込み、鎌首を引っ繰り返すようにしがみ付いた。しっかりと両足で鎌首を抱え、大蛇の口の中に手を入れ、上顎の奥を掴み、下顎を頭で押し上げて、鎌首の頭を動かせないように押さえ付けた。
「ギャー、ギャー・・」
と鳴きながら、鎌首は混乱して光線を中空に撒き散らす。頭が逆さになっているお陰で周りの様子が分からなくなっているのだろう。




