三の一
三
スサノオは足名椎と共に稲田姫の籠る洞窟へと向かった。肥河沿いのなだらかな斜面に広がる麦畑の脇道を抜けると、道は二つに分かれている。川沿いに真っ直ぐ南に登れば中国の山並へと向かい、もう一方は右手に折れる杣道で村や社のある高台から下って、滝壺のある谷筋に向かう。
杣道を百メートルほど西に下った山の斜面に、木々に隠れて小さな洞窟があった。奥行きがほんの二十メートルくらいしかなく、反対側の谷筋にも突き抜けている。おそらく山颪の吹き抜けによる風化で空いた穴かもしれない。
八岐大蛇は極めて嗅覚が優れているので、春先から稲田姫は一人洞窟で暮らしていた。食べ物は母の手名椎が運び、稲田姫はいっさい洞窟の外に出てはいけないと命じられている。中には地下水の流れがあって、飲み水や排水には困らなかった。
梅雨の長雨で家に残った稲田姫の匂いも消え、大蛇も気付かなかったようだが、この洞窟近くにまで来ていたら危うかった。杣道の先にある谷筋の道は、高台をぐるっと回り込んで滝の下へと通じている。
稲田姫を一目見たスサノオは、そのあどけない美しさに忽ち魅了され、気に入ってしまった。切れ長で垂れ目勝ちの碧眼を持ち、眩しいほど白い肌で、海の深淵を思わせる色の濃い長い髪を持つ美しい乙女であった。歳はまだ十五だという。
スサノオはふと大それたことを口にしてしまう。
「足名椎殿、こんなことを言ってお気を悪くなさると困るのですが・・吾があの八岐大蛇を退治した暁には、吾はあなたの御息女、稲田姫と添い遂げたいと願うのですが、如何でしょうか」
まだ幼い生娘を目の前にして、瞬間的に頭に浮かんだまま口走ってしまった。思い立つとよく物も考えずに、直情的に行動してしまうところがスサノオの欠点かもしれないが、この場合はむしろ二人を喜ばせた。
「ええ? へぇ、勿体ない事で御座ぇます。どうせここに居ても、じきに山神様の生贄になるだけですからな」
と言って、足名椎は稲田姫を一歩前に出すと、
「娘もわしら夫婦も異存は御座いません、是非もらってやって下さいまし」
と、二つ返事で応えた。
稲田姫も、初対面だというのに己が命を賭けて化け物退治を買って出るという、その正義感、心意気に感動し、涙を浮かべている。
稲田姫の潤んだ瞳を見つめ、スサノオはにっこり微笑み、角髪に結った自分の髷の片方を解くと、長い髪の毛を三本抜いた。すかさず顔の前に抓み上げ、額に押し当てて何か呪文を封じ込めてから稲田姫に渡した。
稲田姫はなんのことか分からず、両手に頂いたままスサノオを見つめた。
スサノオは屈んで稲田姫の耳元で何か囁くと、稲田姫も肯いて大事そうに布に包んで胸元に仕舞った。
それからスサノオは、稲田姫の次に狙われる娘達にも危険が及ぶことを警戒し、万一の用心のために、一年間稲田姫と共に、年若い娘達もここに隠れ住まわせることを勧めた。
足名椎は早速行動し、ほどなく十歳ほどの女児を二人洞窟に連れてきて、
「少し窮屈じゃが我慢するのだぞ、そなたらを守るためなのじゃ、分かってくれや」
と、優しく命じた。娘らも親に諭されたこともあり、頻りに肯いている。
「稲田姫よ、娘らの面倒も頼むぞ」
スサノオがやさしく命じた。
「はい、畏まりました、みんなで仲良く致します・・」
そう言って稲田姫は明るく微笑むのだった。
足名椎の家に住むことになったスサノオは、心意気とは裏腹に社に行っては何故か物思いに耽っている。安易に娘らを助けるとは言ったものの、いかにすれば巨大な大蛇を倒せるか考えあぐねていた。
既に村おさの足名椎からスサノオが高天原から下って来た天の神様であることを聞き、皆もスサノオに従うことを了承している。しかし、このスサノオの悩む姿を見かけると、悪い噂が広まり民は次第に不安になってきた。
