二の一
二
荒涼とした葦や芒の茂る褐色の世界、生き物の音がない。己が両掌を見つめ、そして二の腕を見、視線を下に送るイザナギは、足首まで隠れる錦糸の長袍までもが色を失っていることに気が付いた。時折吹く突風が妙に体に纏わり付き、丸で黄泉の国へと誘う使いの蛇のようだった。
「とんでもない所にやって来てしまったようじゃ。斯様なところでわが妻(妹)は、如何にして暮らしているのであろうか」
恐々と風に逆らい歩み出すイザナギの足どりは重い。どれほど歩いたことであろうか、ふと目が眩んで手を翳して上向くと、日の光が赤茶けた色の御簾を全面に張り巡らせたような光景だった。
「おお、斯様なところでも日があったのじゃな、ははは・・愚かなことを言うてしもうたわ、日がなければ闇であろうに、ふふふ」
火の神、火之迦具土を、わが身を焦がしてまで産んだイザナミは、その時の火傷がもとで黄泉の国へと旅立った。妻イザナミへの哀憐の気持ちでここまで来たイザナギだが、幾分後悔の気持が頭をよぎり、歩みが鈍い。
ふと前方の岩山の麓に巨大な大地の裂け目が見えてきた。ここは先人のいう黄泉比良坂。
近づいてみると中は漆黒の闇で何も見えない。きっとここだと確信したイザナギは、入り口に佇んだまま言いようのない不安で、思わずごくりと生唾を呑み込んだ。イザナミを探し求めて何年も歩いて来た気がするイザナギだが、実際にはほんの数日のことであった。
ここまで来て何もせずに帰る訳にもいかない、中に入るのを躊躇ったイザナギは、
「おーい、イザナミよ、イザナミ、居るのなら返事をしておくれ、イザナミ・・」
暗く深い洞窟の中に向かって叫んだ。しーんとして何の反響もない。
返事などあろう筈もない。
(何をもじもじしておるのか・・・去るなら去れ、進むなら、さっさと進め)
イザナギは己を蔑んだ。たった一歩が踏み出せないでいる。
溜息をつき、仕方なく、恐る恐る中に足を踏み入れたイザナギは、入り口から届く微かな明かりを頼りに、ごつごつした岩場を辿り、奥へと向かった。
時折妻の名を呼びながら、手探りであっちの岩、こっちの岩と伝い歩きをしている。途中いくつもの脇穴の気配を感じ、中から不気味に光る両の眼がイザナギを捕える。
「イザナミか、イザナミ・・・」
呼んだが、脇穴の眼は返事もせずに奥に消えた。ここは地下にある黄泉の国の街外れなのであった。
イザナギは歩き続けた。ゆっくりと伝え歩きに前へ進んだ。
辺りはもうすっかり真の闇となり、喉も枯れるほど妻の名を呼んだ頃、
「あれ、こなたはわが愛しの君・・」
暗闇の脇穴から声がした。イザナギには暗くてよく見えないが、二つの目だけがホタル石のように青白く光っている。
「一体どうしてこんな所へ・・・えっ、いやっ」
女は驚き、ばさばさと音を立てた。纏っていたボロ布で体や顔を覆い、岩陰に身を隠した音であった。
問いかけに反応して暗闇に目を凝らすイザナギが、
「その声はイザナミか、わが妻なのか。妻なればどうか戻ってきておくれ、吾は淋しくてならぬのじゃ」
光る目に向かって話しかけた。
「おお、愛しのわが君、いかにもわたくしはイザナミです。大変に残念でなりません。もっと早く迎えに来て下されば間に合ったかもしれませぬが、わたくしは既に黄泉の国のものを食べてしまいました」
イザナミはさめざめと涙した。
「やはりイザナミであったか。黄泉の国のものを食べてしまったとは、どういうことなのじゃ」
泣きながらイザナミは続ける。
「わたくしは既に変わり果てた姿となっております。ですが、わが君が敢えて迎えにいらして下さったことは本当に嬉しく思いますので、わたくしもどうにかして戻りたく思います。ただ今、黄泉の国の大神に掛け合って参りますから、ここでしばらくお待ち下さい。わたくしが戻るまで決してここを動いてはなりませんよ。それから灯りを用いないで下さいな、お願い致します」
「ああ、分かった、そうしよう」
イザナミは早速ボロの衣で体を隠すようにして通路に出て、奥へと歩き出した。そのなさりようは暗闇であることを忘れさせる確かさであった。
・・・
どうにも待ち時間が長くて仕方がないイザナギは、痺れを切らして見に行くことにした。御櫛の爪を一本折って、岩で擦って火を付け、奥へと歩み入る。違う世界のものを見ることに恐れを感じ、ここまで明かりを灯してこなかったが、イザナミを見つけた今は、どうしても気になって仕方がなかった。
緩やかな傾斜道を下るうち、通路は次第に広くなり、やがてうっすらと明かりが見えてきて、広大な芒ヶ原に抜けた。漆黒の闇の原にぽつんと聳え立つ台状の山頂に、真っ黒な御殿が建っている。大きな鳥居、そそり立つ長い階、また鳥居、そしてその奥に建つ御殿である。明かりはその御殿の窓から漏れていた。