数日してスサノオは皆を社の前の広場に集めた、女子供や年寄りまで居る。スサノオは皆を見廻し、おもむろに絶壁の縁に向かい、眼下に広がる景色を見晴るかして振り返り、
「皆の衆、見よ、あの蛇行した川じゃ」
と、指差した。
「ゴロゴロした大岩が途切れる所、あそこに大蛇を退治するための罠を築く。大きな壁を造るのだ。大蛇はこの川を遡ってやってくる。だからあそこで大蛇を足止めさせて倒すことに致す。来年の今頃、あの地で大蛇は滅び去る、皆で協力し、共に倒そうぞ、奮え!」
周り中から歓声が上がった。初めは何とも不安そうな顔ばかりであったが、このスサノオの頼もしさに皆が勢いづいた。
今こそわれらを長年苦しめてきた山神を倒す時だと考えた。
役に立たなければ神だとて平気で捨て去る。悪神を捨て去り、善い神に乗り換えるのは決して悪い事ではない。このことは信仰だけに限らず、色々な風習にも言えることだ。勿論、長い間なされてきた風習にはそれなりの利点が必ずあるもので、一朝一夕に現行の風習になった訳ではないが。
またスサノオは続ける、
「罠を作るために膠や丈夫な木綿がたんと要る、時節を問わず、暇を見つけては作り溜めておくのだ。いずれ時期が来たれば詳しく話すが、男らには総出で長さ三間の丸太を二千本ほど用意してもらう。罠の材料だ、太さは五寸以上ならばよい」
気の遠くなるほどの大量の資材である。皆が呆気に取られて聞いている。それでもなおあの巨大な大蛇の罠に使うには十分とは思えない。
…膠は推古朝に支那から伝わった膠墨が、記録上最も古いとされるが、ここでいう膠とは、魚や動物の油みの多い部分を煮込んだ時に出る粘着性のある糊のことである。…
「女達には子供が入れるほどの、村で一番大きい土甕を作ってもらう。直径三尺に深さ四尺だ。そして来年の夏までに、何度も繰り返し醸し出した、気絶するほど強い酒を土甕九杯分造るのだ」
土甕は相当に巨大なものになる。果たして何に使うものか、今から勝鬨の祝い酒を造るのもおかしいが。かと言って大蛇に飲ませる酒とも思えん、大蛇の鎌首の幅は三間半、約六メートルもあるのだ。
皆は作戦の内容を少しだけ理解した。今のところはあまりに大雑把で果たして上手くいくのかどうか不安の方が大きいが、天つ神と山神の戦いである、今度こそはという期待も皆を幾分勇気付けた。
ともかくまだ一年も先のことなので、その時々で皆に指令するということで、おもだったものを残して解散した。
残った五、六人には膠と丈夫な木綿の作成、木材の伐採と加工、組立、土台造り、土甕造り、強い酒造りなど、必要な工程のみを大まかに話した。何しろ相手が大きいので材料もたくさん必要となる、村の人手の数を考えると一年でも苦しいかもしれない。
詳しい計画はすべてスサノオの頭の中にある。
「あとは時が来るまでひたすら予定通りに必要な材料を揃えることじゃ」
と、スサノオは語る。民は八岐大蛇の正確な大きさを知らない、知っているのはこの目で見たスサノオだけなのだ。したがって罠の大きさがいかほど必要かはスサノオに頼るしかなかった。
秋が来て、民は大蛇退治のことなど忘れたかのように麦刈りを始めた。スサノオの存在のお陰なのか、幸いにも凶作にはならなかった。村じゅうで収穫にあたり、終わるとすぐに土をほぐし、木や枝、枯れ葉などを集めて野焼きをして、芋を植え始める。スサノオも手伝った。里芋は凍てつく土の中では腐りやすいが、この地域の芋は割合に寒さに強い品種なのかもしれない。こうして来年の春には芋が採れる。
日の本では東西に係わらず大抵こうした二毛作、あるいは同じものを二度作る二期作を古くから行なってきた。時には田の畦などに大豆を植えたりもする。狭い土地を可能な限り有効に使う習慣が、太古の昔からあった。
農作業の忙しい時期が過ぎ、山は黄から赤に色が変わろうとしていた。
「男らは木材の伐採をせよ、女らは大きくて丈夫な土甕を造るのだ」
スサノオがようやく罠の準備に取り掛かる号令をかけた。老人が多く、若い男は数えるほどしかいないため、スサノオも木の伐採を進んでこなした。
「よいか、大蛇の通る経路の森はいじってはいけないぞ、肥河の上流の木を伐るのじゃ。伐ったらそのまま川に流して下の淵に貯めておけ。一日の終わりに淵から引き上げて脇に積み上げておけばよい」
太さは直径五寸、十五センチ以上ならよいとして、同じ所ばかり伐採せずに間引くように伐ること。伐った木は枝を落として長さ三間、五メートル半の丸太にし、川に流し滝から下に落とす。淵の出口付近を封鎖すれば材木が淵に溜まっていくという寸法である。罠の場所は淵よりずっと下流だが、今のところはこの淵の周辺に野積みしておくことにした。
不思議なことだが、この村では黒曜石の石斧ではなく、既に鋼の斧を使用している。鋼の加工技術が既にあったことになる。このことは古代の日の本においては異例のことである。そのため伐採は思いのほかはかどっている。
スサノオの見立てでは丸太は二千本ほども必要となる。その半分は杭として使うために五百本を片端、残りの五百本を両端、鋭利に削っておく必要があった。そして残りの半分のうち五百本は、丸太を組み上げるために一定の位置に、裏表二ヶ所ずつ凹み(渡り腮)を設けておかねばならない。
一方、女達は土甕が焼き上がる合間を見て、酒の材料を山から収穫するのに精を出している。栗や椎の実である。何しろ大量に造るからいくらあっても足らないくらいである。そして皆が合間を見ては丈夫な木綿作りと膠作りに励んだ。罠を組み上げるのに釘など存在しない時代である、交差させて組み上げた丸太を木綿で縛って固定するのである。
そんな秋の日、スサノオはいつものように山に木を伐りに行ったが、女達が栗拾いをしているのを見つけ、予定を変えて自分も手伝った。たんと取れたので早速栗を焼き始めた。いい匂いがしてきてパチンと弾ける栗を拾って、皆で大きな笊に入れて集める。
時折味見に栗を頬張ると、
「んん、旨いな、秋の山は食べ物が豊富だ。そうだ、これを姫にも食べさせてやろう」
思い立つと、早速焼けたばかりの栗を分けてもらって、竹籠に入れて洞窟に向かった。
途中道端に咲く野花を摘んで坂を下りていく。髭がようやく三センチほどに伸びてきて、花を握ってにこにこしている姿は、どうも按排が良くない。
「おーい、姫、姫は居るか」
スサノオが外から大声で叫ぶと、洞窟の奥から稲田姫が娘二人を連れて黄色い声を発して嬉しそうに入口に走ってきた。ところが、スサノオを目にして突然表情を変え、慌てて二人を制して下がらせると、胸元のお守りを出して入口の地面に放った。
「姫、どうしたのだ・・」
スサノオは様子のおかしい稲田姫に近寄ろうとした。その瞬間、地鳴りが起こり、
ゴゴゴーッ
と音を立てて、足下から櫛状の骨が生えてきた。骨はナウマンゾウの牙ほどもある。スサノオは慌てて飛退いた。
ガシャーン
と音を立てて入り口を閉ざしてしまった。
「おい、稲田姫、どうしたのだ、吾だよ」
スサノオが問いかけた。
「あなたは誰、どうしてここが分かったの」
稲田姫が逆に問う。スサノオの変貌ぶりに誰だか分からない様子。
「姫、スサノオだ、分かっておくれ。少し髭が伸びてきたからなぁ、そんなにのけ反るほど酷かったかい」
「え?」
姫は驚いて目を凝らし、恐る恐る近寄ると、頭にはめた輪を見てやっと思い出し、にっこりと微笑んだ。
「御免なさい、随分違うから、てっきり人攫いかと思って・・」
「人攫いは酷いぞ。それより、お守りの使い方はしっかり覚えたようだな、ははは、その要領だ。どれ開けてやろう、少し離れていなさい」