そっと火を消して最初の鳥居に近づき様子を覗うと、酷くみすぼらしい形をした者が階の下で蹲って拝んでいる。ふとその者が後ろの気配に気付いたのか、振り返った。
イザナギはぎょっとして尻餅をついてしまった。
見るも無残なイザナミのなれの果てであった。
ボロの衣の隙間から覗くぎらつく目は、右目が飛び出て、額の頭蓋が露わになっている。衣はあちこちネズミに食われたような穴が空き、穴から見える体には所々肉片がへばり付いた骨であった。衣を押さえた左腕の脛肉には蛆がたかっていて、時折ポロポロ下に落ちる。
イザナミの貌色が急変して立ち上がると、頭や手足などに突如八種(多数の意)の雷神が生じ、鎖のように纏わり付き始めた。
「何としたことだ・・・」
イザナギはこのありさまに恐れをなしてジリリ、ジリリと後退り、くるっと後ろを向くと一目散に逃げだした。芒ヶ原を駆け抜け、坂を攀じ上って洞窟に戻り、暗い通路をあちこちにぶつかり、蹴躓きながら走った。
イザナミは直ちに追手を差し向け、自身も追いかけた。
「ふん、よくもわたくしに恥をかかせてくれましたね。逃がしはしませんよ、ほほほ、ふふふふふ・・・」
イザナミの笑い声がこだまのように洞窟じゅうに反響し、イザナギを脅かす。
イザナギは必死になって追手から逃れるために、身に付けたものを投げ出し、様々なものに変化させては時を稼いで逃げた。しかし、とうとうイザナミは千五百もの黄泉の軍勢を引き連れて追い迫ってきた。
イザナギはやっとのことで洞窟を抜けた境界の地、黄泉比良坂に辿り着いた。敵は足元まで迫っている。藁をも掴む思いでそこに生っていた桃の実を目にし、迫る軍勢に取っては投げ、取っては投げつけた。
すると、驚くなかれ、急に兵達は坂から退散し始めた。
「おお、桃の実よ、お前は命の恩人だ。これからは吾を助けたように、葦原中国に住む生きとし生けるものを、助けてあげなさい」
と告げ、大いに喜んだ。そして洞窟の入り口を大岩で塞いでしまった。
…黄泉比良坂とは松江市東出雲町の伊賦夜坂のことだという。これとは別に出雲市の北部にある脳の磯という海岸の洞窟も黄泉への入口とされる。魔除けや解毒、長寿の薬とされる桃は、太古の昔から穢れしものを遠ざける妙薬といわれる。…
追ってきたイザナミは、塞いだ大岩を、激しく叩いて威嚇し、
「わが愛しの君よ、汝がこんな惨い仕打ちを致すのなら、わたくしは汝の国の者共を、日に千人絞め殺してやるから思い知りなされや」
「ふふふ、それならば吾は日に千五百の産室を建てることに致そう」
こうしてこの時から一日に千五百の人が生まれるようになったということだ。
黄泉の国から帰ってきたイザナギは、穢れを落とすために筑紫の日向で禊を行なった。この時投げ捨てたものや洗い落した体の垢から様々な神が生まれた。そして顔や目鼻を洗った時に生まれた神々こそ天照大御神、月読命、スサノオの命の三柱なのである。
淡海(淡路島)に帰って来たイザナギは三柱の神に治めるべく場所を定めた。天照は高天原、月読は夜、スサノオは海原と命じた。こうしてそれぞれが仰せ付け通りに治め始めていたところ、スサノオだけは髭が胸元に垂れるほどの歳になっても言うことを聞かず、泣き暮らしていた。
やがて海原には魑魅魍魎が住み着くようになり、波は荒れ狂い、嵐が起こるという状況となった。
そのことを知ったイザナギは、
「どういう訳で汝は吾が命じた国を治めず、泣いているのか」
と、問い質した。
「わたくしは母イザナミの命がおります根の国(黄泉の国)に行きとう御座います。母に逢いたく思い、悲しんでおります」
と答えたことが、イザナギの逆鱗に触れた。
「お前などどこへでも行ってしまえ、二度と吾の前に顔を見せるな」
こうして追放されたスサノオは、もう会えなくなるかもしれない兄弟達に別れの挨拶に向かうことにした。
スサノオが天の浮橋を辿って高天原に登っていくと、山や川の生き物達が何に驚いたのか鳴きとどろいて、高天原の国土は地震に襲われた如くとなった。姉の天照は弟スサノオが高天原に攻めてきたのではないかと不安になり、戦の準備をしてスサノオを迎えた。
スサノオは、
「邪な気持ちできたのではなく、母のもとに旅立つゆえに、姉上達に別れの挨拶に来ただけで御座います」
と弁明したところ、天照は、
「それを如何にして信用出来ようか」
と、問い質す。
そこでスサノオは、
「潔白である事をこの天安川を挟んで、神に誓いましょう」
と言い、天照に、己が武器の十拳剱を渡した。