スサノオは言うなり、左手で骨を掴み、右手で角髪の髪に手を添えながら、目を瞑って呪文を唱え出した。再び地鳴りがして、
ズズズズズッ
と骨が沈みだした。落としてしまった花束を拾って塵を落とし、改めて稲田姫に差しだすと、姫は嬉しそうに花を受け取ってスサノオを見つめた。
「退屈だろうけど、辛抱しておくれ。いいものを持って来たよ、ほら皆もおいで、焼いた栗だよ」
幼い二人が黄色い声を出して寄って来た。四人は入り口の傍らにある草叢に腰を下ろして、賑やかに話しながら栗を頬張った。
春が来て芋の葉も青々と繁り出した頃、ちらほらと白い花を付け始めた。里芋は種芋から子芋、孫芋と増えて育っていくから、花はいらない。花芽を摘み取ってしばらく日照を与えてから村中総出で収穫となった。摘んだ後の大きな葉はそのまま畑に置き捨てて枯らし、野焼きにしたあとで灰を混ぜるように土を解す。
この頃には既に予定した木材も罠を仕掛ける場所に向かって川筋に累々と積み上げられ、材料はあらかた揃っていた。スサノオは罠を仕掛けるための土台造りを開始した。
仕掛ける場所は巨岩の谷のすぐ上流で、川幅五十メートルほどの所である。巨岩を掻き分けてやって来た大蛇を罠で通せんぼしようというのである。罠は橋を造って、その上に置く。川の中に数ヶ所、直径が二メートルほどになるように丸太を十本ほど堅めて打ち込み、それを橋脚として橋を架けた。全て片側を尖らせた杭を使い、橋板の杭は尖った部分を川下に向けて組む。幅九メートル、長さ五十メートルの欄干の無い橋である。
この橋を中心にして扇状に広がった四隅の特定の場所に、目印となる三メートル四方ほどの空き地を作った。民には何の為の空き地なのかは皆目分からない。
次はいよいよ罠造りである。スサノオは男らを予定地の側の空き地に集めて、地面に描いた画を見ながら説明する。
「よいか、このような扇型の小屋を造るのじゃ、中の仕切りは七ヶ所で、八つの部屋のある建物じゃ」
画は小石を並べて描いた建物の平面図である。内径十五メートル、外径二十メートル、幅五メートル、高さ五メートルで、八つに縦割りし、扇の内側だけ入口を開けておく構造である。これをこの広場で木綿と膠を使いながら組み上げる、丸太は千本ほど必要となる。
民達にはこんな小屋でどうやったら大蛇を倒せるのか不思議でならない。大蛇の大きさを知らないとはいえ、この程度の大きさの罠で巨大な大蛇を捕まえて殺すことなど出来るものだろうか。不安な気持ちを捨てさせるほどに、スサノオの檄が飛び、罠は着々と完成に近づいてゆく。
やがて梅雨も明け、暑い夏がやって来た。幸い大水もなく例年と同じ水量で、罠の建物や積み上げた木材も全く被害がなかった。
スサノオは一層声を張り上げ、檄を飛ばす。
「いよいよあと僅かだ、今日からは罠を据え付けて最後の仕上げを致すぞ。今少しの辛抱じゃ、奮えや、皆の衆」
皆は総出で造った建物を、寝かせた丸太の上を転がしながら橋の中央に運んで据え付けた。そして女達が一年かけて造った酒甕を八つ運んできて、建物の八つの部屋に一つずつ据え置く。揺れても動かないように甕の底にはたっぷり膠が塗ってあり、布を間に挟んだ上蓋もしっかり閉じてある。開けるには上蓋を斧などで叩き割るしかない。して見るとやはり強い酒は大蛇を吊る餌なのだろうか?
酒甕を据えた後は、前面の入口を丸太を重ねて半分隠れるほど塞いだ。天壁(屋根)の上には尖った丸太を切っ先が扇の要を向くように、やや上向き加減に並べて固定させた。この建物を乗り越えられないようにする為である。橋の下は狭過ぎて潜ることは出来ない。
とりあえず、ここまで準備は整った。あとは満月を待つだけとなる。