「汝の言うことに偽りなくば、この剱を使って清き御子が生まれる事であろう。そして偽りあれば吾の御子の方がより優れていることであろうぞ。その時は汝を御子達と供に追放致すから覚悟しや」
そこでまず、姉の天照がスサノオから受け取った十拳剱を、
――三つに打ち折って、身に装った玉が触れ合うよい音を立てて、天の真名井の水に浸けて振り動かして清め、それを噛みに噛んで、呻き吐き出す息から生じた霧の中から神が生まれた(古事記より)
三つに折れた剱から三柱の女神様が生まれになった。この三女神こそ宗像三女神である。
次にスサノオが主体となって天照の持ち物を頂き、同じ仕草が行なわれた。すると神は五柱生まれた。全て男神である。元種の持ち主となる方が親とされているから、初めの女神達はスサノオの子、後の五男神は天照の子ということになった。
スサノオの血を引く三女神は心が清く曇りがない、優しい女神達であった。それに比べて五男神は品がなく、実に出来が悪かったという。
こうして勝ち誇ったスサノオは自分の心の清さを鼻に掛け、暴れまわって姉を困らせた。それでもなお天照はスサノオを叱ることをせず、許していた。
…蛇足だが、この神の誓約はお互いの生殖行為を暗に示している。神様は両性具有であって、初めは天照が女役となり子を産み、次にスサノオが女役となって子を産んだという事である。神の子は生殖して直ちに生まれるとされ、すぐに清き井戸水に浸かり身を清める。…
当初は大目に見ていた天照ではあったが、スサノオは段々やることが荒々しくなって、天照の女丁まで殺めてしまった。怖くなった天照は天の岩屋の戸を開けてお隠れになってしまった。岩戸をぴったり閉めて、身を隠してしまったのだ。
こうして世は真の闇となり、下界の島々もまた闇に覆われてしまった。いつ明けるとも知れない闇夜が続き、大勢の神々のざわめきが渦巻いて、下界ではあらゆる災禍が巻き起こっていた。
月読が心配になり時より顔を出すが、月の光では限界がある。そこで八百万の神々が天安川の河原に集まって話し合った。皆がスサノオを嫌って、何とか天照に戻って欲しいと願ったのだ。
あらかじめ神意を占った通りに、皆手分けして準備を始めた。伊斯許理度売が鏡を造り、玉祖が勾玉を造り、そしてそれらの幣帛を布刀玉が岩戸の前に恭しくお供えした。
舞台が整ったところで岩戸に置かれた幣帛の前で天児屋が祝詞をあげ、天宇受売が、天の岩戸の前に来て桶を叩いて、
どんちゃん、どんちゃん・・・
大騒ぎしながら踊り始めた。女神だというのに肌脱ぎのあられもない姿。集まった神々はその光景が見えている振りをして、どっと笑いさざめき、囃したてた。
…ちなみに、この天宇受売の踊りがのちに神楽へと進化する。…
(これはどうしたことじゃ。吾が居ない高天原は闇夜のはず、一体どうして笑い合っているのだろう)
天照は不思議でならず、とうとう戸を少しだけ開けて外を覗いてしまった。破廉恥な恰好をして踊り狂う天宇受売の姿が目に入る。
「こ、これ、斯様に真っ暗だというのになにゆえ数多の者共が笑っているのか」
天照は岩戸の隙間から顔を覗かせ天宇受売にお尋ねになった。天宇受売の後ろにはあらかじめ作らせていた鏡を天児屋と布刀玉が支え持ち、控えている。
「あなた様より光り輝く神様が、ほら、この通り。この神様が世を照らして下さるので御座います」
天宇受売は八咫鏡を差し示した。鏡には岩戸から出かかっている天照自身の姿が映っている。
「何とな、その者は誰なのじゃ。吾より優れていると申すのか」
天照は鏡に映った自分の姿に驚いて、思わず岩戸を開けて出てきてしまった。すかさず岩屋の背後に居た神が、しめ縄を岩戸に渡し込み、
「天照大御神様、最早岩屋には戻れませんよ。わたくし達をお見捨てになっては困ります、どうかお戻り下さいませ」
天照は苦笑した。
こうして闇が滅び、天照大御神は高天原に戻ることになり、世に光が蘇った。
この時伊斯許理度売の造った鏡こそ八咫鏡であり、玉祖の造りし勾玉は八尺瓊勾玉だ。ちなみに天宇受売命など五柱の神々はこののち天孫降臨時に、爾爾芸命に随行した神々なのである。
スサノオには犯した罪の代償を支払わせ、髭と手足の爪を切り取ってしまわれた。そしてスサノオを高天原から追放したのである。
髭や爪は神々を生み出すのに使われるもので、スサノオの為に死んでしまった神や召使の後任者を生まれさせる為に使うものと思われる。また、そうすることでスサノオの神としての能力の大半を削いだのであろう。
スサノオの高天原での行状はこのように惨憺たる乱暴者として語り継がれた。




